Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

火で塩漬け マルコ9:29

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マルコ9:49
『だれもみな火で塩漬けされねばならない』
とは、キリストが弟子らに語った言葉であり、後に聖徒に成り得るユダヤ人に対して述べている。
そこで、「誰もが火で塩漬けにされる」とは、火によって試され、その倫理性がキリストの兄弟に相応しく、同様に立証されなくてはならないことを言うと解せる。これはレヴィ族を精錬して清めると言われるメシアの役割であり、火で炙られたところに塩が取れることを、塩漬けに例えていると解せる。(ダニエル11:35/ゼカリヤ13:9/マラキ3:2)
その「塩」とは、高度で純良な倫理性を指すのであれば、それはキリストの到達した「完全さ」の域に入って、石として「試みを経て」いなければ、キリストを隅石として、天界の神殿を構成するに至らない。
この解釈でゆくと『あなたがたの内に塩を持ちなさい』や『地の塩』『塩気を失うなら』などの意味にも通じるものがある。

その倫理性は火によっても試され、塩気が保たれ、耐えるものであることが求められるのであろう。

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失われた「キリスト教の新しさ」について

しかし、問題は新しさの意味である。もしも、この新しさが彼らの現在を本質的に規定する一つの力として把握されていないならば、それは、終末の時に成起する救済のために与えられた一つの機会として理解されることになる。その際、この「機会」はどのように利用されるであろうか。第一は、来るべき救済のための準備の時として利用され、その時の救済に至る手段として、今の時に「善き業」が勧められることになる。
つまり、ここに再びユダヤ教と質的に異なることのない終末思想と律法主義が登場してくることになる。そして、キリストの出来事の意味は、ここにおいて、受洗前に犯した罪にのみ関わることになる。-使徒教父の殆どすべては、このような思想構造を持っているように思われる。

荒井献「使徒教父文書の世界」〜新律法主義から抜粋


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エスが『人の子』という場合、すべて本人の呼称
Mk2:28「人の子」[ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ]
Heb2:6「人の子」[υἱὸς ἀνθρώπου]

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ペテロやパウロのように、エクレシアに呼びかけるときに「聖なる者たちへ」または「召された者たちへ」と書く習慣が使徒後教父の初期段階で残っていたことは明白
例:ローマのクレメンスのコリント人への書簡(時期は使徒ヨハネの晩年に相当)
『聖化され、召されたる者たちへ』-コリント人への第一の手紙の冒頭の挨拶-

またクレメンスは、使徒ヨハネのように『愛する者たちよ』とも呼びかける。(コリント第一1:1)

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「座って費用を数えろ」
ヘブライ語では「想う、見做す」(はしゃブ)のピエル態

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