Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

神は主権を求めるか?「主権」という語の限界

「主権」の概念また「主権者なるエホバ」という翻訳について

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教会の教えでは神は人間の為政者が喜ぶように「神は主権者」とすることが「賛美」だとされるらしい。
しかし、それは人間の感覚、それも支配欲や名誉欲に駆られている威張りたがりのつまらぬ欲求に訴えるものにしかならないとまでは思わないのであろう。
即ち、神も最高支配権を喜ぶと思うところが、その人間にもどこかしらその欲求があるということになる。だが、神も支配して喜ぶ器に過ぎないだろうか?
では「主権」とは何か? 聖書が書かれた古代人がたとえ神を「主」と呼んで、律法に従う国民として治められていたにせよ、キリストの到来した後に於いても神は律法という国家法の制定者、支配者、裁き手として君臨するか?この問いはエデンの状況から観られる必要がある。なぜならば、人は堕罪して法と支配とを必要とする事態に陥ったからである。



1.「主権」(Sovereignty)の来歴

15、16世紀ごろの西ヨーロッパにおいて、絶対君主が支配するいくつかの領域国家(フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスなど)が形成されてくるなかで登場した。各国家において、それ以上の権限が存在しないという意味での最高権力を意味し、それによってヴァチカンの教皇権を防ぐ狙いがあった。
西欧では教皇を中心とする封建制度の中で、国家の俗権へのヴァチカンの教権がどこまで介入するかが曖昧のままであったが、宗教改革の変革を機会に、為政者による国家支配の独占性が確立された。そこで国家主権が唱えられ、ヴァチカンの教権への隔壁が築かれ、国家内は国家主権保持者以外の権力行使が否定されるに至った。
また、1648年のヴェストファーレン体制の成立によって小国や都市国家も外部からの干渉を排除できる独立権を得た。即ち長引く宗教戦争による疲弊に終止符を打つべく、ドイツの各領邦の君主がその地域の教会・宗派を決定する自由から派生した「内政への不干渉」を眼目としたものであった。即ち、国家という枠組みに最高の立場を与え、教皇や皇帝も国家に権威も権力も行使できない「国家主権」という概念を捻出した。この実態は「最高独立権」と称される。
絶対君主は、この概念を用いることによって、対外的にはローマ教皇あるいは改革派からの干渉を封じ、対内的には貴族層、身分制議会、教会、ギルドなどのもつ封建的諸権力の上位に君権を置くことによって一定の地域内の独立した政治的・経済的統合を達成しようとした。

主権概念は、マキャベッリの政治思想のなかにもみられるが、それを最初に定式化したのは、『国家論』6巻(1576)を著したフランスのジャン・ボダン[Jean Bodin](1529or30―96)であった。ここでボダンは、主権とは「一国における絶対的、恒久的権力」であると規定し、ただし主権をもつ君主といえども神法や自然法の下にあり、臣民の所有権は侵害できないとしながらも、君主は法に拘束されないとして君権の絶対性を主張している。そして彼は、主権の内容としては、立法権、課税権、官吏任免権、宣戦講和の権、貨幣鋳造権、恩赦権などをあげている
主権理論を最初に基礎づけたのはジャン・ボダンの『国家論』とされるが、彼がそこにおいて神法および自然法による拘束を認めたうえで、「主権とは国家の絶対にして永続的な権力」と述べたときには、上は神聖ローマ皇帝ローマ教皇、下は諸侯や宗教的異端者に対抗しつつ、権力を国王に集中させることに目的があった。「主権」の語の創設には、ヴァチカンからの普遍的な「神の支配」からの独立と、地域の支配者による一切の囲い込みが意図されていた。


2.問題点
ボダンの説では一部に自然法を唱えていながら、国家主権が自然法に沿うものかの根拠は薄い。「主権」を煮詰めてゆくと、個人は個人への「主権」があって然るべきながら、とりあえず国家に最高権威を与えることを目的としていた。実際ジャン・ボダンという人物は非人権的に振る舞った人物として悪名を残してもいる。だが個人主権は後に「人権」[ human rights ]という言葉で現れ、やがて「国民主権」へと展開することになる。
今日的「内政不干渉」の原則は、キリスト教新旧両派の過酷な争いに終止符を打つための策として案出され、その裏づけとして「主権」概念が登場し利用されたものだが、近代以降では絶対的社会主義や共産圏での人権問題から、その限界が露呈され始めてきた。その国家の中で人権という個人内の独立権が著しく脅かされるときに、他国や外部からの働きかけは「内政干渉」として退けることができてしまい、今日の国際問題の多くで、この「主権」による「内政不干渉」は様々な障碍として作用することが目立っている。「主権」と「人権」の衝突と云えよう。

キリスト教についていえば、神の主権が唱えられることにより、神の立法権、またそれを施行し、裁くための権力(暴力)の側面が強調されることになり、それは、神の性質、また創造本来の意図を誤解させるものとなる。つまり、エデンの二本の木の選択に表される神の不監視に表される『神の象り』としての人が自由に考え振る舞うべきところを精神的支配を行い、正義を強要することに於いて「愛の掟」によるアガペーの優越性やキリスト教の非立法性を否認し、ユダヤ教への退行をわざわざ推奨することになってしまう。しかも、旧約本文に最高独立権としての主権の概念を示す語が本来的に無いにも関わらずである。イスラエルの王ですら『YHWHの座に就く』従属支配者として描かれている。その神が支配者としてイスラエルに律法を以って乗り出したのは、その民族に社会秩序を与えるための必要悪であり、これは『善悪を知る』との言葉に示されるように、アダムの罪ある子孫には必須のものである。律法はメシアの無罪性の証しとして善用されたが、神の代理支配者としてのメシアの最終的な目的が『あらゆる権威を無に帰させる』以上、支配そのものが神の最終目的とは言えない。(Isa33:22は敵からの救出者としての神を表している)
神が創造者であっても「統治する」必要があるのであれば、権力を必要とするべき不法な者や勢力が存在していることを意味することになる。もし「宇宙主権」なる語を用いるなら、宇宙は統治されるべき罪ある反抗者が存在している状態であることになる。しかし、それは神の創造の初段階ではこの「統治」の意図も「権力」の必要も無かったに違いないし、神が創造の意図を成し遂げるときに、その両方とも無用となるに違いない。


・国家が主権国家という性格をもつ限り完全な国際平和を確立できる保障はない。とするならば、この地球上に、一つの共通権力を設け、各国が主権を放棄し、共通権力の下に行動するという「地球(世界)契約説」に基づく世界政府の設立にまで進む以外に真の国際平和は確立されないのではないか、と思われる。 (田中浩)

上記への所見:しかし、統一された主権の実質的保持者が完全ではない以上、そこは逃げ場のない牢獄とのなり兼ねないのでは?何故ならアクトン卿の名言の通り「絶対的権力は絶対に腐敗する」からである。

・国家主権の相互承認は、その後の不文の国際法規的習慣に発展し、近代を迎えている。諸国の存立は国家主権の相互承認によって担保されるものと認識されるが、中立的権力によって保証されてはいない。そこで国家相互の承認と調停の場として国際連盟に始まる会議の場が設けられるべき必要が生じてきた。
・今日でも国家主権を抑制できるものは国際法や慣例や国際世論や経済制裁国際連合などの議決という、明確な権力を伴わない曖昧なものしかない。そこでは強いものが正しいという自然状態、またはジャングルの法が横行してしまう。国家主権は他の国家から土地や資源を奪いつつ自分たちが責められると内政不干渉や権益を守ると言い出す倫理不全を起こしている。
<それでも世界政府が実現しないのは、ひとつに圧制への恐怖であり、ひとつに利己益への欲望なのであろう。人間は世界絶対権力を担うにはその器を持っていないし、むしろそれを拒絶してきた。世界支配を目論むのはニムロデの対型のような独裁者であるにちがいなく、それは最大の利己主義であろうが、その策略はまず世界的連合の掌握から始められる危険があるように思われる>


3.原語上の意味
英語
sov・er・eign[英]
[名]
1 君主,統治者,国王.
2 主権団体;独立国.
3 (英国の昔の)1ポンド金貨(略:sov.).

━━[形]
1 〈君主が〉主権を有する;〈権力が〉最高の
a sovereign ruler 主権者.
2 〈国が〉自治の,独立(国家)の
a sovereign state 独立国
sovereign loans
ソブリン・ローン(国家向け貸付)
sovereign rating
ソブリン格付け(国自体に対する格付け).

3 〈物・事が〉最高の,至上の,最大限の;極端な
the sovereign necessity いちばんの必需品
a matter of sovereign importance
きわめて重大な事柄 with sovereign contempt
ひどく軽蔑して.
4 〈薬などが〉よく効く
a sovereign remedy 特効[万能]薬.
[古フランス語soverain←俗ラテン語super ânus (super-上に+- ânus -AN=君主に属する). つづり字-g-はREIGNの影響](eプログレッシブ英和中辞典)


4.所見;総じて「主権」は、その上から支配されない独立性を担保することのようだ。とすれば「神の主権」を認めない、または退けるとは、神の上に立つことを意味しよう。

キリスト教からの視点では
◆サタンなどの独立は、サタンがどれほど神の上に登ろうとしても、依然並立の状態にあり、けっしてそれ以上にはならない。したがって「神の主権」を退けることは誰にも不可能である。もし、言い方を変えて「神の唯一主権」と言うのであれば、まだ通用するが、そもそも「主権」という近代以降の社会用語を持ち出すと、要らぬ複雑さを聖書理解に招じ入れてしまう。「神の主権を退ける」と唱える人が意味する正確な言葉は「自分に対しての神の権力行使を肯じない」となるのだろう。
さらに敢えて言えることがあるとすれば、「キリストは神の主権を唯一のものとならせる働きを一度行う」。だが、現在までそのような権力は存在しない。


◆また「問題点」で指摘されたように、国家主権はこの世での最高度の「わがまま」ともなり、それを調停することが必要でありながら極めて難しい。その困難さを克服するものとして国際連合に期待が寄せられるが、それも安保理常任理事国の拒否権というさらに強い「わがまま」によって機能不全、また停止に陥りやすく内政不干渉の原則は民衆への強権や殺戮も可としてしまう危険がつきまとう。
こうした、世俗の醜いところで「主権」が作用している。それに対し「神の主権」は、それらを超克するもののようには見なせるが、その「神の主権」なるものが神の本来的なものであるとしてしまえば、相克する国家主権の延長線上に「神の主権」が来てしまい、争いを争いを以って鎮める強権者として「神」を看做し、また讃えもすることになる。確かに紅海やハルマゲドンではその強権者の姿が見える。だからといって、それを神の本質とするなら、創造されたものをただ打ち壊すシヴァ神の姿を聖書の神に与えることになるだろう。むしろ、YHWHは戦神が本来の姿ではなく、創造と愛にその本質がある。

そこで、アダムを創造した神の目的は主権を行使するため、といったようなことだったろうか。もしそうなら、主権者である以上権力を自在に用いることができ、強制ができた。
そうしなかった理由が何にせよ、神は主権を最重要に見なしていないことになる。「主権」と言えるようなものに勝るもの、それは「神の象り」への尊重であろう。したがって、神を主権者と強調することは、排他的な「主権」という語に危うさが有るばかりでなく、神の意図するところを曲解することになる。
また、聖書が記された時点で近世以降に成立した「主権」のニュアンスがこれほど多くの箇所で唱えられるほどに把握されていたのかは、疑問視されても仕方ない。以下の原語を見ると、その可能性は極めて低く、わざわざ「主権」の語を持ち出すには相当な無理をしなければならないように見える。

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5.聖書訳語として
◆新世界訳中の「主権者なる主エホバ」への懸念

・旧約= אֲדֹנָי יֱהוִה アドナーイ イェフイ
通常のShM⇒ [יְהוָה] このニクードの異なりと接尾語を伴わないアドナーイの組み合わせが何を伝えようとしているか。
通常のアドナーイだけでも威厳の複数ながらここではYHWHそのものも変化を見せている。更に高められた「二重の威厳」か?いずれにせよ、ここを読むユダヤ人は神の偉大さは感じても「主権」という概念は意識しない。

・新約=[δέσποτης](Δέσποτα:名/呼男単Act4:24)「主」デスポテース
単に「主」の場合[κύριος](Κύριε:名/呼男単Act1:6)
(コイネーでのこの差異については未だ分からず。おそらくはルカらのヘブライ語の僅かなニュアンスの違いに沿わせようとする努力の賜物か?)

デスポテースにせよ、ほとんどの場合に単に「主」との意味で用いられ、また「夫」の意でさえも用いられるゆえに用法は狭いものではなく、特定の大仰な意味を付す理由は薄いように見える。たとえ、ギリシア単語の敷衍された意味があるにせよ、それがヘブライ語の深い意味を置き換えたと云うにしても元々の原語にその意味が無いのであれば、そこに「主権」まで深読みをすることは本来的でないばかりか曲解の怖れも出てこよう。


他の多出する用例
「エロヘー ハ エロヒーム」=「神々の神」
「ヴ アドネー ハ アドニーム」=「主の主」↓
「キュリオス トーン キュリオーン」⇒キリストにも適用
「王の王」は神に適用例(全旧約・新約1Tim問題有)なし
「イェフイ・ツェバオート」=「万軍のYHWH
 そこで問題の אֲדֹנָי יֱהוִה 
「アドナーイ・イェフイ」⇒「大いなる主、大いなるYHWH」≒「御厳の主にして偉大なるYHWH」が精々であろう。
 しかし、これがどうして「主権者なる主」なり得るのか?

"the Sovereign Lord"とTodays English Version(1961-)#も訳している。やはり、「主権」の概念を意訳挿入するのは英語訳の新しい試みのようだ。)#Good News Bible(2001-)
(ちなみに日本語の口語「主なる神」;新改訳「神である主」;新共同訳「主なる神」となってはいるが・・;文語「主エホバ」;エホバには少々問題があるものも中ではこれがもっとも自然)
原文では「主」の尊厳の複数と「YHWH」の尊厳の複数がそこにふたつ並んでいるだけの二単語の平易な連語に過ぎないのだが、「主権者」とはいったいどこから出てきたのだろう。この明らかな付け加えには徒ならぬ強い意志を感じざるを得ない。(他の主要な訳「主なる神」もまたどうかと思うが)

自訳すれば 「大いなる主YHWH


6.所見;これらの原語が伝えたい神の偉大さは、うまく訳すことが難しいことだろう。だが、「主権者なる」とはどうだろうか?
確かにIsa33:22では三権を掌握する者としての神が語られる。だが、三権分立の理由は、相互に牽制させることで人間の腐敗を抑えるところにあり、その理屈からすれば、その神の内での融合は、イスラーム的神概念のような絶対の強権を指し示さず、却って神の強圧性を否定することになってゆく。
しかし、特に「律法授与者」である点はユダヤ体制について述べているようだ。(「新しい巻物が開かれる」などと適用するのは律法に対する圧倒的な「愛の掟」の優位を知らないことを露呈するだろう)
神が至上の独立権を最重要視しているとすれば、それを保持されることは理の当然ではあるが、聖書を総合するとその権利を抑制していることになる。

まず、第一にアダムに対する「二本の木」による選択の論点は、主権に服すか否かであったことになるが、倫理的自由者であったアダムに対して、主権の行使という力による「押さえつけ」が必要であったという前提が必要になるが、これは矛盾を抱えている。神はアダムもエヴァも監視しなかったが、権力を行使しようとするなら、その以前に「二本の木」の選択を任せる意味がない。
明らかに、権力が必要なのは「罪人」即ち倫理上に瑕疵を負った者らの暴走を抑えるためのものであり、倫理的完全者にどうして権力による支配が必要だろうか?

神が最初に権力を行使したのは、アダムの堕罪後であり、それが燃えて回転する剣であった。
以後、人間は善悪を仮定して法と成し、それを強制するための権力を必須とするようになって今日に及んでいる。それこそが「政治」と称えるものの本質ともなっている。即ち、「罪」への対症療法である。

では様々な人間の政治支配が「審理」への証拠固めの為かと言えば、むしろ神の何かを証拠立てるというより、人や知的創造物の側の倫理回復を「神の象り」を尊重しつつ待っている、とされるべきのように見える。(この点は似ているようでいて、相当異なる)
神の神たることが立証された後に、主権という権力(暴力)を伴う謂わば「汚れた」ものがなお必要だろうか?まして、処置はともかく、神立証そのものはキリストの一度の死ではないか。しかも、それは神の主権の立証ではなく、キリストを含んだ被造物の自発的忠節な愛による神との絆の立証であった。


7.新世界訳への所見
神の主権を強調する教理を持つ端的な例として上記「新世界訳聖書」を用いる「ものみの塔」がある。
この聖書は全般的には問題の比較的に少ない(新約の神名を除いて)翻訳であるにも関わらず、「主権者なる主」の多出と相まって、この団体の主張する、以下のような文章にはまったく承服し難いところがある。(洞察1136p)

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彼らはエホバの主権を愛さなければならず,その主権を望み,他の何よりもそれを好まなければなりません。(詩 84:10)たとえ独立的になることが可能であったとしても,神の支配が他のどんな支配よりもはるかに賢明で,より義にかない,より優れていることを承知しているゆえに,神の主権を選ぶ人でなければなりません。(イザ 55:8‐11; エレ 10:23; ロマ 7:18)そのような人々が神に仕えるのは,単に神の全能性を恐れているからでも,利己的な理由があるからでもなく,むしろ神の義と公正と知恵を愛しており,エホバの偉大さと愛ある親切を知っているからです。

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(参照聖句はそれぞれ直接にも間接にも論旨を支持していない)
これでは、人はいつまでたっても不完全なままで、永久に隷属の内に存在することになり、キリスト教の価値の真髄をまるで知らないかのようである。
つまり、神が人を「子」に復帰させるという概念は見られず、「支配権を愛せ」とは、律法的隷属を続けることを称揚し、ハガルの子としての奴隷状態にあって神に近づくことを唱えるものであろう。(Gal,この点地上に崇拝の中心を定めようとの意向も同様である)
そこには「支配権」が「罪」への対処法であるとの認識はないように見える。完全者同士は権力を必要とせず、権力などまるで次元が低い。「神の永遠(とこしえ)の主権」などと言っていたら、その発言者はいつまでも罪人の観点からしか神を見ることができないと言っているに等しい。
一家の主が主権や支配権をかざす家庭とは、いったいどんなところなのだろう。「愛」と「主権」の根本精神は正反対であり「自由」と「抑圧」ほどに異なる。
「主権」という今日の必要悪を強調することにおいて、それは神を永遠の強権者とすることになり、且つその創造の意図を損ない、神の家族への人の復帰を願う神を偽り伝えるものに見えてならない。証しされるべきことは神の「主権」か「神性」か。
絶対者を崇めつつ、人を無にするところはイスラームに近い。しかし、イスラームの信徒は横一列の平等が原則で標榜もされているのだが、聖徒の存在することになるキリスト教において、このように神の支配権を強調する意図は、中間ないし代理の支配権の分け前を誰かが望んでいるのではないだろうか?その人にとっては、確かに「その主権を望み,他の何よりもそれを好まなければなりません」と心から人々に語れるに違いない。そこに支配欲が有り、宗教家らしい占有願望も透けて見える。
そして信者に訴えるところは『神の支配が他のどんな支配よりもはるかに賢明で,より義にかない,より優れていることを承知しているゆえに,神の主権を選ぶ』とされていて、人間支配の不完全を理由としたご利益を述べるばかりか、これでは人間と神が並列されている。
これはもちろん「賢明」でも「義」でもない。加えて、「神」を愛することから、その「主権」という支配を愛することに滑らかに置き換えられ、知らずに偶像崇拝的方向に誘導しようとしている。そこに「愛の掟」の自発性は窒息させられ、その行き先は人間の組織とその支配への恭順ではないのか?もしそうなら、それは神の威を借りた圧制であり、神の証したる聖霊も全能者への怖れも知らぬ驚くべき行いとしか言いようも無い。そこでは一般に「人権」と呼ばれるものへの抑圧が見られるはずである。


◆2Chr29:12[מושל](モシェル[動])「汝はすべてを治められる」
"and thou reignest over all"(KJV)
"and thou rulest over all"(ASV)
"thou hast dominion over all"(Douay)
「あなたはすべてに主権を行使されます」?

◆Ps103:22[ממשלתו](メムシャルトウ[名])「彼の支配するあらゆる処」
"in all places of his dominion"(KJV)
"In all places of his dominion"(ASV)
"in every place of his dominion"(Douay)
「彼(神)の主権を及ぼすあらゆる処」?

dominion=1 [U]支配[威圧,抑制]すること;優位を占めること,優勢,支配,統御;(独裁的な)統治(eプログレッシブ英和中辞典)



8.新世界訳の理由付け
「主権者なる主エホバ」と訳した人々も「主権」の語の使用を擁護すると見なす上記二箇所ですら「主権」を持ち込むのはさすがに憚られたらしい。
この人たちの他に、聖書文面に称号以外で「主権」を持ち込んだのはジェームズ・モファット訳(1913-24)だけのようだ。上記二箇所でさえモファットは「主権」を用いただろうか?(本件未確認)
ドイツ人たちのwerkenはどうなっているのか?もちろんルネサンス期のルターがこの語を用いる筈はない。近世以後はどうか?尤も彼らが原文にない語を挿入するような「ロマンテッシュ」なことなどけっしてしないだろうが(ドイツ人は資料研究には精密でほとんど独壇場に在るが、翻訳となるとなぜ英語に遅れをとるのだろう?原語のまま読んでいるから良いのか?!)

◆「主権」という語を用いるか否かによって生じるものは、神に対する見方だけでなくアプローチの変化だろう。それはひとつの思考方法に発展しかねず、それは慈愛ある社会にもファシズムのようにも変わることだろう。「神の支配」という言葉の味わいと「神の主権」というときのテイストは明らかに異なる。人類は宗教改革の戦争終結からフランス革命期にかけて「主権」という言葉を確立し、そこに血生臭いものを感じて歴史を過ごしてきたことは事実である。「主権」は常に血のあがないの上に成り立ってきた。そのニュアンスをもったまま「主権者なる主エホバ」が聖書中に260回以上の繰り返されるとき、それを読む人々の心への影響が小さなものとは思えない。
フランス革命の無慈悲な流血や以降20世紀までに吹き荒れた全体主義の宗主たちと同列として神を再び据えてよいものだろうか。そこに神の固有名をその都度戴くことは、むしろ逆効果ではないのか。つまり至聖の御名と忌むべき穢れを共にしてはいないのだろうか?
至聖なるYHWHは、ダヴィデにこう仰せになったものである『汝は多くの血を流し大いなる戦を為したり、汝、我が前にて多くの血を流したれば我が名のために家を建つべからず』(歴前22:7-8)

では、何故に[אֲדֹנָי יֱהוִה]「アドナーイ・イェフイ」を訳すのに「主権者なる主エホバ」"the Sovereign Lord Jehovah"の語を敢えて用いるのか?

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「主権者なる主」を翻訳に用いた「ものみの塔」は、その理由を「洞察」の「主権」の項で説明しているが、それによると、バインの旧新約聖書用語解説辞典とモファットやノックスの訳を根拠に挙げたうえで、このように述べる。
『それで,ヘブライ語本文とギリシャ語本文に「主権者なる」に相当する別個の修飾語は含まれていませんが,アドーナーイとデスポテースという語がエホバ神に当てはまる語として聖書中で用いられるとき,それらの語には「主権者なる」という語の意味合いが含まれているのです。その修飾語は神の主なる地位の卓越性を示しています。』

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上記の不明瞭な文中「その修飾語」とは「アドーナーイ エフウィ(の変化)」と「デスポテース」を指すらしいながら、本来「主権者なる」の修飾語が原典にないと認めている。いや、誰が見ようと無いものは無い。それでもこのように訳した根拠は辞書の敷衍された字義と、他の翻訳もある、という外面的で聖書原語からの理由を伴わないものとなっている。どこがどうなって「それらの語には「主権者なる」という語の意味合いが含まれているのです」と言えるのかの説明は為されていない。どうやら、「モファットなりノックスなりの先例がありバインの事典にもあるので、使えそうなものは使っておこう」というように見えなくもない。

だがそこで、原語上の、また教理的証拠を示さないにも関わらず、新世界訳において「主権者なるエホバ」と訳されるべきだ、という主張にはもはや横暴な強弁の域にあるかのような強情さが滲む。そう訳した独自の見解や理由を表明しているようには見えず、ただ、「他もやっている事だ」ということになる。



9.「ものみの塔」の意図と危険性

そのように敢えて訳された背景には、神が主権者である事を強調し、それによって信者への統制を強めようとの意図が無いと言い切れたものだろうか?
この宗派の中央管理を担当する幹部らが自分たちを指して「統治体」(”the governing body”)と自称しているところで、この不穏な動機が透けて見えているかのようである。
しかし、「神の王国の支配がものみの塔の内部だけで始まっている」というのは1914年臨在説に寄り掛かってはじめて存立するものだが、これは相当に危うい理屈であり、この組織外には何の力も持っていないことは度々露呈しており、その脆弱性は神の助力を見せることなく、ものみの塔の人間的弱点に由来している。
例えれば、本件ではかつて「統治体」を中国語で「治理機構」と訳していたものを、2000年頃には「中央長老団」に変更している。この事例は、中華人民共和国の政府との間で何等かの調整が行われたことをほのめかすものとなっている。「統治体」”the governing body”という名称に政治支配の動機を読み取られた結果と思われる。
実際、この「ものみの塔」の宗教上の目的を突き詰めてゆくと、「支配」にあることは隠せない。即ち、信者の生涯にわたる目標から道徳律、日々の生活態度までを支配するという目的であり、これは共産主義中国の国民支配と軌を一にする。その競合を緩和するかのような表面上の策が、中国語での「統治体」の名称変更となったと思われる。中国共産党が国内に浸透したものみの塔分子への支配を許すとは思われず、「治理」*を名乗ることも認めないであろうことは明々白々である。*"governance" "control" "administer"
ものみの塔」に於ける信者支配は、聖書から道徳律を集めてきては、「聖書にあるのだから、そうすることが正しい」との理由付けで正当化されている。だが、これはキリスト教とは言えない。「ものみの塔」は「終末の滅び」を権力として用い、自分たちで定めた基準に聖書から引用した言葉を当てはめるよう努める部分もあるが、当てはまらないものも少なくなく、その代表が「統治体」と言うべきだろう。この教団が「カルト」と揶揄される原因は、以上のような「神の主権」が「統治体」を通して行使されているとの危うい教理からの、自然な人権や個々の判断を尊重しない信者の扱いに原因がみられる。この教団は、伝道を「永遠の命」を人に与える「命をもたらす業」として称揚、また強制しているが、実際には、輸血の謝絶ばかりでなく、伝道中の死亡や、密室での幼児虐待など個人の尊厳や生命軽視の傾向が強くみられる。戦闘行為の放棄にしても、戦争に反対しているのではなく、自分たちの神の前での「義」を保とうとしているのが趣旨であり、その目的は信者本人の正義感の充足にある。

神の支配権が既に行使されていて、自分たちを通してその支配が行われていると称するのであれば、この指導部が、神の主権を強調する動機には、自分たちの身分を築く意図がありありと読み取れる。なぜなら、神が終末に力を表明することの無い段階で、神を差し置き、信者という従順な弱者にのみ覇権を行使する言い分を作っているだけであるとしても、何ら証明が出来ず、使徒らの時代のような神の御力の証しを伴ってはいないのである。即ち、神の是認なき権力の行使という他ない。しかも、この世の権力に対しては、何の力も持っていないのに、自分たちは正しい権力の内にあり、この世の権力はすべて退けられると言っているのであるから、これは神を度外視し、独善に陥った人間の妄想による虚勢である。(ヨブ記の結論

また、この教団が「この世」の存続理由を、神の支配の正当性の立証のためとしている教理も「主権」と付け加える翻訳の「手心」となって影響しているであろう。(この理由は到底同意できないが)
「主権」という内政の一切を取り仕切る権威を振りかざすときには、信者一般への一切の命令権を掌握できる。なぜなら、それが「主権」という「この世的な事物」また「汚れたこの世」の定めだからである。これが良い結果を生むとはもちろん思えない。特定の人なりグループなりが「主権」を求めているという「神」を代表してしまうとすれば、その「神」が持つと云う「権威」も容易に横取りされかねない。どの宗派でも何らかの理由や道徳規則やら預言者を存在させたり土曜安息などの教理で差別化をして、他の宗派と異ならせておいて、「自分たちの指導だけは神から是認されている」とさえ唱えれば「主権」の相当部分を領有でき、外部からの指摘や是正勧告を「内政不干渉」に則り拒絶できるのである。殊に、道徳規則の遵守で差別化する場合、良心を苛む方法で法執行も可能となるので信者支配には一挙両得であり、新教系のキリスト教派で散見される手法となっている。
これこそ、かつての教皇たちが願い、諸侯らが対抗するために目指したことではなかったか?このように権力を宗派の主要な要素とするなら、そこにはヒエラルキーの整然たるピラミッドが構築されているであろう。権力と統治への欲望は、支配を行き渡らせるために序列や階級を必須とし、個人の判断よりは指導の優越性が説かれる傾向を招くものである。これは組織学の論拠があり、また避けられない宿命でもある。そこでいくら「兄弟」を唱えようとも、その呼称さえ、却ってカムフラージュに用いられているばかりであろう。
また、これは「この世」の独裁的な治め方であり、「神」の名において「主権」が主張されることには相当な圧制の危険がある。聖霊のない人間は使徒らと異なり、キリストの指導無く、「罪」有るばかりのただの人だからである。その綻びは、繕えどもいずれは表れるに違いない。したがって、そのような組織は情報統制に走りがちだが、それは独裁国家に付き物の悲劇となっている。

その懸念は、この宗教組織「ものみの塔」の現状で示している自己義認による思想統制的閉鎖性と併せて考えるときに、非常な説得力を持つことは否めない。この組織の持つ体質が「主権者なる主エホバ」を敢えて選んで翻訳したのであれば、これは新世界訳聖書への、ものみの塔が信者に対して政治的意図を以ってもたらした大きな汚点ではないのか。





関連項目:「『象り』に込められた神の愛」⇒ http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51798374.html
「主権という暴力」⇒ http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140406/1396757064

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