Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

πιστος

1pet5:12
Διὰ Σιλουανοῦ ὑμῖν τοῦ πιστοῦ ἀδελφοῦ
忠実な兄弟シルワノ


Act10:45
καὶἐξέστησαν οἱ ἐκ περιτομῆς πιστοὶ οἳ συνῆλθαν τῷ Πέτρῳ,
ペテロと共に来ていた割礼をうけた忠実な者たち



これらは本当に「忠実な者」なのか?ギリシア語のこの単語に避けられない曖昧さが仇と成り兼ねない。


1Cor7:14
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められ(動)ており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められ(動)ているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖い(形)のです。

ἡγίασται γὰρ ὁ ἀνὴρ ὁ ἄπιστος ἐν τῇ γυναικί, καὶ ἡγίασται ἡ γυνὴ ἡ ἄπιστος ἐν τῷ ἀδελφῷ: ἐπεὶ ἄρα τὰ τέκνα ὑμῶν ἀκάθαρτά ἐστιν, νῦν δὲ ἅγιά ἐστιν.



Joh14:11
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

πιστεύετέ μοι ὅτι ἐγὼ ἐν τῷ πατρὶ καὶ ὁ πατὴρ ἐν ἐμοί: εἰ δὲ μή, διὰ τὰ ἔργα αὐτὰ πιστεύετε.

"ἐν"⇒by 163, with 140, among 117, at 113, on 62, through 39, misc 264; 2800 1) in, by, with etc.

上記の、動詞ではなく単なる前置詞の「エン」を「居る」と訳すべきか?
そうして「中に居る」と捉えさせ、三位一体を証拠立てる意図か?

ましてこの「エン」は、「神の王国はあなたがたのただ中にある
ἰδοὺ γὰρ ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν. のように動詞を伴った明瞭な意味を持ってはいない。

"Believe Me that I am in the Father and the Father in Me, or else believe Me for the sake of the works themselves.NKJV(英語上での"am"は不可避)

「わたしは父(と共に、を通して、によって)、父は私(と共に、を通して、によって)[と示す(言う)*]わたしを信じよ。あるいは、その業そのもののゆえに信じよ」。(*この動詞は原文に無いが日本文で不可避)

ここでは、キリストを通して示された聖霊の働きが父からのもので、その目的において両者が一致していることを示している。そのため、句の後半はその(聖霊の)業のゆえに信じるようにと促している。フィリッポはすでにそれを存分に見てきたはずであり、そこに十分に父の業や意図が示されていた。まさにキリストはその業によって父を証し続けてきたのであるから、最後の晩に及んで「父を示せ」とは的外れな要求であった。主要な日本語訳は、その聖霊によるイエスの父の証しの業に関わる道理を明かすよりは、「内におり」(新共同)などを強調して三位一体を証しすることに向かってしまい。文脈の持つ意味から離れようとしているようにさえ見受けられる。
では、聖霊の働きから注意を逸らさせることが、「聖霊さま」をも含むという「聖三位一体」の本意なのだろうか?結果として三位一体は自らを証しすることに汲々とし、聖霊をないがしろにしていると云うべきであろう。その証明に無理があり、「自分自身について証しを立てねば」ならなくなっているからである。





καταργέω⇒破壊する、廃止する、不活性化する、無効化する、切断される、放出される、分けられる 1cor12:8




πληρουσθε
満たす 成就する 完了するために満たす 欠け無く充足する
約束や預言を達成する 任務を実行 批准して達成する


結果とされている事柄

・漸進的聖化(御霊の実の経験)
聖霊の導きと照明によって霊的真理を知る
・一般的真理を特定の状況に適用できる
・救いの確信
・真に神を礼拝し愛す
・力ある祈りと真の神との交わり
聖霊の満たしにより奉仕の生活の力を得る、賜物の活用



上記、無いものを有るという神秘主義



様々な対訳があるが、たいていは主要な訳を別に付している。
今日、デジタルではそこは自由に閲覧できるのであるから、主要な訳より以前に、直訳文を第一に添えるべきでは?








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