Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

被造物と神の関係

もし、神が独立者を即刻処分したら彼らの主張の正誤が見守る者らに分からなくなる?このような問題ではない
「神の象り」としての自由がある以上、それが不正義であったとしても選択する自由は残る。そのように創られたのであるから。しかし、それはどうなのか?創造界が上手く行かないから間違いなのか?神はそのような危険もあるものに創られたのではないのか?その自由の中で神はすぐに自由な者らを罪せられるだろうか?(罪の宣告であったとパウロは言っているが)
この問題に決着をもたらすのは勿論「うまく治められるか否か」ではなく、神を被創造物がどう看做すか、つまり神に対する被創造物の愛ではないのか。
被造物が独立して神から離れたときに、それらの者は「神の子」ではなくなった。つまり神との親しい交友を失い啓示を失った。これはアダムもサタンも同様であろう。つまり、創造の意図から外れ、創造されたものとしての創造者の認知を得られなくなった。これは自由を行使する側の代償であって断罪か否かは少し脇に置く。
神はアダム以降寿命を与えて倫理的欠陥のある歩みに限界を設けた。それについては「死ぬようになる」との警告を与えていた。サタンに対しては寿命というものはないが、呪われた状態に入ることを決定した。これらは魂の与奪に関わることだったろうか?
アダムの子らである人が死ぬときには霊は抜けても魂までを損なうものとはならない。しかし「火の湖」に落ちるなら魂は無くなる。魂の喪失は復活を奪う。(アダムの救いについて論争があるほど聖書がはっきり述べない理由はここにあるのでは?)これが裁きであって神の裁きは魂の与奪に関わるものとなる。その根拠を与えるものがキリストの犠牲の死ではないのか?御子が死という模式的極限まで試されたことにより象徴的な意味での魂の最期まで神を愛して見せた。これは被造物の在り方を決定付けたのではないか?そこでサタンはイエスを誘惑する必要があった。まずパンの件で利己心を、落下の件で寵愛欲を、支配権では地位欲を試した。
エスは人となったことで、人が神を真に愛し得るかの問いにも答えた。そうなると人はアダムにも関わらず神を真に愛することができ、そうすべきことになった。こうしてアダムの有罪が確定した。とすれば、それ以上の存在であるサタンも当然有罪となる。(有罪という点で見れば)忠節でみれば第二の存在が第一者を愛し忠節を尽くすことにより第三位以下尽くそうする理由が生じる。イエスの死によりサタン以下独立者はまったく失墜し、アダムもシェオルにあって同様の結果となったろう。(アダムの死は彼をゲヘナには落としていなかったし、今も落ちてはいないだろう。しかしイエスの死によりゲヘナの裁きを受けるだろう)
アダムの魂はこのとき消滅の運命が決まったのではないか?それはサタンにしてもそうである。魂の裁き(ヘブライ概念と異なる)は千年紀後の神の裁きのときであり「火の湖」がそれを象徴しているのなら、千年期前にも一度あるのだろう。その時は生ける者らの裁きであり、千年期後は死せる者らの裁きとなろう。
千年期前に聖徒に対しては先に両者の裁きが小規模に起こることになり、それはペテロの「神の家から裁きが始まる終わりのとき」の言葉にしめされている。

疑問:イエスの死が証明したものは、自由な選択における何だったのか?


◆贖罪
「血による釈放」「血で洗って白くする」
キリストの魂はふたつあるか?
聖徒の肉に属した魂はそのまま霊の魂となるのか?
もし、キリストの魂がひとつなら、贖罪後どうなるのか?
そのままアダムの座に就くのか?それは「贖い」と言えるのか?
贖いとは支払われるべきものか、あるいは代替か?
支払いではないだろう。この件は魂に関する神の生殺与奪のの権限か関係している。(商売や身代金の例えは成り立たない)イエスの死によってアダムの魂の消失が決定すると同時にイエスはアダムの魂に入れ替えられた、ということではないか。そのようにしてキリストは「永遠の父」となる。つまり神の永遠の裁定において人類を保護する働きをし、救いの根拠となった。では、地上で死を遂げる必要はあったか。これは贖いそのものではなく、アダムの立場での忠節が可能であることが立証され、イエスがアダムの立場に相応しいことが同時に証明されたことを意味していないか。血を携えたのは、魂を携えたわけではなく、契約発効という特殊事情への承認を与えるための法的担保価値であったのではないか。これは命がその価値であったと言える。それは霊者としてではなく人間イエスの命として差し支えないだろう。そうなると「血」が表すものは魂のほかに命も別に含む?
霊と命は魂に比べるとフレキシブルである。しかし、魂が死ぬというのと魂は滅ぶというのでは異なり、滅ぶとは再生がない。死んだものであっても、魂さえあれば霊によって命を回復できるが、魂が滅んでいると復活はない。(魂は死んでも存在は保たれる)
エスは人間の命を永遠に断念された」というのはどうか?それならばニサン16日に生き返らず、いきなり復活し、弟子らはまったく姿を見なかったのではないか。しかもまだ血を携え入れてはいない。(しかし血によって蘇ったと(復活?)ある(話者確認!))



整理すると
・キリストの死
1.契約発効のための命の担保としての血
Heb9:15-22 Ex24:8 Heb12:22
2.律法と預言の封印→約束をアーメンとする
Act3:18 Act13:33 Luk24:44 Mt5:17
3.アダムの忠節が可能であったことの罪の立証
Rom5:18.19
4.サタン以下の・・→宣告→創造界の要
Heb2:8.9 Eph1:10.11.22 Joh3:35 Joh13:3
5.キリストのアダムの位置に就く魂の代替
Isa9:6
6.人類の罪への宥めの犠牲の奉献(血?魂?)
Mt26:28 1Tim2:6
7.キリストの大祭司への就任→贖罪の開始→聖霊下賜の承認
Heb2:10 5:9 7:25.28
8.聖徒の買取り
9.キリストの王権取得の認可?
Heb10:14
10.神殿の試された礎石
11.キリストを引き上げた契約の血
Heb13:20

?Zek9:11


ユダヤで繰り返された「救われる」は律法の呪いからの救いであった。そうすると、キリストに信仰を置かなかった世代はその世代だけが負った裁きがあったろう。そこに聖霊への罪があり、他の世代とは異なった。キリストを信ずる者は救われる、はまずこの世代に適用されるだろう。広い意味では最終的に人類全般に及ぶが、このあたり世の聖書理解は混濁し「キリスト教徒は救われる」となっているが、そう単純ではない。

聖書に無い:「命の贖い」「血の贖い」「魂の贖い」
贖う(リュトロン#)ものは常に「罪」(ハマルティア)対価は「魂」(プシュケー)#「請戻し」の概念あり
「血」は媒介
効果は釈放







.