Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記録22-10

 

 

・かなりの部分を書き換える必要のある訂正

✖”堕罪前のアダムは倫理的に完全であった”

 ↓

○”堕罪前のアダムは無垢であった”

試される以前は倫理的行動に至っていないので、試された後に『善悪を知ることで我々の一人のようになった』

アダムは完全な義の領域から堕ちたのではなく、倫理的決定のないままに過ごしていたところで試みに遭い、その決定を行わざるを得なくなった。結果アダムは倫理的行為者となって無垢の状態を終えたと見る方が創世記原初史や後の多様な記述とも整合する。

(義の完成者は死まで試されたキリストただ一人であり、悪魔が何の効力も持たない不滅性に入った。その「完成された義」が被造物に分与されてゆくことを神は企図し『天にあるものと地にあるものとを御子によって一つに集める』。そこでパウロがエフェソス書で云う「満了する定められた期間」という言葉に理解の光が当たることになる。神の休みに関わらず創造は続行されており、義認による存在の確保を以って終了する)

アダムが試みの際に神への忠節を示したなら、悪魔はその不忠節がアダムからも定められることになり、アダムは命の木を許される機会に与ったかも知れない。但し、試みが一度で済むかは不明。また、子孫を個々に問う必要は免れなかったと思われる。そうでなければ、何時までも創造物の忠節に疑問は残ることになり、神はそれを創造の七日の間に終了させることを意図されたと見ることは千年期の存在意義からも妥当である。

その子孫である現存した人類は善悪を意識し、倫理的行動を行ってきた。それでも『アダムと同じ罪は犯していない』というのは、「エデンの問い」に相当する試しに遭っていないことを指している。そこで「善悪」を二重に捉える必要があるといえる。

我々の日々の善悪の意識はアダム由来の『罪』の存在を知らせるが、神の御前に滅びに値する不義には至っていない。世の悪は人間に原因するが、それが神にとってその個人の裁定には至らない。

善悪を知るゆえに『罪』ある者を意識するが、まったく滅びに値する者ではない。その根拠は神に対する忠節の意志の不表示にある。それは現状での如何なる言動にも左右されない。神の裁きの試みは、アダム由来の悪行に対するものではないからである。

そこを聖書は『義』という言葉である程度の区別を行っているように読める。但し、『義』の意味は全くに固定されているわけではない。

それでも新約聖書での『義』は多くの場合に神の前での義認を指し、それは完成者であるイエス・キリストから、その監臨の期間中に信仰を抱いた者らに分与された。

聖徒らは契約に入った段階でアダムの罪を相殺されていることに於いて「無垢」ともいえるのではないか。

それ以外の者については『千年王国』の贖罪を必要とする。その義はアダム由来の悪行に対して赦しをもたらすものであり、アダムの罪そのものを赦すものではない。ここに『善悪』の二重性がある。

 

 

パウロが創造の第七日が残されていることを『神の休みは残されている』と述べ、その休みに入ることができることについて語っている。(Heb4:4-11)

これは神が創造の直接の業を休んでいること、また、その第七日の休みが「千年王国」に相当することを人間に与えた安息日が示しており、『わたしの休みに入らせない』と言われたのは、邪悪で在り続ける者らを荒野で神に逆らった世代が約束の地に入れなかったところに表されているが、これは黙示録に描かれる『666』を崇拝する者らが、「千年王国」に入らないことの予型でもある。

そこで神が休む第七日の期間中に人類はすべての魂を生殖により存在させ終え、その後に諸世紀に亡くなったすべての人々も復活してすべての魂が裁きを受けるよう取り計らったのであり、そのために悪魔はその試金石として用いられるべく、千年の後に拘禁を解かれる理由がある。これが全収穫の祝いとして祭りに投影されていた。

この過程はハグハ・スッコートに予示されており、七日の間収穫を祝って戸外の仮庵に住むが、それはあらゆる収穫の終了を記念する喜びの祭りとなっている。これには二つの意義の成就が考えられ、第一に黙示録第七章に存在する終末の千年期への人類の収穫であり、第二は千年期そのものを七日間で示していると捉えることができる。

それに加えて、この祭りに仮庵を畳んで過ごす第八日の二重のアツェレトが存在することは、最終的な収穫の終了が済み、遂に永生に至るべき魂が選ばれて集められ、創造の全体が終了したその先を予表するものであろう。これはパウロが述べた『第七日』には含まれないその先に位置している。ヨハネ福音はこのシェミニを『祭りの大いなる日』と記す。

象徴的なその日には倫理的存在者のすべてを試す悪魔はその役割を終えて、その他の同調した者らと共に永遠の滅びに至り、存在が無くなっていることになる。

ハグハ・スッコートの意味はまず第一に以上が考えられる。次いでベイト・ハショエバーはキリスト自身により聖霊の注ぎ出しの象徴であることが明かされており、それは血の流れた溝を清いシロアムの水が流れることにより、キリストの血の経路を辿って聖霊を象徴する水が流れ出すことを表している。その血は六日の水流で荒い流され浄められる。(ラビの間でもこれが何時行われたのか意見が分かれるが、イエスは公生涯最後のスッコートの第八日にこの水流が聖霊であることを教えているJh7:2・37-)

しかも、この水流は新しいエルサレムにも存在し、エゼキエルでは第三神殿からの死海を活かす水流としても描かれる。(しかし、これは決して人間には実現できない)

黙示録は新しいエルサレムからの流れとは明示しないものの、命の川の流れとして別に述べているが、両者の関係は明らかのようである。(ヘブライ文化では湧水、流水だけを「生ける水」"マイム イーム"とする)

聖霊の注ぎ出しは聖徒を活かし、聖徒の犠牲は全人類を活かす、これらの源泉はキリストの完全な倫理性に由来し、その血の流れた後に清い水が流れることになる。

ラビらによれば、その流路はエゼキエルとは異なり祭壇から南西方向に下っていたとされる。

 

 

・テサロニケの『真理を愛さないため』というのは、キリスト教徒であるのにイエス自ら言われた『出て行くな』『着いて行ってはならない』などの言葉も無視するのであるから、相当に聖書というものを知らない。それも福音書からしてそうあるのだから・・

 

 

・『もう一度預言しなければならない』とは、そういう意味だったか。

既にヨハネは証を行ったためにパトモスに流刑にされているところであったが、もう一度証の業を行うよう命じられている。それが困難なものとなることをエレミヤの同様の経験が知らせており、それは語るには価値ある優れた事柄ではあるが、同時にその肉体には迫害のゆえに棘となる。エレミヤが困難と反対する同胞からの迫害に曝され、命の危険を何度も経験したような事態を、終末の聖徒らも覚悟しなければならない。

巨大な天使は聖徒を招来させる何者かであり、契約の残りの1260日を導き出すところで幾分かキリストの要素が見られる。その与える巻物とは、終末の聖徒らが聖霊によって語る事柄を指しているのであろう。黙示録のその後の第11章は聖徒の死と復活に至る活動の記述で埋め尽くされているおり、それはキリストの公生涯と同じ長さとされる。

 

・聖徒の活動には、前段と後段がある。評議所へ引き出されるのは、その前段の結果であろう。だが、そこまででも論争になっている。しかも、その前段は宗教的論争であるらしい。即ち『三分の一』が受ける損害にそれが出ている。蝗となって人の全体を刺すのはその後であり、おそらくは聖霊の言葉の結果であろう。しかも、引き出されるのが為政者らの前であることからすると、宗教的論争は後に政治論争に置き換えられている。そのように誘導するのがやはりピラトゥスに訴えた宗教領袖に相当する者らであると思われる。

祭司長派は、イエスをローマの敵として訴えているが、それはほんの付け加えであったことを福音書は明かしており、税金を払わず別の支配者が居ると唱えたとピラトゥスに訴えたが、これは罪人処刑の権限がないための方便に過ぎなかったので総督はその罪状を信じていない。同様の事柄を他ならぬキリスト教界が行うであろうことは、その頑なさにすでに見えている。ピラトゥスがたまたま皇帝から任命された総督であったのに比べ、メシア殺害の罪科は宗教家には遥かに重かった。確かに大いなるバビロンは聖徒殺害の野獣の上に座す。どれほど宗教家に正義の感覚が有っても、これは小さな事では済まされない。聖徒の苦しみの二倍の受け分が到来するが、それを見て喜べる人は幸いなのであろう。今日も大いなるバビロンに居るその帰依者は、聖徒が去った後の騎兵隊の活動に覚醒し、そこを離れる機会を得るのであろう。頑なに残留する者は少ないが、だからと言って離脱する皆が聖徒の側に着くのではない。

 

・パリサイ人の質素さと民衆からの敬意 

サドカイ派の劣勢、魂の滅びを信じた 

エッセネ派の清めの儀式は特異であったので神殿祭祀から遠ざけられた。彼らは財産を共有し、霊魂不滅を信じる

ガリラヤ人ユダは哲学の徒だが、その派はパリサイ的である。異なる点は一切の人間の権威をみとめず、ローマに反抗し暗殺を行うこともあった。

パリサイが体制に根を下ろした背景には彼らの質素さがあるらしい。祭司長派やサドカイとは外見ですぐに識別できるほど違ったらしい。だが、人によっては「貧義」であったかも知れない。イエスは高価な外衣を着用していた事が知られており、それもパリサイ派からすると『食い意地の張った、葡萄酒に耽る男』との評価の背景を作った可能性も考えられはする。

質素な彼らの浄めにはパトロンを要したはずであり、パリサイ派の中にもスネデュリオンの議員のような富裕層も居て、仲間への資金援助を相当していた。その一端が多額の救援資金を持参していたパウロを迎えたヤコブの言動にも出ている。そこで問題は「ヤコブパリサイ派を人々はどう見做していたか」になる。

⇒古代史18:1

 

・『顔に汗してパンを食らい』の堕罪の結果から「聖なる安息」を見ると対照となっていることが分かる。マナの降下そのものが堕罪した人間であっても神の顧慮が有り得ることを教えるが、それ以上に安息日は堕罪の結果からの七日に一度の救済が意味付けられている。これは千年期が労働に埋没する『この世』と対照的であることを期待させるものでもあるらしい。

 

・『偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。』LK12;56-57

原形オイダー ドマゾー;知っている 見分け方 原形クノー;判断、裁く

場面はパリサイ人の招待により食事を共にしているが、その場でパリサイの習慣のように手を洗わずに食事しようとすることが咎められる。Mt15によれば、イエスの弟子らもこの件で責められている。この一件からその場は論争になってしまい、イエスは外に出た。それを書士とパリサイらが食い下がっていたところに、相当数の群衆が集まってきていた。そこからルカ書は12章に入り、重要な15ほどの例えが次々に語られていて、この一連の講話の場面は13章9節まで続き、さらに一つの例えが加えられるので、この場面での例えは16になる。

弟子ら(おそらく12人に)家令の話を終えた後に、群衆に向かって話している。

12章の最後の二つの例えを繋ぐ言葉となっている。

ルカ10-12章の時期を特定するのを妨げるのは、家令の話が含まれている関係で、マタイの変貌の直前との時期とは一致しない。マタイでは終末預言に含まれているので、二つの家令の講話については半年時期が離れていることになる。ルカが鋭意順を追って書いたのであれば、これらルカ独自の内容は西暦32年秋に当たり、最後のスッコートの後であることはルカ自身の記す9章の終りあたりの内容から分かる。消去法でゆくと神殿で殺されかけるハヌカーの前ということになる。

内容からすると、メシアとしての宣教は三年に及んでなお群衆の中にはメシア信仰に至っていない者が少なくなかったらしく、それは続く部分でピラトゥスが犠牲にガリラヤ人の血を混ぜたこと、シロアムの塔の倒壊を比喩し、ユダヤに近付く危険を予告していることが、メシア信仰に至らないユダヤ人の危うさを警告しているとみるべき理由となっている。

気候の件は、彼らの直感の鋭さと、ユダヤがメシアに遭遇している事の重大さとの対比として用いられており、続いて『なぜ自分で判断しないのか』は、獄屋につながれるという刑罰を避けるべきことを説いている。また、個人での判断に自信が持てず、宗教指導者らの見解に遠慮があったともとれる。

それは今日でも権威者に重い判断を委ねようとして、自ら確信を表明しようとしない一般人の姿に重なるものがある。確かにモーセの体制に在ってナザレ人イエスを認めることには障碍があり、その第一は当時の宗教指導者らへの遠慮がある。特に、この時期には彼らとイエスの対立は決定的であり、この年の夏には殺害を逃れており、そのためスッコートへは遅い時期にサマリアの山道を忍んで進んでいる。

少し意外なのは、パリサイ人が食事にイエスを招いたところにあるが、宗教家の中にはイエスとの折衷を図った者がいたのかもしれない。だが、その場はぶち壊しに終わった。イエスは『火が焚きつけられたのだから、これ以上のことがあろうか』と言われる。これをヨハネが黙示録でそのニュアンスを繰り返しているので、終末の聖徒の活動に於いて再現されるのであろう。ユダヤの裁きはこの世の裁きの要諦となろう。

 

・黙示録第12章前半の事象の時期

12章の初めから天界の光を纏う女(シオン)がひとりの男児イスラエル)を生む場面から始まっているが、その後の記述の前後関係は隔絶していることになる。

男児を生んだ段階ではシオンに危険が迫っており、聖徒らが公生涯を始めるとシオンはその間荒野に保護される。

男児が神の許に召し上げられるのがどの段階を指すのかに不明性がある。

『キリストの王国の権威が実現した』というのも、聖徒が生み出された段階であるのか、彼らが試みを経て世に勝利し、天に召される段階を指すのかも判り難い。但し、続けて『兄弟たちは、小羊の血と彼らの証の言葉とによって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもその命を惜しまなかった』とあるので、この言葉を中心に据えて考えると、王国の権威の実現とは、キリストの許に聖徒が招集された後を指していることになる。

それならば、聖徒らの忠節が実証され天界に召されたことで神の王国の権威が実現し、そこでミカエルと悪魔の間に闘争が起こり、悪魔とその一党は天界での立場を失い、地上に放逐されると捉えるべきことになる。

従って、『地には災いが来る』というのは、聖徒らが地上を去った後のことで、それは蝗の大軍による『第一の災い』からの三つの『災い』を言うのではない。

こう捉えれば、悪魔が地上に落とされることからの『災い』とは、神の側からの裁きということではないところの悪魔の邪悪さに由来する災いである。

もし、聖徒が天に揃うことにより悪魔がその立場を失うのであれば、女シオンに迫る危機は悪魔放逐の結果ではなく、それ以前の段階にあり、その時点で悪魔は天界の立場を失ってはいない。

結果として、悪魔が地に落とされることによって到来する『災い』とは、脱落聖徒と偽キリストによってもたらされるこの世の滅びへの一貫した悪影響と見做すことが適当であることになる。それは聖徒後の世界の人々を巻き込んで神の裁きへと無理やりにでも道連れにする『災い』であることになり、しかも悪魔ばかりは滅びを免れることになる。

悪魔との対立が度々記されるミカエルについては、聖徒招集が天使長の声とラッパの合図によること、またダニエルでも聖徒の復活に際し『ミカエルが立ちあがる』とあるところは新旧の聖書の一致するところである。

この黙示録第12章は、その以前の11章での聖徒らの活動を含んで、その前後関係に関わりなく幾つかの段階が次々に語られているとみるべきであろう。

その不明性の目的は、神の意図を世には正確に知らせないためであり、世界の人々を裁くための誤解させるための不告知であり、同時に何者かには知らせようとの意図が感じられる。

ともあれ、この12章ではシオンからの聖徒の誕生、聖徒らが忠節を示して天界に召される段階、そこで起こる天界での闘争と悪魔一党の放逐、それに起因して起こる悪魔の側からの働きとしての『災い』など、時間軸に拠らず次々に描かれていると見るなら、全体を整合させながら理解することができる。

 

 

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