Notae ad Quartodecimani

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制度疲労

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「制度疲労」の観点から
制度は様々な変化によって、実態に合わないものに変化する。
それは政治でも宗教でも規約をもつ組織には必ず起こる。それは制度の側が変化してもしなくても疲労が進み得る。但し、効果的に対処することはできる。
今日的民主政治の場合には定期的な選挙による政権交代がその大きな対処法の例と言える。(但し、これにも限界はある)


制度の疲労が進み、耐性の限界に近付くと、人間は制度そのものの更新を図る。

例;
明治維新:封建幕藩体制が諸外国との関係に不備があり、欧米列強のシステムや技術に劣り脅威を受けると見做された。
宗教改革カトリックの制度が自己矛盾を抱えており、そこに政治的経済的必要の圧力が高まっていた。
フランス革命:民衆が啓蒙されたことで、アンシャンレジームの維持に限界が生じていた。
アメリカ独立:植民地支配のもたらす不公正に植民者側の忍耐に限界が来ていた。
ソ連邦の瓦解:プロレタリア独裁が権力の腐敗の温床となり、行政が行き詰った。


現実の必要に制度が対処不足に陥って、その制度下にある人々、または外部の人々が制度そのものの変革を試みる。

外部からの変革の例;
オウム真理教の解体:すでに教団の教理に反社会性や圧制があって、外部との摩擦(犯罪)が高じていた(制度疲労)。そこで規模の大きいテロに踏み出したが、外部(警察力)からの実力による抑制と、法による規制がかけられ、教団は分裂した。(これはまだ十分な帰結に達しているようには見えない)

外部からの変革が装われた例;
米国のアフガニスタン介入:9.11テロという未だ不透明な事例に対して、ブッシュ政権アルカイダを容認していたタリバンに責任を転嫁した。この場合、アルカイダタリバン、米国の三者共にそれぞれの抱える制度疲労を敵と見做す相手に原因を指摘しようと試みていたと言えよう。

・制度疲労はあらゆる組織で起こり得る。
イスラームのシャリアーが世俗派から批判され、民の自由が求められることがある。(最近(2013)トルコ、エジプトの例)女性の教育や人権、女子スポーツにおける服装の問題など。服装は砂漠気候も影響するが、今日回教徒は様々な地域で暮らす。

ユダヤでは、西暦紀元の近付いた頃トーラーがヘレニズムに十分な対応ができなくなり、タナイームの必要をもたらしたが、それはミシュナーに結実する。
しかし、それも付け焼刃であって、根本的変革は人間からではなく、神の側からメシアの派遣と新契約の締結が行われた。

単なる人間の起こした宗教派閥の場合、このような昇華的変革はまず期待できない、というより不可能だろう。
したがって、キリスト教の各宗派はもちろん宗教という制度はどれも疲労を逃れられないし、制度疲労に対処するための小さな変革は恒常的になされている必要がある。
しかし、各宗派の根本的な教理から来る制度疲労に対処するには、その根本教理に手を付けねばならず、それには制度の管理者の抵抗を受けずには済まない。場合によっては、宗派の存続も危うくなるからである。
殊に、宗教の場合には政権の交代のような頻度での更新が不可能で、教祖や指導部の代替わりがあっても根本的更新は難しく制度疲労への対応力は極めて脆弱である。
その原因は、政治が地的であるのに対し、宗教が本来的に天的なものでなくてはならないからであり、その教えは常に上からのものでなくては宗教とは言えなくなる。
そこで、宗教が制度疲労を起こすとき、それに対処するのは「上から」の指導であるべきで、民主的方法を採った瞬間に、宗教は宗教でなくなってしまう。つまり、信者がその帰依する宗教を規定し指導さえ始めるとき、それを信じて従う意義が人間の側から消滅する。そのためか、宗教は政治に比べて対処変革の速度が非常に遅い。主要な宗教の数々は中世的姿(外見・教理)に留まっている。

宗教が制度疲労を発生しているとき、それがどう対処されるかで、その宗教の本質が問われることになる。
宗教制度の場合には、改善されただけでは却って神聖さの問題を残すので、大胆で大幅な改善は避けるよりほかなく、常に小出しに更新しないと、それ以前を問われることになる。それで多くの宗派で、世代を経るほどに過去の制度が現在のものとまるで異なるのはその為で、今の必要は将来に分散しなければならないし、古いものからの制度の痕跡を信者から隠匿し、消去できるなら更によいことになる。
その対処に窮し、信者の側からの改善が提案されるようなら、そこで、その信仰は(半分は)終わったとみて良いように思える。
それが単なる人間の教えであったことが誰の目にも明らかになったからである。たいていは、その改善の主導者は新たな宗派の指導者となるようだ。だが、それは次の指導者と宗派の予告でもある。
カトリックが醜聞に塗れながらも長命である理由は、制度疲労に対して小さな対処を上からの名の下に時間をかけつつも繰り返してきたからだろう。今日のカトリックを制度として見ると、ルターの頃のものとははっきり異なっている。この更新の原動力を与えたのは「公会議」であった。これは人間の集まりに過ぎないが、霊験を主張することで、上からの命令とすることができた。そうなると、実務的ではない儀式宗教の方が延命しやすいことになる。
この点では、新興諸派の方が制度疲労の対処に失敗し、分派に分派を重ねてきたように見える。そこでは「正しい信仰」が強調されて却って硬直化したためではないのか。所詮、宗派は人間の起こすものであるのに、それを認めない頑なさが災いしているからだろう。

そこで、宗教制度の疲労では、人間のものとしての不完全性と、天からのものとしての絶対性のジレンマが必ず生じる。

これを避ける唯一の方法は、宗教制度が人間の造作であることを初めから認めてしまうことだろう。そうして、更新の方法を限定しつつ、定期的に見直すことができ、一方で、神に関わるところを別に相応しく取り置けば、宗教であることができる以上に、宗教としての超絶性を確固としたものにできる。その為に求められるのは、人の不完全を認め、真を神に帰す指導層の謙虚さと真の信仰だろう。

多くの指導者はこれを怠り、人間に人間を従わせようとして、陥穽に落ちている。
信仰が自発的なものであるように、宗派への所属もまったく個人的で自由な裁量に任せて出入り自由にしておくなら、制度更新のときのショックは相当に軽減される。




・ボエトゥス派の主張から
最終期の祭司はサドカイとボエトゥスがあって、後者は無酵母パンの祭りの聖なる日の祭司による麦束の刈り取りに異を唱えていたという。

この論議を、イエスが畑の通過での食事の議論に援用したという論議あり、その言葉の中にダヴィデの故事が現れ、そこで祭司職の安息日規定に反するかのような行いも併せて述べられているため。

これらは、元々ふたつの事例を並べて述べたのでは?

(ボエトゥスは元々在エジプト神殿の祭司系の子孫でエルサレムに戻って祭司権の正統性を主張、サドカイと衝突。そこに小異を争う必要があったか?)











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