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この記事の結論については、その後に白馬の騎士はキリストであるとの結論に至っている。その理由は以下の同色部分 2022.1.29
以下のような理由によって、第六章の白馬の騎士はキリストではないとされることがある。
・王冠が単数で、しかも19:12の[διαδηματα]<pl>ではなく[στεφανος]<sg>とされている。19章ではその名が『神の言葉』であることが知らせれているが6章はそうではない。
・福音書の終末預言の災厄の順からして、第一に偽キリストが挙げられている。
・キリストの持つ武器は『長剣』であることは黙示録中で一貫しているが、この白馬の騎士は弓を持っている。これはニムロデを含意する。
これに対しては
・使徒ヨハネの薫陶を受けた小アジア出身の教父イエレナイオスの見解では、6章の白馬の騎士をキリストであるとしている。
・やはり天界のキリストを表すに違いないRev14:14の王冠も『金の冠』[στεφανος]<sg>となっている。
・白馬の騎士にその冠を『授ける』のは誰なのか。
・[στεφανος]<sg>の語は、聖徒らの受けるもの、また24人の長老が得ているものとされており、[διαδηματα]<pl>は十本の角と共に冠されている。もし、ニムロデを象徴するのであれば、十本の角が得ている複数形が相応しいのではないか。
・王冠が単数か複数かの相違については
ダヴィド王はサウルの王冠を所有後に征服国の神冠を得ている記録あり2Sam12:29、しかも、ダヴィドが征服から得た王冠の例はマルコム神のように異国の神の征服を意味したものであった。これは神の戦いの直前に大いなるバビロンが滅んでいるところともハルマゲドンの戦いで666崇拝が滅亡するところとも整合する。しかも、黙示録第六章は、王として擁立され、その戦いに出向く場面であるから、王冠は単数であることは状況に合致し、黙示録第19章ではすの外衣に血が降りかかっており、すでに戦いが行われている時点を示しているので、その観点から複数の王冠の意味を把握するなら、王冠の数の相違も理解できる。即ち、この王冠の違いは後の黙示録中での王冠の複数化を通し、この世の征服の完了により王冠所有を増やしている背景を暗示していると捉えることができる。 (2022-10追加点)
推論点
19章での[διαδηματα]<pl>は、それらからの勝利を表しているとも考えられるが、6章の白馬の騎士は『征服をするため、また征服を重ねるために出て行った』とあり、これは大いなるバビロンへの勝利に加え、シオンへの勝利に乗り出すと捉えるなら、偽キリストということもできる。
しかし、この白馬には『冠が与えられ』ているうえに、ほか三人の騎士の結末が偽キリストの側に対する勝利であることからすると、白馬の騎士だけを敗北する偽キリストとは捉えがたい。その害が神と世のどちらに向けられているかを考えると、これらの害が神の処罰であれば、白馬は先頭を切って他の三騎を従える形になるが、白馬がアンチクリストであるとするなら、自らの統治を瓦解させる進軍となり、意味がパロディのようになってくる。
この世が神との対決を選び、それに対して神の軍勢が裁きを執行するのであれば、そのきっかけを作るについてキリストの進軍は合理的であり、アンチクリストが口火を切るとすれば、従うのは諸国の軍勢のはずであるにも関わらず、その進軍は赤い馬のところで終わってしまうことになり、征服はおろか赤い馬によって滅ぼされていることにもなる。これでは意味が支離滅裂となってしまう。やはりこの世を直接的に害するのは四騎士の側であって、この世の側は続く飢饉と疫病を受ける側である。
いずれにしても白馬が諸災害の先頭を切るものであるが、もし、白馬の騎士が敗北するものであるとするなら、『征服を重ねるために』出撃し、後の三騎によって打ち砕かれることになるが、黙示録のこの部分はそのような描写にはなっておらず、一連の流れを四騎が構成していると見るべき蓋然性が非常に高い、というより、そうでないと白馬の最期が語られて然るべきであり、その解釈はこの部分に似つかわしくなく、理解は混乱するばかりとなる。
詩篇第2やダニエル書と共にキリストが王としてシオンに擁立される時が臨在のエピファネイアであり、それが民の救いのための偉大なダヴィドとしての働きの開始となることに重点を置くことの価値を語るように、ここでアンチ・クリストの攻撃を契機に大患難を知らせる理由は非常に薄く、新旧聖書の要点からも外れ、それでは時の告知を主目的にしているだけであり、古来伝えられるメシアが本領を発揮する働きの意義を減じることになる。その働きは『この世』に対する王なるメシアの攻勢を意味するのであり、その結果としての諸権力の相互闘争、ライフラインの喪失、疫病による選択的処刑の執行という神の側からの一連の処置を任された者としての任命を物語るものである。しかも、それら続く三騎士による処置の全体が人間社会の邪悪性による自壊という方式が採られる事に於いて『平和の君』としてのキリストに相応しいとも言える。
従って、黙示録第6章の白馬の騎士をアンチ・クリストと想定することは、聖書全巻の価値観から捉えるなら相当な無理があり、赤馬の段階で過ぎ去るであろうその王権所持者を勝利者として描く意味もない。⇒ 反キリストの死は「エドムへの処罰」と関係していると思われる。ゆえにそれは復讐となる
ニムロデが獣の第一の頭であり、一本の角であったなら、ステファノスでも良いかもしれない。それでも、奇怪な獣は七つの頭をすべて揃えて持っているところに意味があり、それならば、やはりディアデーマタとされるべき理由があることになる。
『弓を持っていた』件については、『火のような色の馬』との兼ね合いがあるのではないか。弓騎兵を特徴とするのはメディア兵であり、キュロスの対型と捉えることもできなくはない。また『矢』は神の糾弾や稲妻の象徴ともされている。PS7:13・18:14
加えて詩篇45は明らかにメシアが諸国民の王らに向かって矢を射る姿が誉れあるものとして謳われている。Ps45:5
この「弓」に関する反論としては、Ezk39:3も挙げられる。
総合してみると6章の白馬の騎士を偽キリストの登場として確定することは不安定で危うい。
しかし、冠がステファノスかディアデーマタかより重要な点は、「征服し」(現)、『また、征服するために出て行った』(アオ)という部分にあるように思われる。
[ἐξῆλθεν νικῶν καὶ ἵνα νικήσῃ.]
この白馬の騎士は、この時点で征服するために出て行くのだが、さらにアオリストでもう一度征服しようとしている。
この点で、Rev14:14について見ると、場面が地の葡萄の刈り取りの前であるので、厳密に見るとただの『冠』でも整合性はあることになる。
黙示録第六章だけで『冠が与えられている』。
それに伴って、赤馬の騎士にも長剣が『与えられた』とある。
それらが『与えられる』とは何を意味するか?
これをどうとるか?
キリストが『世を征服した』というのは、犠牲の死を遂げたことによる。これはヨハネ福音書主でも強調されている。
そこで一度冠を得たとは言える。
終末に於いては、実際の権力の行使の結果としての勝利を得る必要ある。この見方でゆくと、
(やはり「征服」はヨハネ文書に特徴的に現れているので、一貫性が考えられる)
それゆえ、やはりこの白馬はキリストであると捉えるべきか?
(それであれば、二度目の勝利の冠がディアデーマタである理由が生じる。すでにその外衣に血が降りかかっている)
あるいは、この時点で偽キリストは『大いなるバビロン』を滅ぼしているので、次なる勝利とは『シオン』征服への野望を抱いていることを指すのか?
ということは、Rev6の白馬の登場がバビロン攻撃後であることが立証されると一つの結論は出るらしい。
Ezkとの関連で言えば、バビロン攻撃は記述に含まれていない。
Revで『王の王、主の主』の箇所を確認
それにしても、もし反キリストに『冠』はどんな理由で与えられるかと言えば二つ理由が考えられる。一つは聖徒への勝利であり、あるいは大いなるバビロンへの勝利であるが、馬の色に幾らかの疑問が生じる。バビロンはともかくも聖徒らへの勝利を得る王が『白馬』に乗るだろうか?それもシオン征服に更に進むのなら「灰色」とか「まだら」の方がふさわしい感じはする。
加えて、人類軍が破滅し、人類に飢饉が蔓延し、人類に疫病が臨むのであれば、これらの騎馬は神と人類のどちらの側の者であるのか?
つまり、残りの三頭の災いは、どれも反キリストのためにはなっておらず、その体制を崩壊させ滅していることになる。では白馬の騎士は残りの三頭の騎馬によって滅ぼされるのだろうか?それでは黙示録の四騎馬そのものの目的がちぐはぐになってしまうが、それで良いか?
それから、「白馬の騎士が最後に登場しない理由」という論点が二世紀以降の小アジアにあったらしい。これは未確認か、筆者が健忘症の影響を受け忘れ去ったかのどちらか。何の資料でみたのかも忘れている。そろそろアリセプトの世話になるべきか。
これは関係が薄いかも知れないが・・
白馬が先陣を切るとき、それが偽キリストであれば
隠された最初の攻撃目標が存在している
それを攻撃するのは偽キリストの役割であり
しかも「この世の同士討ち」の一部とも言える
それは明らかに赤馬の前に位置するはずであるが
一言もなく、暗示もされていない
それゆえにも、この白馬の騎士が偽キリストではない理由が重なる
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以下2013.4.18から転写
Rev6:2
καὶ εἶδον καὶ ἰδοὺ ἵππος λευκός καὶ ὁ καθήμενος ἐπ αὐτὸν ἔχων τόξον καὶ ἐδόθη αὐτῷ στέφανος <span class="deco" style="color:#00FFFF;">καὶ ἐξῆλθεν νικῶν καὶ ἵνα νικήσῃ</span>.
最初の乗り手は白馬に乗り、冠(単数)が与えられる。これをキリストと見るのはエイレナイオス。
「勝利の上の勝利」を得る「為に」(ヒナ)出て行く。
衣が白いか否かは確認できない。
「勝利の上の勝利」一度目の単語(分)現能主男単 [ヴィコ〜ン])二度目の単語勝利(動)仮アオ能3単[ヴィケーセーイ])
<span class="deco" style="color:#00FF00;">『勝利のために出・て行く、そして更なる勝利のため』(直訳)</span>
この最初の勝利は何か(?)
前後の勝利共にその「出て行く」ことに伴って起こることである。
ここでは、単に勝利が徹底されるということが強調されているのであれば、第二以降の騎士たちにそれが詳述されていると見ることも可能だろう。
そうすると、以上の句の中に二度の勝利を読み込む必要はなくなり、四人の騎士の中ですべてを俯瞰できるものととることができる。
他方、代表的日本語訳のように「勝利の上にさらに勝利」などとすると、既に勝利していて、それに勝利を重ねようとしてここで出発したともとれる。
だが、直訳してみるとどうもそうではないようだ。
Rev6:8~
καὶ <span class="deco" style="color:#00FFFF;">ἐδόθη αὐτοῖς ἐξουσία ἐπὶ τὸ τέταρτον τῆς γῆς</span> ἀποκτεῖναι ἐν ῥομφαίᾳ καὶ ἐν λιμῷ καὶ ἐν θανάτῳ καὶ ὑπὸ τῶν θηρίων τῆς γῆς.
テタルトスがどのような意味か
「四番目の」「第四の」 四分封(権威から)しかし、第一の騎士は禍を伴わず。(エゼキエルの三分の一は全体へのもの)
「四分の一」⇒「三分の一」トリトン テ〜ス ゲ〜ス
[α'υτος]が与格で[α'υτοις]これは「三人称」という以上ではなく、四分の一が彼(ら)にどう与えられているかを確定するのは難しい。
「四分の一が残される」という示唆か?
既に「三分の一」の災いが臨んでいるが、それは大河の水を失っているので、これは別に考慮すべき。
・第一の騎士が第四に登場しない理由(ソーテール)
・残りの三騎士が常に滅びに関わる理由
彼は既に酒舩を踏んでいるのか
第一の騎士は立ち上がるミカエルか、いや、そうするとハルマゲドン以前にキリストのような王権の行使があることになるが、黙示12章とダニエル12章の関連をもう少し見極める必要がある。ともあれミカエルがキリストと言うにはヘブライ書の記述に於いて無理もある。
大患難が人類の自壊によるものであっても、ミカエルが立つのはそれにしばらく先んじている理由がある。黙示録によれば聖徒が地を去って後に短期間にせよ『鉢』による最終的な印が示される期間がなくてはならない。その期間中GBは依然として存在し、未だ大患難には至っていない。ダニエルによれば、ミカエルが立つことは聖徒の復活と関連しているが、どちらが先かはよく分からないが、そのままに読めばイスラエルにとってのこの上ない苦難と復活が続くようではある。しかし、本当にそれが苦難に先立つのか、その結果として苦難を迎えるのかダニエルから判断することは難しい。ただ、パウロが『天使長の声』と言って聖徒の復活について述べているので、それからするとミカエルを契機として第一の復活が始まると見ることもできる。黙示録の第五の封印の開示からすると、聖徒の受ける苦難に対し、その応報が切に待たれ、その間に幾らかの聖徒の殉教が起るらしい。であるなら、ミカエルの立つということは、聖徒の苦難の終りを位置付けると言える。その時に聖徒の裁きが終了するのであろう。『新しい契約』は効力を果たし終え、聖徒の民が二つに分けられる。(それ以前の脱落聖徒については、狂った受膏者サウルに前表されているのかもしれない。サウルがダヴィデを悩ませた期間、二人の受膏者が存在していたのであり、ダヴィデは受膏者そのものに敬意を払い続け、その死を待って自ら手を下さずにいた)
キリストが立つことをダニエルが十二章で言うのであれば、その段階では聖徒の復活と天界への召集の時期であり、大患難までは『騎兵隊』の活動期間を待たねばならず、聖徒らを従えた地の裁きへの敵中からの征服には時期が早く、まず、世界がシオン攻撃の意図をはっきりと見せていなければならない。
(ミカエルがギリシアの君侯を打ち砕くのであれば、北の王の滅びがダニエル12章の直前に位置していることに整合しているように読める。もしそうなら、ミカエルは聖徒への処置を完了させ、三時半を満了させるために「立つ」のかも知れず、それならミカエルはキリストの先駆とは言える。そこでミカエルが悪魔とモーセの遺体について論議したというのは、この件と深い関わりがあるらしく、山中の変貌に通じるものもある。『新しい契約』の終了によって、ミカエルは論議に勝利しその権威は悪魔に勝ることになり、そのときには悪魔と一党を天界から落とすとも言える。しかも黙示録はキリストが悪魔を放逐するとは言っていない)
おそらく黙示録第10章の巨大な天使がダニエル最後の啓示を与えた天使であれば、ミカエルでさえなくその下位に属することになる。
使徒ヨハネに巻物を食させ、二度目の宣教または告知を命じているところはキリスト的ではあるが、断定する根拠は見つからない。
ミカエルが立つことで第一の復活が起こるということでは、非常にキリストに近いのだが、パウロも『天使長の声と共に』と第一の復活について語るところがあり、そこではキリストとの明確な区別がある。
⇒ 黙示録の白馬の騎士への論考 - Notae ad Quartodecimani
ゼカリヤの二種の馬群は、地を行き巡る
状況を視察し報告する。何の変化もない。
地をいくつかに分けてテリトリーを持っている
Ⅳ分の一はこれによるか