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アンセルムス 三一論とモナルキア

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唯一神論、単一神論
モナルキアという言葉に含まれるモノというのは、モノラルという言葉からもわかるように「1つ」という語義である。
このモナルキア主義の発生はキリスト教のルーツと深い関係がある。本来キリスト教は厳格な一神教であるユダヤ教の中から始まった宗教運動であった。ところがキリスト教では父なる神のみならず、子なる神イエス、そして聖霊という三つの「神」をどう解釈するかという問題に突き当たることになる。モナルキア主義はあくまで不動の唯一神論を基点として三位一体を解釈しようとした。そのため、父、子、聖霊という三つにおいてのそれぞれの神性にゆらぎが生じることになるのである。
モナルキア主義にはアプローチの違いによって、「動態的モナルキア主義」と「様態的モナルキア主義」の二つの方向性があった。
【動態的モナルキア主義
以前から存在した養子説の流れをくみ、イエス人間性を強調することで神の唯一性を維持しようとしたものである。つまりイエスはある時点で神の霊あるいは力(デュナミス)を受けたのが、本質的には人間であるという立場である。
【様態(モドゥス)的モナルキア主義
キリストの神性を強調することで神の唯一性を維持しようとした。たとえば天父受苦説とよばれる立場がそれにあたるが、十字架につけられたイエスは神が人間の様態(モドゥス)をとっていたものであり、苦しみを受けたのは父なる神であったという説などがある。

【アンセルムス】より
…アンセルムスは信仰を超自然的・非理性的に固定すること,また逆に自然的理性の中にとじ込めることのいずれをも退けて,神学固有の認識方法を立てたのであるが,その対象把握の深さと論証の厳密さとは比類なきもので,時代を超えて神学の模範となった。最初の著作《モノロギオン》はアウグスティヌスの《三位一体論》にならいつつも,独自の仕方で最高存在が三位一体をなすことを論証し,次の《プロスロギオン》では逆に三位一体からして神の存在が概念的にも必然であることを論証する。そしてこの循環の中で,最高存在はギリシア的な永遠不動の神ではなく,三位一体として働く活動的な存在であることが明らかにされた。…

カルタゴ神学者テルトゥリアヌス、ローマの神学者ヒッポリュトスはモナルキア主義を激しく糾弾、それ以降の教会内の議論によって、モナルキア主義は三位一体論の確立と共に、異端の烙印を押されて歴史に消えてゆくことになる。しかし、皮肉なことに彼らの存在があったからこそ正統的な三位一体論が確立したともいえる。モナルキア主義の思想はやがてアリウス派へと引きつがれ、4世紀のキリスト教をゆさぶることになる。<引き継がれたのではなく、ユダヤ教嫌気から多様な二位論が先在していた。その後に正統の風を装って異教由来の三一がエジプトから現れ、先の過渡的になっていった二位論をモナルキアと呼んで蔑視、排斥するに至ったというべき>

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三一論の概説

キリスト教の根幹的教義の一つ。キリスト教においては,神はたんなる超越者でも内在者でもなく,超越者にして同時に内在者,見えざるものにして同時に見えるもの,人格以上であると同時に人格存在としてとらえられている。さらに歴史を超えると同時に歴史の中に働くものとして,神が人間となり(受肉),この人間が神のもとに帰ってのちに聖霊をつかわし,これによって受肉にはじまる救いの業(わざ)を継続し完成させることがいわれる。-世界大百科事典2版

キリスト教の教理で,一つの神格にある三位格 (→ペルソナ ) としての父と子と聖霊のまとまりをさす。三位一体という言葉も,この教理を明記した個所も新約聖書の中には出てこない。また,イエスもその弟子たちにも以下のように旧約聖書の中で記されている神の唯一性を否定しようという意図は見られなかった。 -ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 一部

キリスト教の根本教義の一つで,英語ではTrinity。〈一実体;una substantia,& 三位格;tres personae〉で表される神観,すなわち父なる神,子なるキリスト,聖霊をもって,超越すると同時に内在し,人格を超えると同時に人格として歴史の中に顕現する神の存在様式を述べるもの。-百科事典マイペディア

【アタナシオス】より
…神学上はアリウス派の従属主義的キリスト論に対抗し,キリストを受肉した神のロゴスとしてとらえ,したがって父なる神と子なるキリストは〈ホモウシオス(同質)〉であると主張した。また聖霊についてもその神性と父なる神との同質を説き,三位一体神観を完成させた。この立場はキリスト教神学の正統となった。…


キリスト教】より
…しかし,われわれが現在何の抵抗も感じないで使っている言葉のなかには〈世俗化〉されたキリスト教の用語が多くふくまれている。代表的なものとして〈十字架〉〈復活〉〈福音〉〈バイブル(聖書)〉〈三位一体〉〈洗礼〉〈終末〉〈天国〉などを挙げることができよう。これらの言葉がしばしばキリスト教的起源をはっきり意識しないで用いられている事実(たとえば苦痛や犠牲を〈十字架〉,必読書を〈バイブル〉などと比喩的に呼ぶ場合)は,ある意味でキリスト教の土着化のしるしとみなされよう。…


【数】より
… 3は誕生,新生,対立する原理の調和,具象,3点を結ぶ三角形で形の始まり,統合の中の成長の芽を表し,力動的な変化の数とされている。キリスト教では三位一体,キリストの生誕を祝福する東方の三博士の参拝などにみられるように聖なる数であり,中国では天・地・人の三才を示す。昔話や伝説には,三つのなぞ,3個の箱,三つの願い,3人の姉妹または兄弟などの主題がよくみられ,呪術的で神秘的なものごとの達成,失敗,転換とかかわる。…


【聖家族】より
外典書によると,〈エジプト逃避〉からの帰路,聖家族はエリザベツの家に立ち寄り,イエスヨハネの2人の子どもは幾日かをともに過ごしたが,ヨハネはすでにイエスを敬い接したことが記されている。また,ヨセフ,マリア,イエスの3者は,〈聖三位一体(天上の三位一体)〉に対する〈地上の三位一体trinitas terrestris〉とみなされ,二つの三位一体がしばしば重複して表現された(ムリーリョなど)。 なお,聖家族の祝日は公現祭(1月6日)後の最初の日曜日と定められている。…



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以下、ラフなメモ


洗礼で「天国行き」などの救いの切符を与えるようなものでなく。

人生の成功に導くようなものではなく。

要するに「ご利益信仰」ではない。

人類全体の救済という神の意志に協働するという大志が要る。

そこに価値を感じられない者にはまったく向かない。

といって、他の宗派を批判はしない。それは自分たちの仕事ではない。

また、どこにも聖霊が無い現状では、自分たちが正しいとも言い切れない。

その主要な業は、神と人をひたすら愛すること。

主役は神であり、その意志を探り、それに調和して働くこと。

キリストの王としての臨御と聖霊を待ち続ける。

つまり、神への専心が求められるので、一般のキリスト教会からすれば、修道会のようにさえ見えるかも知れない。

一般のキリスト教会がニケアやカルケドンの信条に従うのに対し、その二百年も古い第二世紀初頭の小アジアキリスト教を標榜する。

そこに三位一体は無く、天国や地獄のような仏教のような異教と変わらぬような教理も無い。

そこに有るのは、ヘブライの神YHWHとその任命されたメシア=キリスト、そして神の王国である。

こちらがヘブライキリスト教であるのに対し、一般のキリスト教会はギリシア=ローマ型、つまりは異邦人のもの。

同じキリスト教の名の下に、神も違えば、目的も救いも願いまでもが異なっている。

しかし、違いを言い立てれば争いの元となるばかりであり、一般的教会のように誰も彼も招こうとは思えないし、実際、それは無理がある。

そこで、誤解の無いように、極端を避けつつも様々な名称に違いを設け、ギリシア=ローマ型教会と住み分けを図るべきだろう。

名称も教理もひとつひとつを吟味し、違いを明瞭にし、こちらから「一般的なギリシア=ローマ式教会よりも古い小アジア式です」と初めから断るほうが良いように思える。

教会の語はもちろん用いない。エクレシアあるいは招会でよい。
キリスト教 新十四日派 エクレシア
これでよい

現状に憂い、且つ、ご利益ではなく、神の意志を求めるものは来たれ

大志の無い者は来るに及ばず


何故にどこの教会も「重荷を負いたる者は我に来たれ」の句を用い、「どなたでもどうぞ」としつつ、人数が増えないか?












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