Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ものみの塔の思考パターン


まず、法人「ものみの塔聖書冊子協会」と「エホバの証人」と自称する信者たちとの間に直接の、また法的関係はない。
信者のほとんどは「協会」の会員ではない。信者がどの団体に属しているかと言えば、各地で法人化されていれば「会衆」ということになる。
信者は各国の支部にも属さず、支部は「その指導の下にある」との書面を各会衆に渡すことはある。それでも信者の個人情報を支部は把握し得る。
それゆえ信者に対し「組織」とされる名称は、法的なものではなく宗教上の指導の系統やその全体像を意味する。だが、信者は法的でない「統治体」を通して実質的に法人の「協会」に服す。
信者に対する指導は、宗教活動のみならず、日常の生活や教育、就職、医療などの多方面に仔細に行われ、それが正統性の証しと信じられる。
それらの指導には忌避や集団的圧力の強制性を持つものが少なくないが、深刻な弊害が生じる場合の多くは「戒律のようなものではない」とされ自己責任化される。参考⇒「市民から大衆へ
この頁では、教理からくる思考パターンの分析を試みるが、組織形態から来る異常性についてはこちらを⇒「洗脳に至る意識上の変化

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思考パターンの固定化
(赤色部分に矛盾と緑色部分に異議あり)
引用

エホバはご自分の組織を通して,世界中の兄弟たちに豊かな霊的食物を供給しておられます。多くの聖書的な諭しが,出版物を通して与えられます。それに加え,手紙や旅行する監督の指示を通して,会衆の長老たちに直接導きが与えられることもあります。羊たちはそのような方法で,明確な導きを得ているのです。

ものみの塔の指導層である「統治体」とよばれる7人のグループは『忠実で賢い奴隷』を自認して、自分たちが終わりの日に神からの教えを与える「神の経路」であると主張している。
その「経路」は、組織の世界本部から伝達され機能しているという。指導の伝達は体系化されピラミッドを構成し、信者の判断は上へ上へと委ねられ、教理を受け容れるか否かの判断は実質的に禁じられている。だが、指導しているはずの彼らの聖書理解は実際には浅く、教理も学識者からの情報を切り貼りしており、独自のものは年代計算、規則や禁忌事項の設定が主なものでしかない。三一の否定や十字架への批判は一般教会よりは程度が良いという程のことで、それに比較して幾分良いからと「神の是認」を主張するのは論理に飛躍がある。

このような階層的奴隷化を信者が容認する理由は『永遠の命』を最重要視させられているところで脅されているからであり、本来キリスト教が最重要視するものは「命」ではなく「神と人との関係性」、即ち「忠節な愛」であるのだが、ものみの塔の教理では、信者は「神の裁きを生き残る」ことに最大価値を置いてしまい、単なる「ご利益信仰」に堕している。それはキリストや初期の弟子たちの示した精神とは真逆である。しかも、浸礼を受けることで既に神の是認に在るものと仮定して考えることが習慣化している。彼らの目当ては「楽園で永遠に生きる」ことに他ならず、自己利益を求めて神を自分の奉仕者としており、神への支払いは信者の道徳性と伝道時間となっている。他者との関係性は常に同じ「信仰を持つか否か」によって計られ決められる。したがって、人間の評価に型よりが避けられず、倫理的には社会での孤立を余儀なくされることになるが、孤立を正統の印として望む傾向が強い。


エホバの組織から与えられる指示は,奇妙で異例なものに思えるかもしれない。しかし,わたしたちは皆,同意できるかどうかにかかわらず,どんな指示にもすぐに従うべきである。それらの指示に従うことは命を意味するからである。

ここでは個人の判断は神の思考力に及ばないことを理由に、間違える事もあるという人間の組織への盲従を命じているが、恰も「永遠の命」が自己判断の放棄に掛かっているかのようにすり替えられており、自ら倫理上の判断を下すべき人間が『神の象り』である尊厳への挑戦を行っている点で危険な教えである。同時に「エホバの組織」という名称によって、ものみの塔が神のものであるという意識を持つように誘導されているが、神がどのようにこの宗教組織と契約などの格別な関係を結んだのだろうか。むしろ神名を前面に立てることで、指導側の聖書認識レベルが低いことに信者が気付かぬよう予防線を張る意図が見えている。信者には「一度、真理を知ったのだから、他の情報は必要ない」とし、「この世のあらゆる情報は悪魔に由来し危険がある」と教えて情報を遮断しようとする。これを「洗脳」と呼ばずして何と言うべきか。聖書中に人の判断を放棄させることで神が導いた記録が有ったろうか。しかもこの指導部は「自分たちも不完全だから間違える」と言い訳することがよくある。箴言3章6節はむしろ、それぞれの個人に、神は奇跡など何らか仕方で意図を知らせ判断させているのではないか。それが聖書の神の特質ではないか。それを間違えもする人間の導きと同列に置くべきか。アリストテレスの奴隷観


・「聖書はイエスの弟子となる人々に、二つの種類の希望を差し伸べています。一つは、イエスと共に天に復活して、神の王国の成員となるという見込みです。しかし、その見込みが差し伸べられるのは限られた数の人々です。しかし、その他の数えつくすことのできない数のクリスチャンには、それとは異なる希望が差し伸べられています。彼らは、大患難を生き残って、神の王国政府の支配を受け、この地上で永遠の命を楽しむという見込みが差し伸べられます

二つの種類の希望ではなく、天に集められる『聖徒』が『初穂』として先に贖われ、地の『信徒』の贖罪と千年支配を為すのであって、終末期に二種類の希望が叶えられるかように信仰を促すのは間違っている。終末は聖徒らの厳しい裁きと、この世から聖霊への信仰を懐く信徒を集め出す時であり、どちらもご利益とは関わりなく、それぞれに内面の倫理が問われることになる。
それでも最終的に双方が創造物としての『神の子』に復帰することを目指すものであり、天と地のすべてのものが御子を要として、神の前にひとつのオイコノミアにまとめられることが知的な全創造物の希望である。「永遠の命を楽しむ」というのは「ご利益信仰」であり決定的に欠けるものがある。それは神と他者への関係性であり、アガペーやヘセドと呼ばれる絆の確立である。それがあればこそ永遠に生きる理由は自然に生じるが、永遠に生きたいから信仰するとすれば、その肉的動機は逆であり、永遠は重荷となり、いつしか意味を失い飽きる。神の創造の業は、全ての創造物がキリストによって復帰されることにあるので、そこには神と互いの回復という偉大な希望がある。そもそも、全能の神が全人類に永生をもたらすことははじめから可能である。だが、神がそうしないのは、個々の人が他者とどう生きてゆくかを決定することを委ねているのであり、それによって誰に永生を与えるか、それが「裁き」の要諦であり、世の各人はおしなべて内面を問われるのであり、欲を誘うような「希望が差し伸べられている」わけではない。Eph1:10/Co1:20


・彼らは、大患難の前の極度の圧力が加えられる時にも、イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせながら、エホバの義の基準に従い、証しを行ない、野獣の崇拝を避け、戦争に行って人を殺すようなことをしません。

「大患難の前の極度の圧力が加えられる」のは『聖なる者ら』について、つまり『聖霊で油注がれた者ら』であって一般の信徒ではない。むしろ信徒らは苦境にある聖徒らを援助する側にある。
ものみの塔の教えはこの関係が逆転しており、「油注がれた」と主張する指導層は安泰な場に居て、証人一般を様々な危険や困苦に曝している状態にある。
一方聖書中での『聖なる者ら』については、『新しい契約』を最後まで守るか否かに関わるものであり、その結果『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』ことになる。これら脱落する聖なる者については、タラントやミナ、また引き網や盛大な結婚式の例えにも語られている。ものみの塔を導くとされる「油注がれたクリスチャン」が終末の迫害下で脱落者が出るという想定は教えられていないが、それは指導層の沽券に関わるからのようである。しかし、聖書には聖徒らの中から分離が生じ、王国に『入れない者が多い』という類いの聖句が明瞭に存在している。一方で信徒らについては、聖徒らの試みの『ひと時とふた時と半時の間』信徒の集団の方は地上の『荒野の場所』に守られるのであり、そうであればこそ苦境にあるキリストの『兄弟ら』に親切も施せる。したがって、ものみの塔の「油注がれたクリスチャン」は自分たちを省みることなく、むしろ必要のない重い頸木を聖徒でもない人々に課して、迫害の緊張感を持たせることで自分たちと組織とに頼らせ支配している。これは少なくとも聖書を知って居ればできないような仕打ちであろう。


ヤハウェやヤーウェといった形を用いるのは間違っているのでしょうか。そのようなことはありません。大切なのは,神の名を用い、それを他の人々に宣明することです。

使徒らや初期の弟子らは明らかに神名を発音していなかった。もし、そうしていたならば、神殿域外での神名の発音が禁じられていた当時のユダヤ教徒との論争が生じたに違いないが、そのような場面なく、パウロアテナイやリュカオニア人に対しても神名を用いていない(新世界訳参照) 彼らにとって知らせるべき名は、ナザレ村のイエスがメシアとして(神ではなく)到来されたということであり、その結果としてイエスの名は最も著名なものとなった。もし、彼らが禁を犯して神名を発音していれば、今日までYHWHの発音は保たれていたに違いない。現状でそうでないのは、むしろ神慮であり、神がそうできなかったわけはなく、エホバの証人の助けを必要ともしない。なぜなら、彼らもやはり正確な発音を知らないのであるから、「エホバの証人」という名称そのものに矛盾がある。神名は終末に於いて、真に聖霊を注がれる人々によって知らされるであろう。契約にない証人たちが全能の神の名を上げると言うのであれば、不遜の極みという以外にない。以上の理由から、彼らが神名を頻繁に掲げ、バランスを失ってキリストの役割にまで浸食させる教理を教えるのは、キリスト教界に於ける彼らの差別化のため、唯一正統を主張する理由づけとされても反論は難しいであろう。(詩篇22:22/ヨハネ17:26)
また、上記の主張に従い、神名を「ヤハウェ」と言い換えるとしても、エホバの証人には相当の労苦と違和感とを避けられないであろう。なぜなら、余りに「エホバ」が言い慣れているからであり、それは神聖な御名の別の発音が示されたときに即応できない証しともなっている。


エホバの支配権の基礎になっているのは、義と公正の基準をしっかり守ることです。聖書は、『罪の報いは死である』ことを示しています。もし、エホバが人類の罪深さを大目に見るとすれば、神はご自身の義の規準を無視することになったでしょう。そうなると、それは宇宙内で不法を助長し、宇宙の主権者としての神の立場を弱め、宇宙の永続的な平和を脅かす結果を招いたでしょう。それで、神は感傷に負けて人類の罪をすぐに許してしまうというようなことはできませんでした。

論理が奇妙な上に断定しており、この筆者は錯乱気味である。『罪の報いは死』である以上、神は「人類の罪深さを大目に見る」ことは既にしていない。また、創造の神は明らかに主権者として君臨することを望んでいない。そうでなければ「エデンの園の二本の木の選択」は意味がない。アダムは神から独立した自由な意思があり、神もそれを楽しみ創造物の名付けをさせている。また、全知全能であるのに、善悪の知識の木を監視することをしなかった。もし、神が主権者としての支配を望むなら、選択を許す理由なく、二本の木を設ける必要もない。神は自らの『象り』である知的な創造物を尊重することで自らを尊重しているのであり、人間の権力者のように(統治体のように)人々を支配する貪欲さを持ってはいない。その論議の以前に「主権」とは『罪』ある闘争者を規制するための「暴力」であり、歴史に明らかにように『罪』ない者にはまったく必要のない「汚れた」概念である。



・最終的にイエス・キリストと彼に従う油そそがれたクリスチャンがサタンと彼に従う者たちを滅ぼしてしまいます。ですから、私たちは、サタンとサタンの胤の側からは離れましょう。女と女の胤は最終的に勝利します。最終的な女と女の胤つまりイエス・キリストとキリストの兄弟たちの側に立ちましょう。そうすることによって神の王国の支配下地上の楽園に入ることができます。それは永遠の命をもたらします

人間はアダムの堕罪以来、等しく『この世』のものであり、『我らはこの世のものでない』と言い得たのは、聖霊によって清められキリストと共に『神の子』の立場を得た『聖なる者ら』だけである。したがって、信徒であっても依然として『この世』から出ることはできておらず、『聖徒』のように『新しい契約』によって仮の贖罪も為されていない。それにも関わらず信徒ら自らが『この世』のものではないかのように自分を見做すなら、そこでパリサイ的優越感を避けることができなくなる。まさに、エホバの証人が伝道で遭遇する、人々の無関心と冷たい反応の理由はこの無言の優越感にあり、自ら原因を撒きつつ刈り取っている。



・私たちの生き方に関して、エホバとサタンの間で論争があります。すべての人は、その論争に巻き込まれています。私たちが自分の人生をどう生きるかはエホバ神の誉れともなれば、恥ともなります。また、喜ばせることになれば、悲しませることにもなります。
私たちがこの論争で神の側にしっかり立つ時、エホバは私たちに天もしくは地上での永遠の命を与えてくださるでしょう。ですから、この重大な論争においてエホバ神の側をしっかりと擁護しましょう。

ヨブ記の解釈が間違っている。この書の全体を読み込むと誰でも分かりそうなものではあるが、その結論は、ヨブが自分の義を神の義より高めたことを悔い改めて撤回したのであり、サタンの糾弾も友らの審問も、ヨブの義を際立たせるための前座であって、本論はエリフの発言によって開始されている。つまり、ヨブは自分の正義によって神に何も与えることはできないし、彼がどれほど悪を為そうとも、神に害を与えることもできない。(ヨブ35:6-7)従って、ものみの塔は信者を仮想の「善と悪のゲージ」の上に置いてしまい、余計な間断のない緊張と苦しみを与えている。しかし、人は皆『罪人』であることに変わりなく、キリストは『人はあらゆる種類の罪や冒涜を赦される』と言われる。(マタイ12:31)そのためにこそキリストの犠牲は必要であったはずであり、サタンに対する糾弾はイエスの一度限りの死に至るまでの忠節によって既に立証されている。そこに『聖なる者』以外の誰も関わる余地がない。「宇宙論争」とは妄想の産物であり、聖書はこれをまったく示さない。



・あなたが崇拝を共にしている人々が,もし神の言葉を自分の生活に誠実に当てはめないなら,聖書はそのような人々との交わりを絶つことを勧めています。

新約聖書にある道徳規制は、一度聖霊を注がれた『聖なる者ら』がレヴィ族のような清さを示して『新しい契約』を全うし、『しみなく傷なく』キリストの前に立つためのものであって、聖霊のない信徒に課されるべきものではない。パウロは、聖徒としての相応しい歩みをしない無規律な者らの影響力をエクレシアが染まらないように避ける目的で幾らかの期間に交わりを断つよう命じたのである。神との契約に無い人々に聖徒の道徳規準を求めるなら、それは『罪』に対する過酷な扱いとなり、不自然に重い荷を人々に負わすことになる。まして、ヨハネが『挨拶の言葉もかけてはならない』と言ったのは紛らわしいグノーシス主義者がエクレシアに侵入することを避けるためであった。それは家族、友人との交友を徹底的断つという無慈悲で悪魔的行為を命じてはいない。むしろ『医者を必要とするのは病人』であり、ユダヤ教の会衆から排斥された罪人に寄り添ったキリストの精紳とは逆のパリサイ派の傲慢を避けるべきである。



・大抵の宗教組織は悪い実を生み出してきました。
しかし,真の宗教はそのような崇拝の方式のすべてとは対照的に,人をさわやかにさせるものです。

比較による優越感は常に比較対象を必要とする。比較はいくら行っても絶対のものを保障しない。もし、他の宗教組織を度外視した場合、ものみの塔全体主義的圧制の最たるものであり、その「爽やかさ」とは自己義認による高慢な自己満足以外のなにものでもない。真の「爽やかさ」は、自らの限界を認める謙虚さによってもたらされるのではないか。真実な人の評価は、信仰し、または所属する宗派の如何によらず、その人の内奥によるもので神が裁かれるのは外面とは言えない。例え「真の宗教」を実践したからといって人の本質が変わるかどうかは難しい。むしろ、自らの信じるものを「真の宗教」と言ったところで不相応な優越感は避けられない。人間倫理の実態を無視しているからである。



・イエスはご自分の真の弟子たちが互いに対する,つまり仲間の信者に対する愛によって顕著な仕方で見分けられると言われました。(ヨハネ 13:35)このことの重要性は聖書の中で繰り返し強調されています。(ガラテア 6:10。ペテロ第一 4:8。ヨハネ第一 3:14,16,17)しかし,イエスは,神のおきてに対するわたしたちの従順によって示される,神ご自身に対するわたしたちの愛のほうがさらに重要であることを示されました。(マタイ 22:35‐38。ヨハネ第一 5:3)そのような愛を証明するには,神の言葉を研究し,生活に当てはめ,また崇拝を行なうために神に仕える仲間の僕たちと共に集まり合わなければなりません。

まず、アガペーは仲間にだけ示されるものではない。敵をも愛するほどに広げられるべきことをこそイエスは強調している。まして、アガペーの理念を捻じ曲げ、一宗教組織の集まりや生活上の生活規準への従順に入れ換えるべきではない。キリスト教の最も重要なアガペーと信仰という事柄を、何気ない文章の中で、宗教組織への「従順」に誘導する試みは極めて危険なカルト性を強く孕んでいる。『見える人を愛せない者が、見えない神を愛せるか』。まして神は自足しているが、人はそうではなく、様々な助けを要するところは、互いに変わらない。



・一見,信仰の点では熱心で,明らかに神との良い関係を持っていると自分では考えていたものの,神の是認を得るには実際に何が求められているかを理解していなかった人々について,使徒パウロも書いています。(Rm10:2-4)
もし,わたしたちが神のおきてを余り重要でないものとして扱ったとしたなら,わたしたちは神との個人的な良い関係を持つことができるでしょうか

まず、キリスト教徒に与えられた掟は『愛すること』であり、それは自発的であってはじめて示せるものであるから、規則化された時にアガペーは消えてしまう。これは律法主義の罠である。#
ものみの塔エホバの証人に求めている様々な規則は、愛も憐れみも型にはめて実質を失わせるものになっている。
まして、それを行う動機が「楽園」に入ることであるのなら、利己的であって、正反対の精紳を抱いていることになる。
それに加えて、契約にない者が「神との個人的な良い関係を持つ」というのは個人の力では不可能なことで、却って人には重荷を負わせることになる。なぜなら、聖徒以外の全ての者は、イエスと彼らからの千年王国に於ける贖罪を受ける必要がある「罪人」であることは、どんなに努力しても変わらないからである。
ものみの塔は、「楽園」に入る事を重要視させる余り、神の裁きの意向を無視しているが、これはまったく自己中心のご利益信仰である。人に問われるのは善行の報酬としての「願望」ではなく、愛や信仰という「倫理」だからである。


#(パウロがローマ10章で述べているのは、ユダヤ教徒がトーラーに従う事を指して言っており、『キリストは律法の終り』と言っている。また、教条墨守ユダヤ教徒が『自分の義を確立しようとして、神の義に服さなかった』ともそこで指摘している。従って、この熱心さが神の是認をもたらすわけでは無いという論題で、このパウロの句を挙げて「神のおきて」を守ることが神の是認をもたらすかのように述べることは、まったく正反対の事になる。)

・どの宗教組織が正しいかはどうすれば分かりますか
その教えは何に基づいていますか。それは神から出ていますか。それとも,大半は人間から出ていますか

この設問そのものに無理がある。現状で「神から出た」正しい宗教というものが確かにあるか否かという前提はまったく吟味されていない。
だが、どれほど聖書に従ったからといって「正しい宗教」が存在するようになるわけではない。それは人間の能力を遥かに超えたことで、決定的なものが欠けている。
それが即ち神の側からの働きであり、『聖霊』の奇跡の賜物であり、それは終末に為政者の前で『論駁できない』ほどの聖霊の言葉を語ることが予告されている。その時には唯一正当な宗教も存在すると言える。しかし、あらゆる人間由来の宗教組織にはそれがないことは歴史が証明している。聖霊降下はなお将来のことであるに違いない。そこで、この設問にはヒステリックな自己義認が見られる。



・そのような愛は人種的,社会的,国家的境界を越えて人々を引き寄せ,純粋の兄弟関係に引き入れます。この愛はそれほど強力ですから,それらの人々を本当に異なった存在として際立たせます

「兄弟」という言葉を信徒同士に用いているところは、他のキリスト教と変わらないが、旧約の「同朋」また新約の「兄弟」とは、イスラエルと改宗者、また異邦人聖徒を指している。殊に終末に於いては、脱落聖徒らが背教し甚大な被害をもたらすこと、また、その中の主要な者が『不法の人』となり、背教がクライマックスを迎えることを予期するなら、『偽兄弟』の危険は非常に大きいことになり、キリストと共同の相続者らである聖徒関係以外で「兄弟」と呼ぶことには大きな危さがある。単に、一組織の成員の友誼と一致の促進のために「兄弟関係」などと吹聴することは、身の程知らずな上、「キリストの兄弟ら」によって世が裁かれる事の重大さの認識が欠けている。



・忙しくて報いの多い生活を送っており,人々を救うために従順に仕えていることを自覚して深い満足を覚えています

自分たちの活動が「人々を救うため」であるというのは、その活動によって命がもたらされると言っていることになるが、使徒時代の救いは聖霊を受け聖徒になることを意味した。仮の義認をもたらしたからである。そこで、今日「水のバプテスマ」を受けたからといって、そのまま「救い」に入ることはけっしてない。終末の裁きのときに聖霊に対して信仰を働かせることが裁きを通過させることはあっても、一般人の救いは千年王国を通すものである。エホバの証人の言う「命を救う業」という言葉には、その無理解、また社会一般への蔑視が含まれている。それを肥やしに自らの満足感を得るとは、まことに的外れであり、また、自らを神の裁きに於いての危険を高めることになりかねない。

年若い子供を持つ親の皆さんは,開拓奉仕を生涯の仕事とするよう子供たちに真剣に勧めることができます。宣教に対する親の積極的な態度があれば,子供は生活の中でエホバへの奉仕を最重要事とする必要があることを銘記するかもしれません。

宣教師のように有給の正式な仕事というわけではなく、生計の維持のできない活動を「仕事」と呼んでいる。これは組織側に都合の良い無給労働の隷属を生涯続けるように「勧める」ことであり、同調圧力の下で、それは自発的決定とされる。この場合、最も無責任なのは実質の使用者である組織側であり、承認や任命など行っているのであれば、生活が受ける影響について幾らかでも保障するかといえば、まったくしてこなかった。ただ誉めて、幾らかの名声を与えるばかりで、実質的受益者は信者を増やした組織以外にない。それを命を救う業と称して、神の裁きで保護される確約を請合ってしまっているが、その保障の危うさは、「世代」の期間の長すぎる経過と、開拓者の老化による生活の危機に露見している。もちろん組織は補助をせず、生活保護などの公的扶助に頼らせるところは、年代計算の信仰の全き敗北を物語っている。この子供の世代が老齢に達したときに、いったい誰が世話するだろうか。親自身も組織に生活を捧げてしまっていれば、為す術が残されているだろうか。正当な対価もなく働かせることは「仕事」と言うのも憚られるのが人を尊重するものの自然な思考であろうが、この組織の指導層はその良識もなく、「自己犠牲」の美名を用いて現代の奴隷制度を構築している。



所見
どうしてこのようなことが言えるものかと首をかしげるところが多い。しかし、個々の信者にそれを話したところで判断することは彼らに禁じられているので、その鉄面皮の前には何の意味も成さない。まるで人間相手をしていないかのようになってしまい。そのうちに近付きもされなくなるだけのことである。その動機は彼らの「命惜しさ」であって神への関心でも聖書理解でもないことがその行動に明瞭である。一旦信者になったなら、探求は止めなくてはならず、組織という他人の解釈にだけ身を委ねるよう強要され、個人で判断することは「背教」とされ禁止される。その他者の信仰への盲従が「一致」だとも。
ものみの塔の思考パターンは、「アリストテレスの奴隷観」がそのまま通用している。人を指導部の下に置く事に於いて、古代の奴隷制を体現している様は見事でさえある。
これらの文言は、聖書そのもののテイストとは明らかに異なり、分かりやすくするためか簡略化されデフォルメされて、まるで自分たちが神の経路であるかのような独断が横溢し、何々をしたければ何々をせよという、ご利益を前面に出したCMのようなところがある。殊に信徒の「命」を質物に取ったような脅迫には真の神には無い悪魔的圧制がはっきりと見えている。指導者の人格はこのようなのだろうか。神が求めるものは従順ではなく信仰であることはまったく明らかなことであるのに、その両者の大きな違い、180度も異なることを識別しないのだろうか。
人間の懐きやすい支配欲に「神の支配」の名を付し、指導層が聖人君子を装うことで信じやすい純心な人々に膨大な宣教努力をほとんど無償で行わせつつ、高い教育を遠ざけて愚民化し、死の恐怖を与えて集団の中に閉じ込めるという悪辣な行為を宗教、崇拝、敬虔と言うとすれば、外から見る人々はこれを何と言うべきか。

しかも、青年組織の統制的プロパガンダのようで、「野外活動」と「奉仕の精神」を強調するところはボーイスカウトを思い起こさせる。信者はいつまでも青少年のように倫理的決定を上層部に下してもらわねばならないのだろうか。
上記のどれも論旨に浅薄な印象を否めず、もちろん感心できるものではない。
この人々はバプテスマを受けることを「献身」と思い込まされて、以後は実質的には神でもキリストでもなく「経路」を自称する指導部の言いなりになることを神の裁きの要諦と信じ込んでいる。彼らにとっての最重要なものは自らの命の獲得にあり、聖書理解もその方向からアプローチしている。それゆえ神の意志を探るというより、自分たちへの神の善意ある処置を聖書に断片として探し出し、そこで満足するので、より深く探求するだけの気概は持たない。

その一方で、野外伝道に多くの時間を費やすことが正義になっている。しかし、この目的は然程に信者の獲得に重きが置かれたものとは言い難いほどに非効率であり、そこに指導部の別の目的、即ち信者の囲い込みの動機が見える。宗教奉仕を時間制にして拘束することにより、信者の時間と体力を宗教活動に消耗させる従順さを利用し、奴隷のようにこの宗教組織への依存を強めさせることで、信者の流出を防ぐという意図であり、それは本来聖句では成り立たない排斥忌避制度と共に、非聖書的拘束の証拠と見るべきものである。それであるから、非効率な時間を伝道に費やすことの方が組織を維持するには都合よく、信者の世俗の職を制限することでこの宗教への依存も高まる。仮に時折多くの信者が得られたにしても、それもまた都合は良い。

「常に忙しく奉仕に携わる」ことを奨励することで、また信者はそのまま伝道者であることで、個人としての余裕が削がれることになり、個人の時間を奪われるということは、他者への、特に顧みるべき身近な者らへの配慮を薄くするということに他ならず、結果的にその「利他的行動」は実際には自己満足的で薄情な行動に駆り立てられることになる。本来顧慮すべき人に与える時間を宗教活動に奪われるからである。これでは、この宗教の実践が人から慈愛を奪っており、本末転倒というべきであろう。

これは指導部の宣教方法の改善の必要を示しているが、彼らがそれを基本的に変えない理由は上記のように宣教による拡大だけを目的とせず、信者の囲い込みと操作性を保つ目的の方が重要だからであろう。個別伝道が「一世紀の宣教の型に倣う」というのは、今日の社会環境では実際的でもなく、言い訳にしかならない。その一方で、信者らへのインターネットによる外部への接続を戒めるというのは、まったく時代錯誤の中世キリスト教的暗黒の中に留まる姿勢を見せるが、この禁令を解除するなら、信者の相当数を流出させることになることは容易に予想される。この組織の「指導」とはそこまで脆弱なもので、信者自身の理性による比較や検証にさえ耐えらるものでないからである。

その一方で、基本は非効率に時間を消耗させることが上層部の権威を保つ習慣や思考を信者に植え付けることになる。そこに利用されるのが信者個人の神への良心となっている。しかし、集団教育が行き届いているために同調圧力が強く、聖書に無い事であれ、ほぼ同等の権威を持って語られるところは巧妙で、信者個人の抗えるところではない。これは人々の生活や人格を蝕む組織的利己主義であり、外部から冷静に観察すれば一目瞭然であり、彼らの伝道に良い反応をしない多くの人々が彼らに近付こうとしない直感的理由を与えるものともなっている。伝道への献身具合が逆に「制御された人格」を見せているからである。

また、聖書に従うなら『聖徒』に求められる道徳基準や伝道義務を単なる信者に課してしまい重荷としており、そこで裁きの時を前倒ししているために、クリスチャンという狭い救いを仮定してしまい、神の掟、規準などを守り「従順」であることが救いの要諦として繰り返され、そこで責任感ある誠実な人々から判断力や良識ある人格を奪い拘束する結果となっている。
だが、やはり人に救いをもたらすのは明らかに「従順」ではなく「信仰」である。理屈を捏ね回しているうちに混同したのか、やがて入れ替わってしまったのだろうか。従順が自己判断を求めないのに対し、信仰は個人の価値観による倫理的判断そのものである。

カルケドン・ドグマを脱したことは評価できても、信者主体の報酬獲得目的のご利益信仰であることは否めず、この宗派もやはり「キリスト教世界」の一部と言わざるを得ない。この頑迷固陋さには文章からし疲労感を覚えるほどである。

なお、「神とサタンの間に論争がある」と称する由来はヨブ記らしいが、それは論争ではなく、知的被造物の忠節な愛が試されているのであり、この件は既にキリストの忠節な死によってサタンの道を歩むことが誤りであることが一度限り立証されており、只の人が善を為そうと悪を為そうと、創造者が崇敬されるべきことに何ら影響しない。また、ヨブ記の本旨を把握できていないことも露呈しているが、これはヨブ記の全体を読み込めば分かることである。


新約での神名の扱いの提言

ヨブ記の結論

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引用


ラッセル兄弟が“真理”を見い出す経緯(触れ告げるから)、お墓がピラミッドの形だったのは知っています。
な ぜ組織はそれを公表しているのでしょうか?
実はこのことは、信仰を強めるものとなるからです。 エホバ神がどのように人間を導かれて、ご意志を成し遂げられるかが聖書の古代からの記述と見比べて見ても、理解できることに気付きます。
また、組織の謙遜さや正直さを見て、聖書の中で過去に用いられたモーセダビデのような指導者と比較しても、エホバ神が人間を用いられることを通して、ふさわしい特質を持つ人、忠節を保つ人、従順な人、謙遜な人を見い出すこと、また同時に教育もこの時期にされているように伺われます。

エホバの証人の聖書研究の仕方が、『教団の教えを…』と仰るが、聖句も引用されています。 あの仕方は教え方の一つの形なので、いつの日か知識として記憶に残り、当てはめて考えられる様になります。
学校で教わることは(あなたが思うのと)同じように洗脳だとは思いませんよね。一つの教え方です。
そして大事な点として、司会者を通しての研究はバプテスマを受けるまでです。(厳密には推奨書籍2冊まで)その後は個人的に研究する必要があります。
つまり基礎的な知識と独り立ちする霊的な生活の型を学び、円熟を目指しますが、それを怠る人は成長しません。

ラッセル兄弟は、基礎を築く(バプテストのヨハネがしたようにキリストの臨在に先立ち道を整える)のに用いられたと言えるでしょう。 その時の理解で行動したのです。だってその時に、正しい真のキリスト教が存在してなかったんですから、いきなり突如として現れるものではないのです目に見える奇跡は止んだのです
理解はラッセル兄弟から進んで、オカルト的なモノは一切排除しています。

さて、イエス・キリストは言いました。『知恵は、その働きによって義にかなっていることが示されるのです。』同じように、エホバの証人の聖書理解に従って当てはめると、聖書全体の整合性・調和を見ることが出来ます。他のキリスト教の教理の不合理さ、無理があるのが分かります。私は信仰で言いますが、エホバの証人こそ、真理を持っていると思います。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1461128774
文字色編者

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所見:
ストックホルム症候群か?
アブラハムと神の関係性の深さ、その契約に属する民とそうではない異邦人との区別が無い。そのため、19世紀のアメリカ人がモーセやバプテストのように用いられたとすることに躊躇は無いらしく見える。つまり、神との契約関係の重さは認識してはいない。
聖霊を注がれた初期キリスト教徒には「聖霊の賜物」が有り、それを持つ人には、その聖霊が「聖なる者」の身分を明かすものであることをパウロは再三述べており、ものみの塔もそれを教えていないわけではない。
にも関わらず、神の物事の扱い方を充分には検証していないように見える。神が行動されるときには、律法契約でも新しい契約でも霊の働きがあり、人の為すところを超えてきた。おそらくはコリント第一13:8を根拠に「目に見える奇跡は止んだ」と言い切っているが、その文言も文脈もそれを確証しない。むしろ、聖書を総体的に判断し、初期キリスト教徒の資料を調査するなら、ここまで「聖霊の賜物」を軽視することはできない。
神が働かれるときは、突然であっても純正な教えを提出される。聖書に書き換えの必要なく、そこに汲めども尽きぬ真理が存するのは神の著作であるためであり、聖霊有って初めて可能なことではないか。対して、修正を繰り返す教理は人間のものに他ならず、しかも聖霊の働く余地を「目に見える奇跡は止んだ」と言い切ってマタイ10:18-20などの将来の聖霊の活躍の場を無視することは、聖霊軽視という以上に恐るべき思想というより他ない。即ち「多少の間違いの混入は当然」で「聖霊は邪魔である」というに等しく、神の御手の働きを卑しめている。このような人々が『反駁できない』ほどの聖霊の言葉を語ることはまず無いであろう。「聖霊の賜物」をはじめから除外し、蔑視さえしているに等しいのであるから。
チャールズ・テイズ・ラッセルは、聖書に親しみ習熟した人物ではあったろうが、聖徒とは言えず、やはり只の人であり最期までそうであった。その推論は訂正を要するものであったところは、人間由来であることを証ししている。しかし、キリスト教界が異教や哲学にすっかり汚染されて、何ら浄化の兆しが無い中でのものみの塔の理解は確かに先進的ではあった。だが、指導者が交代するに従い、自分たちだけの義を掲げたところで神を押しのけたであろう。神に向かって「自分は正しい」と言ってよいだろうか⇒「ヨブ記の結論

また、個人的聖書研究が自立後も継続されるとされてはいるが、これは個人研究というよりは、他者の理解を追体験するためのプログラムをなぞるばかりで進展性のない「解釈の植え付け」というべき方式の続行のようにしか見えない。そこでは個人独自の理解や解釈は許されず、「伸びる芽は摘まれる」。つまり誰も指導者を超えてはならないと言って、幾らか詳しいだけのただの人が実質的に信仰の主人となっている。したがって、この宗派の人々も、やはり信仰において自己の尊厳ある決定を下してはおらず、他人の信仰を借りて生活している。その証拠に、返答に窮するような教理の矛盾を突かれると、思考を中断し、自分で答えようとはしない。つまり、そこで答えると指導者の教えを超えてしまうからである。そこで『信仰の主人』は誰かが見える。その対処法は答えに窮するような質問をする者への「背教者」というラベルを張る作業に黙々と入ることになる。それはまるで人格も思考力も失ったロボットのように人間性を欠き、反社会性を露呈するかのようにさえ見える。これは学校教育では見られない。ものみの塔は自らの組織の集会プログラムが提供されることを指して「霊的ライフライン」とも称するが、そのようなものが有るとすれば、それは聖書そのものを読むところが強調されるべきではないのだろうか。そうではなく、ものみの塔の教育プログラムが信仰の糧として必要不可欠であるとするのであれば、その信者は間断のない人間の指導を必要としているのであり、聖書だけでは足りない「何事か」を供給され続けるべき脆弱な種類の「信仰」を普段から持っていることになる。それは、日常不断に宣教に携わらせ、道徳規準に従わせるべき、生活の型を保つことが、それらの「教育」によって保たれていることを証拠立てている。つまり、それは聖書から直接に来るものではないのである。


これはモルモンなどにも強く現れる特質であるが、バプテスマを受けるまでの教育でそれぞれの宗派での生活の方式を確立して、人々を一定の「型」にはめる。そうすることが信仰の発露であると思い込むようだが、これは安直な安心感であり、キリスト教というよりは律法によって生活を規定するユダヤ教の様式を踏襲するものである。信者になろうとする者がその定式に従うことに安心感を見出しているのなら、それはまず間違いなく信者は自分で信仰を抱く勇気を持たずに神への恐怖から逃れようとしており、指導者層はキリスト教の自由闊達さを理解していないし、信仰者たちを「仕切る」ことを望んでいるであろう。そうすることで彼らも神への恐怖から逃れようというのだろうか。さて、その権威はどこからのものか?どちらも刹那的で且つ破滅的にしか見えない。他の多くのキリスト教の御多分に漏れず、彼らを支配するのは神への恐怖心というユダヤ的特質であろう。(ヘブライ12:18-23)⇒「キリスト教はご利益信仰か



これらの文章のエッセンスをまとめ、論点を煮詰めて提出し易いものにして置くべきか

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信徒同士で「兄弟」と呼び合うべきか
聖書中の例は、ギリシア語での判別が難しいところがある。
信徒を兄弟と呼んでいるのか、忠実な者をそう呼んでいるのかが判然としない。
しかし、全般的に見ると、キリストの兄弟同士ではっきりそう呼ばれており、また、その理由も提出されている。しかし、信徒についてはその理由がなく、実例も極めて乏しい。
従って、信徒同士が「兄弟」と呼び合うのは適切とは言えない。殊に終末に於いては「偽兄弟」が跋扈する様が予告されており、「兄弟」と呼び合うなら聖霊に対する敬意を欠くような結果も予期する必要が生じる。
ものみの塔などでは、その呼称を以って信者同士の平等性を演出しているが、実際にはヒエラルキアの確固たる宗教組織であり、却ってカムフラージュに用いられてもいる。都合によって兄弟と役職名によって使い分けるところに巧妙な強権の隠蔽がある。

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バプテスマについて
その意義を”み子の弟子として神に仕えるための,エホバに対する個人的な献身をしなければなりませんでした。クリスチャンの水のバプテスマにはそうした意味があり,これは今日に至るまで変わっていません。”(崇拝する)などと解釈しているが、ここには大きな誤解がある。
バプテスマの意義を「献身」としているが、そこでは信徒と聖徒の区別を見失っており、だれもが契約関係に入るかのように誤認されている。聖霊なく『神のイスラエル』に含まれない人々がどうして献身できるだろうか?また、その必要がどのようにあるのか?
三位一体という語も概念も新約聖書に無いように、キリスト以外にバプテスマと献身を結びつける語も概念も聖書にない。
『水のバプテスマ』はキリストをナザレ人イエスであると認め、その救いに信仰することを表すものであり、また『新しい契約』と『契約の使者』の到来へと人々を整えるものであったとは言えるが、もし献身に似た事柄を探すとすれば、それは旧約の祭司任命やナジルの誓約、新約ならば『新しい契約』に入るというところくらいにしか見当たらない。それは聖徒には当てはまっても、信徒には重すぎる頸木になるだろう。

総じて「ものみの塔」とは
どれほど差別化を行っても
プロテスタントを母体にしているところは拭い難い。

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×聖書に厳密に従えば清い崇拝が可能であるという仮定
×自派組織だけが是認されており、救いの経路であるという独善
×永遠の命を最重要視させ、保身欲求で信者を操作する
×永遠の命のご利益がこの組織から来るとする「置き換え」
×信者の永遠の命の価値が組織にあるとの錯覚を悪用し統制
×個人の見解の相違を認めず、中央が教理を信仰させる
×指導部への絶対的服従とヒエレルキーの順位順守
×長老など中間職の偏重と弱者への不公正
×信者から判断力を奪う、道徳生活指導
×社会への蔑視と差別化が正義の根拠とされる
×道徳律に従うことで神の是認を得るという反キリスト教
×没人格的な一致行動への強要
×行動の多寡による賞罰
×子供への鞭を使った人格蹂躙
×家族制度への介入と破壊
×規範に達しない者への処罰(律法的従順要求)
×精神疾患への無頓着
×神の意志は年代計算が可能であるという妄想的仮定
×忌避制度での指導部の保身主義と個人の権利の制限
×良心的脱退者までをも忌避し情報統制する
×信者集団の所有権の否認と財産収奪

以上は「ものみの塔」だけのものではなく、モルモンや一部のメソジスト、SDAなどにも散見される。
キリスト教として発想は然程目立ったところもない、アメリカ人のキリスト教という範疇で見ると典型的とも言える。
教理がどのような人格を培うかと言えば
尊大で道徳主義的な人格、新約聖書中のパリサイ派が非常によく似ている。
彼らの指導部は、ミシュナを編纂し神経質で些末な規則を聖書の周りに巡らした律法学者の鏡像のようである。

カトリックの「完徳」;究極的には神にのみ属する完全。修道者の場合、清貧・貞潔・従順の勧めの実践によって達成されるべき目標。

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ものみの塔が唱える諸問題の解決策というのは、「支配者の交代」と「神の善悪の基準に従う事」に集約される。つまり「誰が支配し、誰が善悪を決めるか」によって人類の諸問題は解決されるというのである。
そこで、自分たちの組織の中では、既に犯罪や戦争などの問題は解決されており、それが「現代の奇跡」であるともされてきた。
だが、これは業により正義であり、神の支配を受け入れるなら人間の抱える問題は解消すると言っているに等しい。実に「キリストは既に支配を組織内で始めている」ので、千年王国の支配もその延長線上だという。
だが、これは全く間違っているし、そもそもどんな人間にも不可能なことである。
問題は支配体制にあるのではなく、人間自身が抱えている「罪」にあることがいつの間にか忘れ去られている。それはキリストによる「贖罪」によるほかなく、それこそが「千年王国」の役割である。しかし、彼ら思考では「千年王国」とその後の時代が「楽園」によってつながってしまっており、ご利益の延長としか捉えられない。(聖書を精査すると千年期とその後は原理的に異なる)
従って、キリストの犠牲は既に信者に適用されてしまっており、「千年王国」に入る以前の裁きは通過できることになってしまい、ものみの塔を神の組織と信じることが裁きの要諦になってしまっている。
従って、終末の裁きの概念は曖昧にされ、ハルマゲドンと大患難の区別もはっきりとせず、ただ自分たち以外の一切の組織宗教を表すとされる「大いなるバビロン」の滅びが始まることを待っている。
これは巧妙に、自分たちの義を確立してしまっているのであり、既に裁きは組織に属すか否かで判断されている。そこで失われるのは、自らを神の意志と照らして吟味する姿勢であり、パリサイ派のように正義を言い張ることに於いて、どこの宗教とも変わるところがない。
信者の心理では、神の裁きを恐れることを回避し、自分が既に神の是認の許にあるので、永遠の命は確実だと信じるところに凝り固まらざるを得ない。その強い願望が「1914年からひと世代」を信じることと交換条件にされ、受け入れてしまったことに聖書の当該箇所からも、聖書やキリストの示す精神からも逸脱していることに信者を気付かせない。
「神の約束」と称される、架空の自分の「永遠の命」を守るために、組織を擁護し、その指導層を疑わないことの奴隷となって、様々な観点から聖書を観ることを拒絶することが「信仰による義」とされている。
当然ながら、これは神の前に人間の決め付けを信じる傲慢であるだけでなく、神の終末に於ける働きを、自分たちの行動と入れ替える冒涜であり、異常なほどに自分たちを高め過ぎている。彼らの皮相的な善的高揚感の源は、その自分たちを実際の道徳以上に高めるところからのものであろう。
その弊害は、この組織の周辺に見られる通りでありながら、それを情報統制の手段によって断っているのは、既に悪辣な域に達しており、神からも社会からも糾弾される時を待つのみである。信者はその真相に気付く時に、そのものが信じられないほどになろう。本来、知的な人々であっても、天賦の判断力を抑制され続けたからである。



この頁で彼らの教えられている珍妙な教理について考えてみた。
しかし、彼らの教理よりも見るべきは、教団の構造、即ち、指導者と信者の関係がどう構築されているかであり
これはカルト研究の碩学マーガレット・シンガー女史の優れた研究に目を見張るものがある。
⇒ 洗脳に至る意識変化(後半部分)
quartodecimani.hatenablog.com







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