Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記録23-5

 

七つの目を持つ子羊

『わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。』黙示録5:6

・わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。ゼカリヤ3:8-9

・ 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。歴代二16:9

・その上にYHWHの霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識とYHWHを恐れる霊である。イザヤ11:2

「全地を見通す目」という概念があり、聖徒の選別に関わる意図がある。そこで神殿の礎石としての意義が生じ、それはイエスがイザヤを引用して語った『隅の親石』の概念にも共通している。その礎石の上に組み上げられる十四万四千の石はその礎石によって吟味される。イスラエルの罪を『一日の内に取り除く』とは、聖霊降臨を指すのか、その選別を指すのかは分かり難いが、おそらくは聖徒確定の瞬間を指すように思われる。

 

使徒パウロに関するタイムポスト

・唯一のタイムポストAD55-56

ルキウス・アンナエウス・ノヴァトゥス・ガリ

セネカの兄で51-52年の間アカイアの総督(プロコンスル)としてコリントス赴任していたことが、デルフォイクラウディウス帝の布告を記した石灰岩碑文の断片から特定された

コリントスでのユダヤ人による告訴を受け宗教裁判を避ける(Act18:12-)

この騒動の後もなおパウロは『しばらく滞在し』、その後自らはシリアを目的地としてエフェソスに向けてアキュラ夫婦を連れて旅に出る。

この辺りでもルカは『しばらく』という不定の期間を述べるので、年代を特定するにはむずかしい。<但し、ガラティア書簡の書かれた時期を示唆しているともとれる'>

(ルカとテモテが同行しない状態での旅行)

 

・ガラティア書簡が書かれたのは第三回宣教旅行の前ではないか

ルカが同行していなかった/一度彼らに会っている/ユダヤ主義者からの干渉がある

宛先にはピシディアが含まれていないらしい

なぜアキュラ夫婦もルカもまたテモテすら残して旅立ったのか

聖徒の中での問題の多発が生じていたらしいがルカは反対行動については書くが、聖徒らの内紛については使徒言行録に言葉が減る。コリントスでの最後の滞在で何があったのかも口をつぐんでいる。<これはテオフィロスなる人物への遠慮があったのでは?>この人物は62年頃からのパウロを識っていたらしい。ルカ福音書は95年頃以前には存在していたヨハネ伝承が存在する。

アキュラ夫婦と共にルカがエフェソスに残ったらしくアポロが記述に登場するのはこの後からになる。従って、アナトリア再訪の途上では眼病の助け手がいなかった。

彼がおそらく一人で旅したのは、アナトリアの道中の危険と、ユダヤ主義の蔓延のため以前にはバルナバとこの地方を訪れた際に、アンティオケイアとイコニオムのユダヤの暴徒によりパウロは石打ちにされ死にかけているため、万一の場合を考え、犠牲者を自分一人に抑え、また目立たぬようにアナトリア中部の弟子らを尋ねようと思ったからであろう。やはり、この旅行の道中についての記述をルカは残していないところにそれが表れている。

 

・「第三回宣教旅行」と称するのはどうかと思う

回数でカウントする意味がなく、釈放後の活動の軌跡も不明であるのだから・・

 

・フェストゥスの任期 ca.55-ca62

この総督の任期の確たる証拠は上がっていない。

62年迄であったとするとパウロのローマ移送はその後になる。

 

 

「聖書至上主義と信仰義認主義は宗教改革の二大原則でありそれを持たないものは福音主義とは言えない」

もとより、歴史の厚い層を形成した欧米キリスト教は、積み上げられていった仮定の上に成り立っているので、そこから原初的キリスト教を探るには欧米人の誤謬でできた厚い岩盤に突き当たり、それ以上掘り下げることができない。この点でアジア人は初めから教会が少なく、欧米のキリスト教概念を相手にしないことにより、本来のキリスト教に到達し易い環境にある。もとより欧米はニケーアより以前に戻らず、ヘレニズムの洗礼を浴びたままにヘブライを軽視してきた。

聖書至上主義と信仰義認主義のどちらも聖書そのものが否認しているものである。

欧米人の神概念はキリストの慈悲にあり、自分たちがその中に安んじることを願望している。これは新約聖書中の聖徒への記述の誤解に端を発している。

<こう書くことは簡単ながら改善は絶望的で、その誤解が神に用いられる危険度が高い>

 

 

ルカ12:57は次の節以降と共に、その前の天候の予測の言葉と深く関係し、同じ事柄を別の角度から語っている。但し、聞き手は理解していなかったと思われる。語られた相手は『群衆』となっている。この内容の訓話は他にもあるが、山上の垂訓の中のものにも一つの観点を与えるものであることになる。

 

 

『天の王国』を「天国」に入れ替えることにより、それを信じる者の意識の中で『この世』は定常化し、終末の必要性が消える。これはアウグスティヌスによりローマ帝国によって『天の王国』が並立されるようになったのをはじめとして、キリスト教界ではメシアの支配する千年期を軽視、後に異端視される原因となった。

キリストの反対者からすると、キリスト教界そのものを消滅させることができないのであれば、その中に込められていた最も重要な神の意図を無に帰させるために「天国」の教えは非常に有効であることになる。

「天国」は「千年期」を無効化し、人の保身願望と利己心を引き出すことも出来ることに於いて、その教えの淵源が神への反対者からの妨害であることが露呈されている。

「天国」の教えは、終末の裁きへの意識を薄れさせ、人間に宿る『罪』を直視して『悔いる』機会を奪い、神の意図に信者の意識を向けさせないことに於いて破滅的であり、キリスト教キリスト教ではなくしてしまった。

 

 

教皇不可謬説「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」Infallibility

あなたがたは知らないのですか、わたしたちが最初に知らされることが慣習であること、なにが正しいかがここ(ローマ)で決められるということを。
— デンツィンガー57番

われわれはこう教え、定める。すなわちローマ教皇が聖座から語るとき、すなわちそれはすべてのキリスト者の牧者とし教師として、その使徒的な権威によって全教会が守るべき信仰と道徳の事柄に関して述べるなら、それはペトロの名において約束された聖なる力の助けをうけるものであり、教会の信仰と道徳に関する教えについて救い主から来る不可謬性があたえられる。そしてそのような決定は、それ自体によって教会の同意によってではなく、改正不能なものとなる。
— デンツィンガー1839番、第1バチカン公会議 第四会期 キリストの教会 4章

1870年の第一ヴァチカン公会議で決定されたときに、それに納得できないカトリック神学者や僧職者があり、それを教義とすることに疑義が示され、カトリックと決別するものもあった。

 

不可謬説の危機

使徒的清貧を求めたところから13世紀に托鉢修道会が始まっている。

万物所有権の放棄はExiit qui seminatの教書で1279年にニコライⅢ世によって完徳への道とされたが、1322年のヨハネスXXⅡのAd conditorem canonumはそれを否認した。そこでフランシスコ会教皇の不可謬説を援用して反論したが、結果は翌年にヨハネスXXⅡの発したCum inter nonnullosによって、キリストと使徒らは何も所有しないという説そのものを異端と宣言するに至る。ここに前後の教皇で宣言の相違が起り、教皇権への信頼に関わる事態となった。アッシジの聖フランチェスコの無所有に由来

 

 

タンナー期でのカハルからの追放

・ニッドーイ:参加は継続可、三十日間の制限

 汚れた者としての扱いのように家族以外は4キュビト離れる'義務を負う

 '異神崇拝の異邦人の家が隣りであれば4キュビト離れるように壁を調整する

 便所に入るのにティフェリンを4キュビト以上離れた場所に置くべし

 

・ヘーレム:「禁令」の意で、教えることも教わることも禁じられる

 周囲は生活必需物資を取引することだけが許される

 但し、会衆への復帰の機会は残される

 

・シャンマッター:カハルからの完全なる除名、復活なく死すべき者とされる

 死んだ場合に重罪人として土葬されない

 

古来、七日の浄めがあるがそれはカハルからの追放に当たらない

<収税人や娼婦の扱いは、おそらくヘーレムと思われる>

エスに癒された全盲の乞食が『追い出された』という処置が何かは不明

 

 

コル ハ モエッド Chol HaMoed

シュミタの翌年のスッコートの初日(15)に神殿中庭で集会を持ち、申命記31:10-13に従い王が律法の朗読を聴く習慣があった。

この集会は、捕囚後も存続していたらしいが、第二神殿と共に消滅した。しかし1952年から再開されている。

 

ルーラヴの採取 (lulav)[לולב]

ハダッサとアラヴァーを組み合わせてそれらをルーラヴと呼ぶこともある

トーラーではレヴィ23:40にスッコートの初日に伐採するものと規定されている

ミシュナーでは神殿域と周辺でのみ七日間用いられるとされる

但し、それ以外の地域やディアスポラでは初日のみである

 

 

聖徒の理解では、今日のカトリック東方教会、改革派以降のプロテスタントで、信徒のことであり、区別を認めていない。そこにかつての「聖人崇拝」への否定がある。

ルーテル教会では限定的ながらカトリックの聖人の概念を含む。メランヒトンは聖人は限定的ながら讃えられるものとしている。しかし、ルーテル教会としては聖人への祈りは禁じられている。

カトリック聖公会は聖人に祈る。カトリックでは「大いなる聖人の霊」を形成している人であれば、聖人として認められ手順を踏んで「列聖」される。聖公会での聖人はキリストの兄弟でもある。

東方教会での聖人は天にいるすべての人を指すが例外は天使、大天使、アダムとエヴァモーセは聖人ではない。また磔刑でイエスの右に居た盗賊もその謙虚さによって性別されたと教える。また、神は答えられた祈りやその他の奇跡を通して聖人を明らかにすると考えられ、今日でも列聖が行われるが、奇跡を行うことは求められず、高潔な生活を送る人に対して、周囲の任期が高まり、司教会議で承認される必要がある。

コプト教会では、聖人を認定される人は死後50年を経過している必要がある。

 

加えて、聖霊を有していたエクレシアイから聖霊が取り去られてゆく過程が緩慢で変化に気付けなかったであろうことも考えられる。それは「イザヤの昇天」の記述のような史料にも状況が明かされている。

したがって、欧州的キリスト教では、聖霊の降下の有ったエクレシアイが歴史で継続してきたために、新約聖書にある聖徒の祝福がそのまま自分たちに当てはまるものを見做す。そこには人間の祝福や義認への願望も働いている。教会員が聖徒と信徒との区別があることを認めたくないのは、自己愛的態度がある。だが、その一方で自分たちがキリストの道に歩み、迫害に遭うことは望まず、むしろ、異端と思えるものを排撃する側に回り兼ねない趨勢にある。そこにご利益信仰が見えている。

聖人が祈りをとりなすという考えは、聖人に祈る根拠となっている。

 

 

ヨマー86b「同じ間違いは3回までは許すべきであるが、4回目は許されない」⇒Ams1:3

 

 

ある宗教での信者の宗教行動の大きさは、得られる報いの大きさと具体性の程度に比例する。

見返りが抽象的であったり魅力が乏しいなら、信者は増えない。

これは人間が卑近な欲によって動いている証となっている。

 

 

Khirbet monastery Hebron NE 15km

From En Gedi 14km From Hebron 14km  From Jerusalem 30km

Negeb=south 

 

ウルガタ訳の詩篇順は、LXXに準拠しており、現代の詩篇順はマソラ本文に依拠。

 

Ps6:5 [marcy]に[ελεος]を当てている

 

2Th2:3の「背教」と訳される[ἀποστασία]は本来は政治用語で「謀反」

 

 ・三一を擁護し易い箇所Rm10:11-13

ここでShMのあるヨエルが引用されキリストを指しているように読める。

但し、その前の9節には『神はイエスを死者らの中から復活させたと信じるなら・・』とある。

 

 

ユダヤ教、現代の派閥

 

オーソドックス

 タナハだけでなく口頭伝承を受け入れる

 ハシディーム:18世紀のイスラエル・ベン・エリエゼル(バアル・シェム・トッブ)に従   う派で、歌舞による神秘主義崇拝を行う、カバラを用いレバ(ラビ)に従う集団。

黒ずくめの19世紀ポーランドの服装に、ズボンのすそを靴下に入れ、もみあげを切らず、毛の帽子を被り、女性は頭を剃りかつらをつける。

 

保守派

 タナハだけを聖典として口頭伝承を退ける。

 シュナゴーグでは男女同席が認められる自由さを持つが、カシュルートは守る。

 1845年にドイツの都市部から開始された運動で創唱者は

 

改革派

 ベルリンのモーセス・メンデルスゾーンによって始められた運動で、開明的に西欧文明を受け入れ、ミシュナーだけでなくタナハにある規則も象徴のものと見做す。

しかし、近年には保守派に近づいてきた。

 

 

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ヘブライ語の「永遠」オーラーム

タナハ中では、二回繰り返す用例を見ると象徴的な事柄に用いられ

契約にも契約の条項にも二重のものは使われていない。