Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

洗脳に至る意識上の変化

 

ストックホルム症候群

  ・人質が犯人に共感して協力をする

「人は、突然に事件に巻き込まれて人質となる。そして、死ぬかもしれないと覚悟する。犯人の許可が無ければ、飲食も、トイレも、会話もできない状態になる。犯人から食べ物をもらったり、トイレに行く許可をもらったりする。そして犯人の小さな親切に対して感謝の念が生じる。犯人に対して、好意的な印象をもつようになる。犯人も人質に対する見方を変える。」(Frank Ochberg博士 米)

  ・これは内心でのサバイバル術で心的外傷性ストレス障害であるとも

( “Crisis Narratives and Masculinist Protection”International Feminist Journal of Politics 17 (4): 595–610)

 

ストックホルム症候群とは何かについて合意されているわけでも、「診断」するための症候について明確な定義も無い。( Acta Psychiatrica Scandinavica 117 (1): 4–11. (January 2008).)

 

「被害者に、ストックホルム症候群という病名をつけることには反対する。これは病気ではなく、特殊な状況に陥ったときの合理的な判断に由来する状態である。自分を誘拐した犯人の主張に自分を適合させるのは、むしろ当然である。共感を示し、コミュニケーションをとって犯罪行為に正当性を見い出そうとするのは病気ではなく、生き残るための当然の戦略である。」(被害者Natascha Kampusch 2010)

 

<下線筆者;自分を不当に支配する者に「共感」する事は「戦略」と言えないのではないか?それが「戦略」であるのなら「共感」とは上辺だけのダミーであるはずで、むしろその自然な「共感」に被害者側の事態への適応が見え、それが洗脳の門口と同じものではなかったか?>

起きるための3つのカギとなる要素が識別されている 1.時間の経過、2.条件つきの接触、3.直接かつ継続的な虐待を伴わない不親切(FBIの1999年の報告書)

 

人の感じ方、考え方は本人が意識しないところで揺れ動いている。そこで誰かの想いを変えるためには、硬軟織り交ぜた対応に効果があり、抑制が長く続いている間に、幾らかの解放を感じさせるところで、人は比較の感覚を錯覚し、自分が支配され搾取されていても、その相手に慈愛を感じ取ってしまい、恩人に錯覚し始める。

例えれば、カルト宗教の新規参入者に無理な課題を押し付けておいて、ある程度の時間を経過させてから、課題から解放する、または達成させたことにするという方法によって、その参入者は比較の錯覚に陥り、その教団の姿を誤認させている。(その際には感動的な音楽を流しさえする)

 

 

「洗脳」という語の履歴

「1970年代には洗脳のリスクと潜在的に関連するような逮捕事例が豊富にある」()

11960年代後半には、アメリカ合衆国での新宗教運動(NRM)の作成、および若者によるこれらのグループへの改宗が劇的に増加しました。これにより、NRMの外部の人々、特に子供がメンバーである親は、可能な限り、これらの「逸脱したグループ」から「救済」するように促されました。これらの両親にとって、答えを必要とする重要な質問もありました。なぜ私は子供がそのような私自身と直接矛盾するイデオロギーを持つグループに参加するか?多くの人にとって、この質問は「洗脳」理論のアイデアに訴えることで答えられました。洗脳理論は、宗教に適用されると、NRMに改宗するという主張は、家族や友人によれば、改宗者が以前信じていたものと正反対にある一連の信念を信じるように強制的にプログラムされています。洗脳の理論は、米国とドイツの両方での第二次世界大戦の軍事実験にそのルーツがあり、1950年代には、中国のアメリカ人捕虜(捕虜)と彼らの共産主義への転向を説明する宣伝ツールとして使用されました。この理論は、1970年代に出現した反カルト運動(ACM)によって流用されました。

洗脳理論の正当性を説得力のある形で証明する信頼できる科学的証拠はありません。ただし、次のセクションで明らかになるように、それに対する多くの研究があります。それにもかかわらず、ACMグループは、NRMの操作的で不吉で、一般に不快な性質の軽蔑的な描写として引き続き使用されており、NRMには一般的に「カルト」という軽蔑的なラベルが付けられています。 ACMの「カルト」という単語の使用は、今人気のある用語の使用に大きく貢献しており、NRMは、信念体系を真剣に受け取るべきではない逸脱した、非準拠の、無意味で危険な疑似宗教グループとしてステレオタイプ化されています。用語のこの理解は、メディアや一般の人々にとって標準となっています、宗教グループが「カルト」と分類されると、彼らは即座に疑惑と不信感を抱いて見られ、彼らの行動に関係なく、この汚名を拭えません。。

このディスカッションでは、洗脳理論の歴史と発展を簡単に追跡し、1996年のカルト意識ネットワークの終焉まで、米国でのACMによる使用に移ります。 2人の若い女性、パトリシア・ハーストとエリザベス・スマートの行動を説明するために使用されました 、1974年と2003年にそれぞれNRMの支持者によって米国で拉致された。学者によるこの理論の反駁として有名な「カルト」の対戦相手であるマーガレット・シンガーによる、元の「カルト」メンバーの無実を公言するための使用があります。私は、ACMがNRMのイメージに不可逆的な損傷を引き起こしたこと、そしてそれが承認した強力な「プログラミング解除」手法は、「犠牲者」、または同意する大人が彼らの自由を選択して実践することを取り除くと理解できると結論付けます。

 

1950年代には、朝鮮戦争中の前述のアメリカ人捕虜の経験の一部を説明する方法として、「洗脳」(brainwashing)という用語が一般的になりました。

 ~Wikipedia

 

 

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オウム真理教元信者の洗脳からの覚醒>

教義に「万物復帰」というのがあるんです。堕落したことによって神のもとからサタンの元へわたった世の中を神に復帰しなくてはいけないという。それは、モノやお金を神に復帰させるという意味だけではなくて、堕落してモノ以下になった人間が、自分より高いモノを通して神の側に復帰していくと言う考え方なんです。

サリン事件が起きて幹部が逮捕されるころになると、尊師の言うことが急に変わってきたんですよ。それまでは「自灯明・法灯明」と言っていたのが、本当は「法灯明・自灯明」だと。それだけは絶対に方便でも許せないと思って。

人間というのはその教義が正しいかどうか確かめたくなるじゃないですか。内部では一般の本は読んではいけない事になっているんですが、いろいろと読んで自分なりに勉強しているうちに疑問に思うようになって。だんだん足が遠くなっていきました。

カルトを維持するためには情報のコントロールをしっかりとしないといけない

どうしても「人はなんで生きているのか」って考えちゃいますよね。やっぱり真理への憧れというのはあります。教団にはもう無いですけれど。

 

全国青少年教化協議会サイト<下線編者>   「カルト問題のゆくえ」

 

 

 ◆マーガレット・シンガーによるカルトを特徴付ける要素

邦題「他人事でないカルト」

"Cults in our midst"1995 Margaret Singer

<この著作は実例からの分析が豊富で的確でありカルトの定義付けが明確>

カルトを特徴付ける要素

1.グループの起源と指導者の役割

2.権力構造(指導者と信者の関係)

3.総合的な説得技術<心理操作等>

<シンガーはカルトを宗教だけに限らない視点を持つ>

・カルトは構造そのものからして独裁的である。

・カルトは革新的で排他的であるように見える

・カルトは二重の倫理基準を持つ傾向がある

 

カルトは信者の行動をコントロールするという点で全体主義的であり、全員を包み込む。世界観に於いて熱狂と過激な行動を惹き起こすという点でイデオロギー的にも全体主義的である。

その集団が目標とすることの為に、信者の捧げる時間、金、体力などを増大させることをカルトは信者個人に要求する。

信者には、それまでの生き方を止めさせたり、改めさせたりすることを要求するカルトは多い。

信者が何を信じ、何を考え、何を話すべきかまでを指図され、どんな問題も白と黒に割り切る観点に立つことをカルトは奨励する。

カルトはすべてが同一主題の変奏であり、煎じ詰めれば、その主題は信仰とは何の関わりもない。すべては指導者の欲望、気まぐれ、隠された目論見に役立つ道具ともなり果ててしまう。

カルトというものを理解するためにはその信仰ではなく、構造と活動内容とを検討する必要がある<下線は当筆記者 ;教理にではなく「構造」にその組織の偽りない目的が見えるものであり、カルトは様々な理由を付けて指導側が強力に支配し、個々の信者は奴隷的身分に置かれ上層部を批評することも許さない体質を表す。その目的は信者支配であり、教理はそれを具体化する道具である>

 <教理や思想は人を洗脳するためのツールとして巧妙に制作されている。何かの道理の積み重ねや、理解を進める過程で本人の潜在的欲を引き出してくる。「感動する」という事さえ動機の真価が見失われる危険性を孕んでおり、客観性を失わせ、自然な価値観や感情を埋没させるために用いられる。したがって、カルトを見分ける良策は、思想信条の解説を聞くのではなく、組織体の構造を外から眺めるところにある。但し、外部社会には確固たる一式の思想を持たないところで自由ではあるが、カルト信者には「物足りない」また「説得力」に欠けるという弱点は有り、強硬なカルト擁護者らがそこを突いてくる危険性はある。つまり、カルトの要因はまず社会の不確定さ(グレーさ)にあり、誘引される人は一般社会の曖昧さを嫌い、割り切れる価値観に魅力を感じている。従って、カルト信奉者は基本理念の於いて単純であり未成熟でもある。彼らは人間について回る複雑さを好んでいないとも言えるが、その価値観の単純化は人間のナイーヴさを無視することでもある>

 

 

 総合的な説得技術「思想改造プログラム」

・信者の自己意識をぐらつかせる

・信者の履歴を根本から見直させ、世界観を変え、現実と因果関係のまったく新しい見方を受け入れさせる。

・組織に対する依存心を起こさせ、信者を手先として利用する。

 

 思想改造プログラムでの6条件

1.信者を操作し変化させる意図があることは気付かせない

2.信者の時間と環境(情報)を操作する

3.無力感、不安感、依存心を懐かせる

4.従来の行動や態度を抑圧する

5.新しい行動の仕方や態度を植え付ける

6.論理の閉鎖回路*を打ち出す

 *(例えれば、外気に触れない血液循環が閉鎖回路)

<即ち、信者をどのように奴隷化するかという「方法」では共通する>

論理の閉鎖回路とは、いかなるフィードバック(評価や感想の交換)も許さず、教祖の承認がなければ変更できない権威主義的ないし独裁主義的な構造を、打ち出す。あなたが批判をしたり、苦情を述べたりすると、教祖や仲間は、欠陥があるのは組織の方ではなく、あなたなのだと主張する。

この論理の閉鎖回路内では、教理や規則に疑問を投げかけたり、この信仰の体系には矛盾が内在しているとか、これまで聞かされてきたことと矛盾しているとかいうことがわかる現実の情報に相手の注意を向けさせたりすることを、あなたは許されていないのである。

<だがカルト側が教理・論理に信者でもわかるような瑕疵や矛盾が出始めると、そこに内部崩壊する可能性が生じる(上記オームの例)。しかし、それはその教条に通じているか、内部からの疑問として起こされないと外からでは無理解からの「迫害」のようにされて難しいところはある> 

 

集団圧力を用いて本人の本人に対する自主性を奪ってゆく。

<集団圧力=周囲の習慣に呑み込ませ、「事情説明のない合意」をさせる。⇒個人としての疑問を尋ねること、また異論を持つことへの無言の圧力を集団で加える。論理なく「そういうものなのだ」と思わせ支配してゆく。この過程を通して自主性を奪い、いつの間にか絶対的従順を植え付けてゆく。集団が信者に対して、論理に基づき自分で判断することに罪悪感を懐かせる。従って自己責任的判断を行わない非論理性が存在するところがカルトにとっての原動力となる。>

 

・新しいアイデンティティを生み出す

そのグループに承認された行動をとった人は「新しい人」が出現した証拠だと解釈してもらえるので、ますますそれに弾みがつく。

捕虜、人質、殴打された妻、元カルト信者など、強烈な影響にさらされた人たちを対象にした調査でわかったのは、そういう環境のもとで起った(本人の)変化は安定したものでも、長続きするものでもない。ということだ。世界や特定の哲学や、ひいては自分がどんな人間であるかについてカルトが植え付けた確信も、それをもたらした環境から当人が抜け出してしまうと、消滅することがありえるのだ。

<そこでカルトは頻繁に集まる機会を必須とする。集会を「ライフライン」に例える集団もあるが、それだけその教えが脆く人間本性に反していることを示していると言えよう><2020年に顕在化したコロナ蔓延による集会への障碍は、ネット利用にシフトを促した。だが、これはカルト集団にとっては諸刃の剣となり得る。統制に抜け穴が生じ、且つネット利用によって外部とつながり易くなった。ネットの功績の一つには、カルト化が困難になり始めた事も挙げられよう。(だが、ビックテックそのものがカルト化する危険も孕んではいる)>

 

・教育の軽視

我が国(米国)にとって憂慮すべきもうひとつの点は、社会最高の知能を持つ人たちがカルトのために教育を受けられなくなったり、理性的な思考ができなくなったりしていることである。多くの人たちが化学、医学、教育、生態学などに従事することで人類の福祉に貢献するのをカルトは妨げている。それどころか、多くの人がカルトに取り込まれて、教祖や指導者個人の権力とぜいたくな生活に貢献する結果となかねないのだ。そういう人たちは生涯のうちの最も大事な歳月の一部をあたら空費し、脱会したときには、多くの点で後れをとってしまったために、以前の能力や才能がもはや使えなくなっているかもしれないのである。

<これには個人を組織のために廃人にし、その周囲を貧困に陥れるほどの組織側の利己心が根底にある。その動機は組織の増加や繁栄のための人心供儀である。更に厄介なことは、上層部から教祖に至るまで、自ら教理を信じ込んでいて、自らの悪行の大きさに気付いていないことも有り得る。つまるところ、成功者は我欲を充足させる誘惑に弱く、それは誰であれ同じことで、カリスマであろうと底辺信者と変わるところがない。この真実を最も熟知しているのが指導者で、最も受け入れ難いのが底辺信者であるという矛盾がある。つまり騙しによる搾取が起こっている>

 

■カルトが社会を蝕む恐怖

・わたしたちの社会内では、カルトは無数の個人や家族に相当な被害をもたらしている

・カルトは最新式の複雑な心理的・集団的な説得技術を使って信者を集めると共に、信者の脱会を防ごうともしている。こうした技術を研究して白日の下にさらし、カルト集団による搾取を防ぐ対抗策を市民に教えなくてはならない。

・カルトは持てる資金にものを言わせて、公正な批判や論評を抑えるために、訴訟を起こすぞと脅すなど、脅迫的行動に出ている。

・カルトはさまざまな隠れ蓑をつけて社会の中に侵入しつつある独裁主義に他ならず、この点を行動心理学のみならず、自由を求める一般市民も研究する必要がある。

 

 

■人はおしなべてカルトの犠牲になるのは自分ではないと思い込む。<カルト参入者自身も、自分はカルトではないと言い張って譲らない>

・入信の傾向

調査してみると、入信者の三分の二は正常な家庭の出身者で、入信するまでに人生を真剣に悩んだことがない人々であった。

ある種の家庭環境に育った若者はカルトの誘いに乗り易い。カルトは人生の問題に単純明快な回答を即座に出してくれるので、家庭環境のもつれから脱出したいと願っている若い人々にカルトこそ完全な解決策であると思い込ませる。それは家庭が優柔不断と反抗心の混じりあった態度を培わせてしまうからで、それでいて子らがカルトに入信したり、積極的に行動を始めると、親たちは手の平を返したように、子らが間違った行動をし始めたと非難する。(しかし、実際には、その家庭が<放任により>独立的な行動を取るよう仕向けていたのである)

子供は自分のことは自分でやれと任せられたと思い込み、その一方で自己決定に自信の無さがある。カルト信者の多くはこのような家庭で育っている。<信者一世>

しかし、思春期の子らには決定するべきことが能力よりも多い、そこで多くの選択を迫られながらも人生の曖昧さ、この世の複雑さ、日常生活の葛藤など様々な問題に圧倒されることになる。<若いと円熟性を要する人生上の決定には困難がつきまとう>

そこで、元々その気もないのに人生を軌道に乗せる手軽な方法として何等かの団体に所属することで、将来を保証してくれる道を提供してくれるグループにいつの間にか押し流されて入会してしまう。

 

 

<シンガーの研究から見えたことには、日本の企業でブラックやグレーと呼ばれる部類での「新人研修」に問題がないとは言えない。そこでは、仕事内容に関係もない「教育」と称する人格破壊的なプログラムが行われ、山奥の施設に閉じ込められたような環境で、拒否させない圧力がかかり、そこで羞恥心の破壊や、上下関係の異様な強要と同調圧力が当然のように加えられている。これらのプログラムは心理学を悪用しており、被害者らは、収入を確保する必要と、社会経験の不足から、それがどれほど偏った専横かを判断できないか、しないことにより、あまり明るみに出て来ない。これは会社という宗教への入信儀礼ではないか?企業にとって使い易い社員とすることが必ずしも企業の益になるだろうか?その以前に、人というものを尊重しないなら、人を育てもしないし、企業も尊重されないのではないか?新入社員ばかりでなく、フランチャイズ契約や下請けへの横暴でも人格破壊的な仕業は少なくないようで、ビジネスというカルト宗教とも言えるように思う。

また、日本では武家社会の精神を引きずっていた支配側の精神規範により、軍隊と警察また企業や学校が統御されてきたといえる。その暗部は、地位の低い者、さらには失敗者や犯罪者に対するレッテル貼り、人格の蔑視また無視であったように思われる。これはスパルタ的武道教育にも片鱗が見られ、それが明治から昭和にかけて支配の権威の中に脈々と生きていた。立場の比較的高めの者がより低い者を暴行し無理難題を押し付ける、それが「教育」や「秩序」の口実で正当化される。筆者は治安維持組織の存在を批難するつもりはなく、恩恵も感じているけれども、この人格軽視の精神は今でも留置場や刑務所、また警察や入管に於いて拭い難く伝承されているように見える。また自分の見聞したところでは自衛隊の中からも似た事例を知るところがある。おそらく、これは日本精神の諸刃の剣であることを示すものと思う。権威得た者、地位の高い者はふんぞりかえり賢明な決断を下せる人材に育たず、そのツケは下層の有能な者らが担う構造で、この傾向は現在でも見られ、それが良いとさえ思うらしい。私見では儒教からの影響があるかもしれない。真に人の導き手として有能な者がその立場に就かず横暴によって支配する、そこで能ある者は却って無能な上位者を庇ってしまっている。これは全体の損失ではないか>

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関連;エホバの証人の信仰分析

 

 

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