Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ストイケイア

 

[στοιχεια] 名) 初歩、基本、天体  

 

Ga4:3

[ὑπὸ τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου ἤμεθα ] 対中複

「いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた」口語

「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」新共同

「この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」新改訳

”were in bondage under the elements of the world.”NKJV

3:19/4:9⇒ストイケイア   「病弱な」:Gal4:9 ストイケイアに付随してアススェネー「病気の」⇒「弱弱しい」つまり「病弱な」が敷衍された意味らしい。パウロがストイケイアを用いるときには必ず律法が関わっているように見える。「並んだ杭」が教条を指しているのでは?<なお、この節は翻訳難所に加えておくこと!14.5.6記>

現代ギリシア語では「データ」の意味で通用している

 

Col2:8

[κατὰ τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου]

「それは、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くもの」

「それは、世を支配する霊に従っており、」

「それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるもの」

”according to the basic principles of the world, ”

 

Col2:20

[ἀπὸ τῶν στοιχείων τοῦ κόσμου,  ] 名)属中複

「世のもろもろの霊力から離れたのなら、」

「世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、」

「この世の幼稚な教えから離れたのなら、」

”from the basic principles of the world, ”

 

principles 原則、主義、根本、精神

[στοιχειω] 「習慣的に歩む」

 

いくつかストイケイアの用例を見ると

パウロは律法条項を「基礎的」また「初歩的」としているが

それに加えて一般社会の精神を指しているようにみえる

後者については特にこの世の俗性を含んでいるのが明らかで

これは「ハモナ」に属することを戒めているように捉えられる

即ち、世の俗性のままに歩む「大衆」のようであってはならない

⇒ Rm12:2 /1Pet1:14  共に聖徒たる者の十分条件として語られている

 

⇒ 

ガラテア3:19と4:9 ストイケイア - Notae ad Quartodecimani

 

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聖徒らのコイノニアの中に「新しいもの」καινη κτισις が創造され、キリストの復活により既に存在を始めていた。2Cor5:17 

そこで旧いものは消え去るのであり、聖徒は世の倣いとは別に生きるべきであった。

 

所見

「この世の霊力」というのは、訳としては不自然ながら一面を伝えてはいる

ガラテア人には律法の生き方への批判として書かれているが、コロサイ書は必ずしもそうではない。

これはアブラハムがイヴリーで、ニムロデではなく神が建設される城市を待ち侘びたということにもつながる。<やはりヘブライ書はパウロ作といえる>

やはりハモナと粘土には関連があるかもしれない。

 

パウロモーセの律法体制についてこの語を用いたのは、キリストによってもたらされた新たな崇拝方式が霊的なもので地的物質的であることから超越したことを言う以上に、律法のもたらしていたものが、奴隷的であり、世のものの性質を帯びていたことを言うのであろう。それはキリストの犠牲に基く崇拝への予備的段階であり、イスラエルは『罪』に対処するべき「法の施行」の下での形式としては、この世の諸政府の支配と変わらない構造を持っていた。それでも律法そのものは、メシアの要件を示してもいたのであり、メシアがメシアであるために不可欠であることには変わりがない。だが、律法の要件によって義を証しされ『その義によって生きる』のはメシアただ一人となった。

その結果としてキリストの犠牲は倫理性の完全の域に達し、『命の』また『救いの』『傑出した君』となってその義を分配的に貸し与えた、それが聖霊の賜物によって印付けられた。その油注がれた者たち、まず『共同相続者』の群れを導き出している。従って、その『兄弟たち』は『世のものではなく』ストイケイアに沿う生き方を後にし、象徴的イヴリーとなり荒野に住む。そこで彼らは『居留者』と呼ばれるのであり、ニムロデからの俗世とは決別した生き方が求められた。それがレヴィの清さであり、祭司職への条件でもあった。ということか。

共同相続者らがメシアの達した完全性の分与に預かり、隅の親石の上に築かれなければならない。次いで千年の間に、その他の者らのすべてが、その完全なる義の分与を贖罪によって与えられる。これがアブラハムの裔の成し遂げる『地のすべての氏族が自らを祝福する』手立てであり、これが『奥義』と呼ばれていた。

この『奥義』は隠す必要がなく、屋上から叫んでも良いとイエスは言われた。なぜなら、悟らない者はどうあっても悟れないからだろう。

千年とは意外に・・

 

 

quartodecimani.hatenablog.com

 

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試論

米中西部のキリスト教には親イスラエルが増えている

それはイスラエルへの曲解した教理の影響があるからで、政治行動まで起こしているのだが、パレスチナ人への配慮などまるで感じられない。あれがアメリカの中東関与の動機なのだとすれば、キリスト教はいまだ十字軍のようではないか。

ヴィイームの言葉を表層だけで捉え、象徴として聞かないところから来ている。この点で、教会指導者は恐ろしく間違っている。

イスラエル民族は神の時刻表の役割を負っているやら

終末に地上再臨するキリストを見てユダヤ教徒の大量改宗があるやら

エルサレムが北から攻撃されるやら

本当に聖書を読んでいるのだろうか。

 

それらのキリスト教徒のイスラエルかぶれの酷さは反知性的にまで進んでいる。自分たちの行動がどんな実を結んでいるのかをまるで考えていない。これも大衆化のひとつの形とも言える。ともあれ、大衆宗教というのは程度が低くて頑なだから、考えて自省するというところがない。

現状でシーア派イスラエルアメリカが対立しているが

アメリカのイスラエル支持とスンニ派との連携がしばらくは続くとしても、シーア派との関係をどうにかできないと、中東での不安定さは解消されない。

もしイランとアメリカとの間で武力行使が始まってしまえば、ほぼ泥沼化して、当分は世界の負担にしかならない。僅かな箇所の空爆では済まない方向にもっていったのはイラン自身でもあり、これは諸国も理解しているだろうけれども、先鋭的で頑固な勢力は互いに譲らないだろうから、そう遠からず何かの変化は起きることになるのだろう。

 

しかし、宗教合同となると、かなりの問題が退潮すると思える。

大筋で和解する理由が今はまったくないが、その理由が生じた場合、最良のポジションを得るのはまず間違いなくイスラエルということになる、というより他に有り得ない。後押しをするのもU.S.A以外に適任者もいない。<その下地を造っているのか!>

三つの宗教の合同形というものを想定すると、見えて来るものがある。

 

宗教的派閥は解消される道理があり、これがGBの滅びを要請するかも知れない。

Rev16によれば、GBの滅びはGGの使嗾あってのことであるとも考えられる。

だから、やはり北王と野獣は早々に舞台を去るけれども、GBはGGが台頭するまでは長らえなくてはならない。だからRev16はあのような順に書いてあるといえる。GGの慫慂ほど終局を呼び込むものはない。そこまで焦点は絞られていたのか。

つまり北王の権威が瓦解することで政治的反目が退潮し、そこに北王が育てた獣が偶像化して宗教的反目も退潮するとすれば、大衆が何と言うのかは明らかだ。これこそ非知性的喜びになるだろう。

そこでGBの存在意義はおろか、抹消すべきものとされるのは自然な流れになるのだろう。それを主導する最適任者が居る。

 北王だけで聖徒攻撃ができないことで獣が必要となるか。6.26.19

もし黙示の順でゆくと聖徒の現れまで獣は現れないことにはなるけれども、これはどうか分からない。

北王は内部に崩壊の危機を幾つも孕んでいるので、今後は早急な行動にいきなりに出る恐れは常にある。堅固に見えるほどに弱い。

ひとつ意外に想えるのは、タイムテーブル上、北王も獣自身もGB攻撃に絡まないところなのだが、自分は何か間違っているのか。

 それから東から人を興すということの対型と再臨の関係、それが東からの王たちとがまるで異なること(これは単にバビロン征服を云うのか)。加えて、大いなるキュロスがどのように勅令を発し、残りのアリヤーの民が現れるのか。終末の時間の流れと捕囚解放期とでは異なっていて、アレゴリーが走馬灯のようで目くるめく。そのまえにシオン

 

 

 

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