References ad Pascha
①Jh2:13 Jh2:23
②Jh6:4
③Jh11:55 Jh12:1
④Jh13:1 18:28 18:39 19:14
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[ユダヤ人の祭り]Joh
2:23(ペサハ)/AD30
5:1(?)/AD31
6:4(ペサハ)/AD32
7:2(スッコート)/AD32
10:1(ハヌカー)/AD32 (12/15)
11:55(ペサハ)/AD33 (3/31-4/1)
Jew3793 Nisan14=Gr : Apr1 Jul : Apr3 (太陽暦では比較的に遅かった)
[過ぎ越しの祭り]Lk2:42
[無酵母パンの祭り、すなわち過ぎ越し]Lk22:1
[過ぎ越しと無酵母パンの祭り]Mrk14:1
Mt4:12 = Mr1:14 = Lk4:14 (バプテストの逮捕後) =Jh1:43(三日目はカナの婚宴)
Jh1(シモンに会った翌日ガリラヤへ出発、その時フィリッポスに声をかけナタナエルが追随)
Jh4:3 シェカルを通ってカペルナウムへ (アンティパスの従者の息子)
Lk3:19 バプテストの逮捕
Mt11:2-バプテストの弟子の来訪=Lk7:18- 〃
Mt14:1-バプテスト刑死の過去エピソード=Mr6:12-
(Mr/Mt共にイエスがナザレを後にした後にこの件を記す
Mrはアンティパスがバプテストを畏敬していたことを記す)
バプテストの死の時期はイエスのカペルナウム定住より前
従って12使徒を召す以前になるが四人の漁師は従い
フィリッポスとバルトルマイ
カペルナウム定住の後で奇跡の給食があり『200デナリウス』の発言があるMr/Lk
Jhによればその発言者はまずフィリッポスで、そこにアンデレが加わる
Mr/Lk共に12の籠に残りを集めた 5000人であったとはMr
7つの籠に四千人はMr8:8/Mt15:37-
給食の奇跡の後は共に船に乗ってその場を去っていcf=Jh6
船の中でのパン種の一件Mr8:10/Mt16:5(マガダンorダルマヌタ)
Johとの共通ポスト
Mt14:22=Mr6:45=Jh6:15(bfPesacha32)
フェニキア方面からデカポリスを通ってガリラヤ湖畔に移動Mk7:31-
マタイは最も時系列が乱れ、ヨハネは枠は強固だが共通ポストが少ない
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使徒時代のポスト
年
36;マルケッルスがユダヤ総督に任命を受ける。前任者はポンティウス・ピラトゥス
37;3/16ティベリウス帝が77歳で病没、ガイウス=カリグラが帝位に就く、
マルルスがユダヤ総督に任命される
39;カリグラ帝は四分邦領主からヘロデ・アンティパス(4-)を追放
40;カリグラ帝がエルサレム神殿に自身の像を設置を命じて後撤回する
41;1/24カリグラ暗殺
大ドルススの子、クラウディウスが親衛隊の支持と元老院の了承を得て帝位に就く
Act11:28大飢饉(これは数年に亘る各地での発生を史料は示す)
ヘロデ・アグリッパスⅠ世、属州ユダエアの王に任命される
(以後、エルサレムに新城壁を建設)
(使徒ペテロの捕縛と脱獄、以後諸国を放浪、イエスの弟ヤコブの登壇)
44;ヘロデ・アグリッパスⅠ世のカエサレイアでの急死 Act12:20-
ユダエアは再びローマ直轄領となる
クスピウス=ファドスが以後7人の総督の最初として赴任-46
46;ユダヤ人のティベリウス=アレクサンドロス#がユダエア総督として赴任
その任期中にテューダの反乱があった-48(Act5:36→これは不整合)
47;アナニアが大祭司職を受ける-59
48;クマヌスがユダエア総督を拝命-52
ローマからユダヤ人が追放される Act18:2
49;クラウディウス帝が姪のアグリッピナと結婚
50;ネッロがクラウディウス帝の継嗣となる
ヘロデ・アグリッパスⅡ世がユダヤ王とされる-100
51;クラウディウス帝はガリオをアカイアの総督とする-52 Act18:12
52;ギリシア人フェリクスがユダエア総督を拝命-55
53;ネッロはオクタウィアを娶る
このころパウロのエルサレムへの最後の旅とカエサレイアでの拘禁 Act23:26-
54;クラウディウス帝が妃アグリッピナに毒殺される
ネッロ帝が即位、善政を始める
55;ネッロ帝、ウェストゥスと共にコンスルに就任
おそらく、フェストゥスがユダエア総督として着任 Act24:27
パウロのカエサレイア拘禁の二年が経過
59;ネッロ帝、母のアグリッピナを殺害
60;オリピアードに倣い、ネッロニアが創始される
(この頃パウロのイタリアへの出立とローマ軟禁の開始)
62;ネッロ帝、オクタウィアを離縁し、ホッパエアと再婚
イエスの弟ヤコヴの受難と死 監督はヨセフの孫のクレオパスが継ぐ
ユダエア総督アルビノスの着任-64
おそらく使徒パウロの釈放と最後の活動の開始 (ヘブライ書簡執筆?)
63;ヨセフスがフェリクスによってローマに収監された祭司団を救出するためにローマへ 翌年目的を果たして帰国
この頃(63-65)ケスティウス・ガッルスがシリア総督拝命
64;ネッロ帝、ネアポリスの大衆劇場で初舞台
7/18ローマ大火発生
ゲッシウス・フロールスがユダエア総督となる
65;カルプニウス・ピソによるネッロ帝追放策動が露見
66;ユダヤ人によるマサダ要塞の占領とエルサレム守備隊を殲滅
スッコートの時期シリア総督ケスティウス・ガッルスによるエルサレム攻撃と撤退
67;ネッロ帝はウェスパシアヌスをユダエア鎮圧に派遣
68;3月ウィンデクスの反乱にガルバとオトが加わる
元老院はガルバを帝位に擁立する
6/9ネロ帝の自害
69;(四皇帝の年)ガルバをオトが殺害して帝位を奪う
オトをウィテッリウスが倒して帝位に就く
ウェスパシアヌス帝の即位
70;ティトゥスによるエルサレム攻囲(ニサン)と陥落(アヴ)
このころ前グノーシスのエビオン派が興る
79;ティトゥス帝即位
ウェスウィオス火山の大噴火によりポンペイ市が壊滅
80;ローマは三日間の大火と伝染病に冒される
コロッセウムの起工
(使徒フィリッポスの殉教、於ヒエラポリス)
81;ドミティアヌス帝が即位 -96
グノーシスのケリントス派の勃興
92;このころベン・ザッカイによるヤムニア会議
聖典(旧約)22書(39)に絞られてゆく
94;このころドミティアヌスの迫害により使徒ヨハネはパトモスへ流配
黙示録の啓示を受ける
フラウィア・ドミティアのポンティア島への流配⇒「クレメンスのコリント書簡」
98;トロヤヌス帝の即位 -117
監督クレオパスの子シメオンの処刑
小プリニウスのビチュニアからの報告書簡
(書中ディダケーを連想させる句あり)
グノーシスのエルカサイ派の勃興
117;ハドリアヌス帝即位 -138
シリア出身でアテナイ監督のクワドラトス ハドリアヌス帝の行幸時に献書
(書中でキリストに癒された者の当時生存を記載)
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* 古代史20:197-に拠れば、総督フェストの死の後でアルビノス着任前となり62年にイエスの兄弟ヤコブが殉教したことになる
・コルネリウス訪問の時期について
Act12はヘロデ・アグリッパスⅠ世の死について述べるに際し『ちょうどそのころ』と言い始めて、アガボの大飢饉の預言がされた頃であることを指している。アグリッパスの死が44年に同定されているので、大飢饉の預言が行われたのがその頃であり、大飢饉が起ったことについてはヨセフスがファドスとアレクサンドロスがユダヤ総督であった間の飢饉を記している。それは44-48年に相当し、クラウディウス帝の治世が41-54年であったので、ルカの記述に信憑性を添える。
このアガボの預言を述べる章で、ルカはバルナバとパウロの行動も記載しており、やはり「その頃」としている。バルナバはキリキアのタルソスまで出向いてパウロを探し出し、シリアのアンティオケイアまで連れて来て『まる一年集まりをなした』としている。『クリスティアノイ』と呼ばれるようになったとしながら、『その頃』と続きアガボの預言を記載している。従って、アガボの預言の一年ほど前にパウロがアンティオケイアに移って来たことになり、それはペテロの逮捕と脱獄に先行して書かれている。一方で使徒ヤコブの殉教とペテロの逮捕は42年とされる。ペテロはその後諸国を旅してまわり、以後イエスの弟ヤコブがエルサレムのナザレ派を取り仕切る。他方、アグリッパスは獄吏にペテロ脱走の責を取らせて処刑し、カエサレイアに下ってそこに滞在し始めたが、彼の死はそこで起っている。
以上を総合するとアグリッパスⅠ世の死が44年で、その近くでアガボの飢饉の預言があり、それは44-48年にかけて発生した。アガボの預言の一年前にパウロがシリアのアンティオケイアに来ている。それは41年か40年である可能性が高い。ルカはアガボの預言がクラウディウスの時(41-54)に起ったとしているので、預言は40年以前と思われる。
従って、ペテロのコルネリウス訪問はその以前の事として記載されているが、その以前にペテロがなぜパレスチナ沿岸部を旅していたのかは語られておらず、たた『すべての地方を巡り歩き』とだけある。しかし、これはアグリッパス(37-44)の反対行動の前であり、記述順からすれば、まず間違いなくパウロの回心とダマスコスでの宣教の開始の後である。あるいは、サウル(パウロ)の迫害を逃れていたのかも知れない。記述順では、サウルがキリキアに戻っている間に、ペテロがコルネリウスを訪問したことになり、その後バルナバが彼をアンティオケイアに連れ出して一年が経過した後、二人はキプロスに旅立って数か月の宣教を終えたところで、エルサレム会議に参加している。
このようにルカの記述では、コルネリウス訪問とエルサレム会議との間には多くの事が書かれており、サウルのキリキア隠遁後から第一回宣教旅行まで一年以上が経過していることは分かるがそれ以上の情報が見当たらない。コルネリウス訪問の比較的すぐ後にペテロはエルサレムに一度は帰還して、他の使徒らや弟子らから『汚れた』と批判されている。おそらくペテロのコルネリウス訪問は41年のように思われる。アガボの預言とぺテロの逮捕が42年とすれば、その以前は『平和で信者の増える』時期に入っていた。つまりパウロが回心している。コルネリウス訪問が41年なら、パウロはアンティオケイアにおり、ペテロは心配なくエルサレムに出入りでき、しかもパレスチナ各地で信者が増え、聖霊降下を司るペテロの役割を果たす必要もあったろう。その過程で幾つかの癒しと復活の奇跡が行われている。この期間の初期にパウロに会った可能性も無くはない。バルナバが使徒らに引き合わせたとある。ガラテア書簡の口調からすると、エルサレム会議前にパウロはペテロに会っていて、その時には自分をパウロスと名乗っていなかったと思われる。エルサレム会議での迫害者サウルの改名はヘブライストを落ち着かせる効果もあったろう。
もし、ペテロのコルネリウス訪問が41年であれば、その後しばらくの内にアグリッパスⅠ世により使徒ヤコブが殉教し、ペテロも一度捕縛され、以後エルサレムを離れざるを得なかったことになる。ペテロの捕縛の時期は皇帝はクラウディウス(41-54)より前で、それを教えるアガボの預言がその以前の41年の前となり、ヘロデ・アグリッパスⅠ世の治世(37-44)には入っていた。パウロとバルナバのエルサレム援助の送付はその後のエピソードとして使徒言行録11章の最後に挿入されているのであり、数年後の事をそこで述べている。その飢饉がヨセフスの言うようにアガボの預言の三年後の44年以降であるなら、使徒会議もそれ以降になる。(この救援について57年くらいまでパウロは固執していたがヤコブはそれを必要としていたようには扱わない)
そうなるとペテロの逮捕は41年より前、37年より後になると思える。コルネリウス訪問は逮捕以前であるから37年以降に逮捕される前であったことになり、可能性としては34年以降44年まで幅がある。ただ34年というのは考え難いので35-43くらいが妥当で、アガボの預言が41年より前とするともう少し狭まり35-41の間にコルネリウスを訪問したことになる。もし、アグリッパスⅠ世のユダヤ人への人気取りが治世の初めであれば、コルネリウス訪問は37年以前でなくてはならない。そのときの皇帝はカリグラ(37-41)だが、その辺りの情報はまだ見つけていない。
カリグラの治世中にアンティパスはルグドゥヌムに追放され、皇帝と仲の良いアグリッパスⅠ世がその領地も得る。37年はアグリッパスⅠ世の栄転の始まりの年であった。
使徒言行録の記述の順が正しければ、ペテロのカエサレイア訪問は、その後幾らか長い期間を置いてパウロとバルナバの宣教があり、その後の49年の使徒会議があったように読めるが、関連性が強いのでコルネリウス訪問は44年に近い時期なのかも知れない。そうであれば、ペテロの逃避は早めにその必要が解かれたことになる。カリグラの治世中(37-41)にはユダヤは神を称する皇帝との間で大いに揉まれたので、アグリッパスⅠ世の即位はユダヤ人から喜ばれたと思われる。彼はクラウディウス帝の即位に助力もしており、ローマにもエルサレムにもその立場を確固とさせることができ、やがて大王の版図を越えるほどの領地を得てもいる。従って、彼は揺るぎない支配権を持つ絶頂期に急逝している。沿岸部の支配者らの懐柔と、「神の声だ」というユダヤ人の阿りにもそれは表れている。
やはり順番として、コルネリウス訪問が有って後、パウロらの第一次宣教があり、その後ヘブライスタイからの割礼問題が持ち上がり、使徒会議となったという流れは動かせないに違いない。その間のエピソードとしてアガボの預言があり、使徒ヤコブの殉教とペテロ捕縛が挿入されている。これらは35-49の間の14年間のどこかに位置を占める。
分からないのは、ディアスポラのエルサレム逗留がどれほどの期間であったかと、ステファノス殉教からサウル回心までのの期間がどれほどかである。後者については、その間にサマリアへの聖霊降下があったと見てよいように思える。
コルネリウスについては、ヘブライスタイが聖霊の注ぎが無割礼の異邦人に起ったことは認めたとしても、おそらくそれが水のバプテスマに先行していたこともあり、後に割礼の必要を説き始めたとも言える。この間のコルネリウスらの動静について分からないので、彼らがカエサレイアの集まりでどのような立場にあったのかも、彼らが帰国、あるいは次の任地に赴いたのかも語られていない。当時のカエサレイアには地元シュナゴーグはあっても聖霊注がれたエクレシアが無かった可能性も視野に入る。
一般的に言われるように、やはり49年がエルサレム会議であったなら、パウロのアンティオケイア到着は遅くとも48年以前である。そのころアンティオケイアでは『ギリシア語を話す人々』という言葉の下に、改宗異邦人やフォボメノイも含んで信者になっていた可能性は高い。ペテロがもし、ペテロがサウルの迫害を逃れて沿岸地方を巡っていたなら、それよりかなり以前になる。ペテロがステファノスで生じた迫害で散らされた弟子らをパレスチナに訪ねて回ったのは、信仰の世話をすると同時に聖霊降下の道を拓いていた可能性も無くはない。その線でゆくとサマリアに向かったようにパレスチナを巡っていたとも言える。その延長線上にカエサレイアのコルネリウスが有るとすれば納得のゆくことではある。(そういえば第一回宣教旅行で聖霊の注ぎの場面はあったか?はっきりは書かれていないが『弟子らは聖霊に満たされた』とある)
時期を見ると、パウロらの第一回宣教旅行の時期とペテロの国外巡回との時期が重なり、共に42年以降49年前になり、どちらもコルネリウス訪問以後になる。コルネリウス一行以後、どのように無割礼の異邦人に聖霊が注がれたのかの具体的で明確な記載はないが、エルサレム会議でのパウロの証言からすると、既に第一回宣教旅行で起っており、既にパウロらはコルネリウスの一件を承知しており、またアンティオケイアでも見られるところであったのであろう。であるから、ルカも特記せず、エルサレムからのヘブライスタイがアンティオケイアの異邦人に割礼を求めて来たという論理が成り立つ。従って、やはりコルネリウス一行への聖霊下賜は無割礼の異邦人の最初といえる。
一つ言えることは、ルカ文書はエルサレム荒廃の後に書かれたものであることを自ら示しており、ルカは何十年も前の事を記憶と記録に頼って書いている。そのため、チューダの件で思い違いをしていたところもあるので、厳密に文書を追っても却って真相から離れるかも知れない危険性もある。(しかし、ラバン・ガマリエルの発言のソースはどこからのものだったのか?これはパウロ後のルカの身の振り方によるのかもしれない。この点で晩年の使徒ヨハネがルカ福音は知っていたらしいので、ルカ福音については、96年頃には成立していたとは言えるらしい。つまり70年以降96年以前。ただ70年ぴったりでは絶対に有り得ず、80-96くらいでは)
・Act10の『イタリア隊』というのは当時の第一軍団「イタリカ」の意か?
しかし、この名称の軍団の創設はネッロにより66年とされるのでそれは有り得ない
おそらくコルネリウスは名前からしてもラテン系であり、生粋の市民でパトリキ出身か、あるいは後のセネトル候補ではないか?
このローマ人聖徒の名がローマ書に出て来ないところからすると、50-60年代には少なくともローマには居なかったらしい。フラウィウス・ドミティラやポンパエア・アグリキナのように史料に名はなく、この無割礼異邦人一門の動向は謎のままになっている。あるいは、居住地が部隊の派遣先でありローマに戻っていなかったのでは
「クリスティアノイ」の呼称については、外部がユダヤ教徒との区別に用いたものであり、ユダヤ教徒はエルサレムを中心に「ナザレ派」と、ほぼ蔑称として呼んでいた。イエス派内部が自分たちを指して「クリスティアノイ」と呼んだ形跡は第一世紀末まで見つかっていない。
使徒言行録が書き終えられたのは、サドカイを過去の存在としているところでエルサレム陥落後であることははっきりと分かり、ルカは25年以上前のことを以前の書き付けや伝承から探っているところがあり、そのためチュウダの反乱の時期にミスが出たのであろう。(だが福音書に用いられた資料には信じられないほど貴重なものが幾つかある)
その記述が62年頃のパウロの釈放前でプッツリと終わっているは、続編の必要がなかったからとも思われる。この書が記されて献呈された相手がテオフィロスなる(おそらく)高貴な人物であることは福音書と共に明らかで、その人物は釈放前後からのパウロを識っていたとすれば、献呈していながら突然に文章を切り上げるのは不都合でも無礼でもない。後の読者には残念ではあるが、本書はその役割を果たしたのであろう。使徒言行録の末尾や追加の写本の存在については聞いたことが無い
ルカについてパウロは無割礼の人物に含めているし、彼がガリラヤやヨルダン川向うの地理に疎いことが文面からも分かる。それだからと言ってまったく彼が非ヘブライ人とは言い切れない。現に彼の文章には度々ヘブライ語の用法が出ており、テモテのような立場にあった混血二世も相当数いたに違いない。彼はパウロの二度目の審理に於いても傍を離れず、眼病など持病を持つパウロに霊と肉の両面で支えとなり続けており、その最期についても最適な語り部となったと思われる。それは異国にあるヘブライ人を助けることではディアスポラでヘレニストが最適任者であったろう。彼は明らかにパウロより後まで生き延び、80年頃までは生存しその頃に使徒言行録を書き上げたと思われる。彼が安全にパウロの傍らに居続けたのは、その無割礼の中立的立場から来ていたことも考えられる。一方で逮捕されたテモテは割礼を受けている。