.
観察される信仰上の問題点
・教理を学び納得することはそのまま信仰とはならない。
・信仰は何かを選び、何かを捨てる倫理上の選択のようである。
・信じ込んで良識的判断や個人の尊厳、文化や教養まで捨て去ってしまうことあり
・信仰を抱いても人の不倫理性は残り、道徳性の向上は表層的である
・教え手は知識を取り入れること、またそうさせることを目的としがちである
・正確な知識を得てなお、或いはその以後、人間関係に粗暴になることがある
(信仰はこの問題に意味があるか?)
・信仰を持ったと自他共に思えても、人間性や健康まで悪化させることもある
・信仰第一とばかりに家庭環境や交友関係を阻害、また破壊してしまう
・知識による優越感が自他を傷付けることが多い
・知識と信仰と業の関係が理解し辛い
(業ではなく信仰によって義とされ得るが、信仰は業に現れる)
・ある信仰者と別の教理の信仰者は、却って気まずい関係になり易い
・信仰の業に邁進することが常に信仰の強さであると思い、自他を裁きがち
・信仰をもつ事で「自分は義人」であると思い込み「神の裁き」を忘れる
・人は本来他者の信仰も不信仰も裁けないが、神の裁きを人が勝手に前倒しする
・高学歴の就業教育を軽視し、却って不適応な就業また生計の手段を失うことあり
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
原則的と思える事柄
・信仰とは本人自らの価値観を用いて神を支持する判断を下す事である
・信仰の有無の絶対的基準は聖霊の顕現を前にしなければならない
・神と子と聖霊はいずれも欠くことのできない明白な信仰の対象である
・将来のある時点で、聖霊に対する信仰は裁きの根拠となる
・誤解は別にして、人は思考価値観の自由あり、他者の信仰を裁けない
・信仰はアガペーの発露を人に求めさせる
・信仰と倫理性や道徳性は必ずしも関連しないが、向上を願うはず
・教える者は相手の信仰を目指し、一定の道徳性を強要しない
・教える者は相手の道徳性を躓かせぬよう注意すべき
・教える者は相手の信仰の自立を目指し、それ以後は励ましても立ち入らない
・聖書と整合した基礎が据えらたなら、後は自ら聖書を解きつつ進歩できる
(修正は集まりで可能)
・信仰を持った後は、倫理的価値観の向上を規則によらず自ら内的に努めるはず
(敬虔を装ったり、誇ったり、自分を高めたりはしない)
・信仰は自らの願望よりも神を優先し畏敬を示す
(ご利益信仰にはならない)
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
求道する者
・信ずべきは人や組織に非ず、対象は神・子・聖霊である
(この三者固有の極めて重要な意義を見失わせる「三位一体」ではない)
・神の意志を支持することが信仰であって、教理知識を学ぶことや礼拝ではない
(神の意志を知り、信仰はそれに協働することを願うことに見える)
・(教え手と共に)「教理の彼岸」に目を向けるべきである
(教理に込められた価値や無価値を自ら見極めないなら圧制される)
・人間ではなく神的な価値観を探り、再び自分の価値観に置き換え把握する
・神との関係性における自立を目指し、自らの信仰を築き「真の信仰者」となる
(確固として他者と異なるところを恐れず、且つ今は多様な他者を尊重すべし)
・但し、「教派」は信仰の一定の範疇に属するものである
(もし、大きく異なれば離れるも孤立も止む無し、或いは自らの集団を得るべし)
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
memo
聖徒は契約に与る間は「子」としての身分も仮のものであるはず
.