Ωριγένης Αδαμάντιος
Ὠριγένης
略歴
185年頃アレクサンドレイア生
254or255年に69歳で没
「オリゲネス」の意は「ホルスの子」*であり、彼の命名以前の両親はキリスト教に未改宗であったとも
['Ωριγένης]というように字頭に有気記号を伴うのが「ホルスの子」としてはより正しいらしく、その場合「ホリゲネース」となるが、何かの習慣で省略が起こるらしく無気記号が書かれオリゲネースとされる。(この辺り不明)
「使徒たちに次ぐエクレシア最大の教え手」
「我々すべてを鋭利なものとする砥石」と評され
近代においても
「キリスト教最初にして、最大の学者」と評価される
しかし、中世期には「あらゆる異端の源泉」とも
父レオニダスはセプティミウス=セウェルスの迫害の年202年に殉教、それが斬首刑であったので、ローマ市民権保持者の可能性が指摘される。当時オリゲネスは17歳未満。それまで父は彼に聖句の暗唱を指導、子はそれによく応えたが、聖句の深い意味を質問して父を困らせた。
彼が殉教に憧れながら、彼自身は殉教してゆく人々の介添えをしていることから、その母がエジプト人(ベルベル)のゆえに、彼は迫害の対象となる人種に含まれなかった。
この迫害の時期に、クレメンスはアレクサンドレイアを去っており、彼がクレメンスに師事したとは言い難いと言われる。
実際には、父の死後に篤志家の援助でアンモニオス=サッカスに師事、新プラトン哲学を学ぶ。
211年にセプティミウス=セウェルスが死去し、迫害が終わると、彼はアレクサンドレイアのエクレシアに於いてデメテリオスから按手を受けカテキスタに任命される。その後、自ら去勢。
230年にアテナイに向かう途次にカエサレイアにてプレスビュテロスとして受按手。この一件が以後、上長デメテリオスとの確執を生む。
アレクサンドレイアのデメトリオスが死去すると、その意向により次のエピスコポスに就任したのは、オリゲネスの弟子であったヘラクレスだったが、この者は師であるオリゲネスの影響を排除しようと、ローマに中傷を行い、結果としてオリゲネスはアレクサンドレイアのエクレシアから追放される。これは生涯にわたる心の傷となる。
しかし、パレスチナのエピスコポス、テオクティストスは彼がカエサレイアに住むことを快諾したばかりか、指導者として受け入れた。以後、この地で優れた弟子たちを輩出することになる。
彼は新プラトン主義哲学者とも見做されるが
自身は、ギリシア哲学のキリスト教への援用を、シナイ山麓でのエジプトの金を利用して作られた偶像の崇拝になぞらえ、この危険を指摘してはいた。
第六世紀半ばには、本人死去のままカトリックから異端宣告が下され、多くの著作が破棄された。
今日残存するものはカッパドキアのバシレイオスとグレゴリウスによる華詞集のギリシア語断片と、ヒエロニュモスとルフィヌスによるラテン語訳本によって伝えられたものである。
・不三位一体
神は自らの善の完全な像として御子を生んだ。
御子の出生は永遠の出生である。子は父よりも小さい光である(諸原理)
父から発した知的実体であり自存するものである。
子と聖霊は父なる神にアルケーを有するが、善なる神から生まれ発出したものとして「キリストと聖霊の内にのみ実体によるものとして善が存在しており」三者は本質的に永遠に善なるものである。このゆえに、父と子と聖霊の三位は「幸いなるもの、根源的なものと呼ばれる」
以下序文から--
使徒の次の教えは、キリスト・イエス、この世に来られたこの方が全ての被造物より前に父から生まれたといっている。
この方がまったく創造の際に神に従属していたのである。
「まさしく彼によってあらゆるものが存在するようになった」(ヨハネ1:3)
「キリストは、神の象りであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、自らを空しくして僕の様をとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、自らを低くして死に至るまで、それも刑木の死に至るまで従順であられた」(フィリピ2:9-8)
そして人とされながらも、元来そうであったように神であり続けられた。
処女と聖霊によって生まれたというところ以外は、私たち人間の体に似た体を持たれた。
またこのイエス・キリストは実際に誕生し、また実際に受難した。それは幻想ではなく*、人と同じ死を受け、実際に死を遂げた。そして実際、間違いなく死者から復活した。復活の後、弟子たちのところにしばらく留まり、それから昇天している。*(グノーシスが言うような)
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Εν αρχηι ην ο Λόγος
オリゲネスのパスカ理解⇒http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20130507/1367956562
『もしオリゲネスが試みたことに似ている何らかの企てを現代の中に求めるとすれば、中国人か日本人のある賢者がキリスト教に回心し、自分を取り囲む非キリスト教者の教養ある人々、知恵を求める人々のために、真の教義を教える塾を設け、その人々の親しみ慣れた問題の出し方、思惟方法、学問的用語を用いて、彼ら本来のアジア的精神文明のただ中にあって、できるだけ効果的に彼らにキリスト教を教え、キリスト教を受け入れるように彼らを導くという企画を想像すればよかろう。』クナウバー
オリゲネスがクラスを上下に分けたことについて
エラスムスはルターに対して「わたしにはアウグスティヌスの10ページよりオリゲネースの1ページの方を評価する」というようなことを彼への反駁の中で述べていた。しかし、エラスムス自身はかつてアウグスティヌス修道会でその著作の多くに触れており、真向から論駁するには躊躇していたとされる。宗教改革期でもアウグスティヌスの権威は絶大であり続け、ジャン・カルヴァンはその多くの著作を諳んじていたほどである。<オリゲネスへの評価が然程にならなかったのは、やはりカトリックによる異端宣告が災いしているのと、アウグスティヌスの夢想的教理の確立以前の原始キリスト教に近いために、近世ヨーロッパには馴染まなかったように思われる>