Notae ad Quartodecimani

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オリゲネスのパスカ理解

オリゲネス
c.245「ペリ パスカ」
カエサレイア時代15年目頃(約60歳)

以下、朱門氏----
『過越について』には、既に仕上げられた『出エジプト記講話』を前提にしなければ説明できないような荒削りで暗示的な聖書解釈が見られるのである。

オリゲネスによれば、キリストのご受難の予型は、『民数記』21,4-9および『知恵の書』16,5-12で述べられている、モーセによって棒の上に掲げられた青銅の蛇であって、旧約聖書に規定されたパスカなのではない。パスカは、使徒パウロが述べているようにキリストご自身の予型、しかも、ご受難とご死去そしてご復活を通して無知の闇に支配されたこの世のエジプトから脱出し、約束された天の国へと移行されたキリストご自身を指す予型なのである。本書のラテン語訳抜粋を作成したカプアのヴィクトルは、オリゲネスが本書第32節で、こうした意味でのパスカを「過越の秘義」(mysteria paschae)と言い換えたことを伝えている。これはベネディクト会のO.カーゼル師が「過越秘義」(ミュステリウム・パスカーレ)と呼んでいたものを思い起させる。

 ところで先ほども述べたように、過越論争の問題はパスカの解釈だけに始終するものではなかった。それは、感謝の祭儀が制定される最後の晩餐の日時の決定にも関わっていた。それをいつにするかによって、新受洗者のための感謝の祭儀をユダヤ人の過越祭と同じニサンの月の十四日にするか、それともその後に来る最初の日曜日すなわち主のご復活を祝うご復活の祝日にするかが争われたのである。当のオリゲネスも、以前『ヨハネによる福音注解』第10巻でパスカについて暫定的に論じたとき、そうした問題があることを充分に知っており、またそれが扱いにくいものであることをほのめかしている。彼は言う。

 「なお、春分の日の前後に祝われる過越の日付に関する問題を考察すること、およびその問題が引き起こすその他の問題点について検討することは別の機会にするのがよいだろう」。

 これは、あたかも彼が『ヨハネによる福音注解』第10巻の口述時に、『過越について』の論考を作成して、そこで過越問題について包括的に考察する意欲があったことを示しているかのようである。ところがそうした憶測とは裏腹に、オリゲネスは、本書の中でこの日取りの問題についてほとんど断定的なことは何も言っていない。勿論、その日取りについての彼自身の見解が表明されていると思えるような箇所はある。彼は、パスカがキリストのご受難の予型ではないことを論証する過程で、次のように述べているのである。

 「しかしこれがもしも救い主のご受難の時に行なわれたものではいとすれば、その場合、彼のご受難はパスカの対型ではなく、パスカは、私たちによって屠られたキリストご自身の予型になるのである」。

 これらの言葉が前後に置かれた文脈から切り離されて文字通りに受け取られれば、オリゲネスはどうやら、共観福音書の記述に従って、最後の晩餐の日付は、旧約のパスカが挙行されるニサンの月の十四日で、主のご受難はその翌日だと考えていたことになろう。するとオリゲネスは、サルデスのメリトンと同じように、「十四日論者」だったのであろうか。やはりそれらの言葉の前後に置かれた文脈に注意を払うべきである。それらの言葉の前では、パスカは私たちキリスト者が祝う真のパスカであり、また後では、パスカ・キリストは精神的なものであって、感覚的なものではないと言われているのである。オリゲネスの議論はいつのまにかユダヤ教のパスカからキリスト教のパスカ・最後の晩餐、しかも精神的なパスカ(小羊・キリスト)に移っている。現実のユダヤ人のパスカにこだわらずに、純粋にキリスト教の内部でパスカを見れば、確かにキリストは最後の晩餐の翌日に苦しみを受けられたのである。約束された神の御子イエス・キリストの到来によって古い契約の律法が完全に成就されそしてある意味で廃されたという事実の上に成り立つ新しい契約のパスカ、精神的なパスカを重視するオリゲネスにとっては、ニサンの月の十四日にパスカを行なうべきか否かという具体的な日時の問題は、キリスト=パスカの本質とはもはや何の関係もない、どうでもよい問題のように思えたのではあるまいか肝心なことは、キリストの過越秘義に与り、罪から浄められ、この世の悪から解放されて、天に昇り、御父なる神のみ許でとこしえに開催される真のパスカに集い、これを無数の天使たちと共に祝うことなのである。

 しかしながらオリゲネスが本書で精神的パスカ、パスカの霊的な意味を展開しているからと言って、彼が感謝の祭儀で祝別される小羊の肉と血を象徴的に解釈している、したがってオリゲネスには、感謝の祭儀の秘跡的性格が見えなかったとは、絶対に言えない。L.リース師が言うように、司祭オリゲネスは、今も昔もキリスト教信仰共同体の中で常に行なわれてきた感謝の祭儀の枠内で、その霊的意味を探求しただけなのである。オリゲネスは感謝の祭儀で祝別されるパンとブドウ酒が何か特別な秘跡としての性格を有していることを決して見失ってはいない。たとえば彼は、『過越について』の数年後に書かれた最晩年の大作『ケルソスへの反論』で、感謝の祭儀で捧げられ祝別されて食されるパンについて次のように述べている。

 「しかし私たちは万物の造り主に感謝を捧げ、捧げ物への祈りと祝福と共にもたらされたパンを食べる。このパンは、祈りによって何かしら聖なるからだとなったのであり、それは健全な意図を持ってそれを享受する人々を聖化するからだとなったのである」。

 ベネディクト会のF.フェッスラー師の詳細な分析によると、オリゲネスにとって聖性は卓越した神性を指し示し、聖化は神化に等しい。拝領するものに聖化の効果をもたらすこの神聖な尊いパンが、どうして単なるキリストの身体の象徴に過ぎないと言えようか。またどうしてそれが祝別される感謝の祭儀が単なる主の晩餐の記念たりえようか。




ソース:http://www.geocities.jp/studia_patristica/passt0.htm
(文字色と太字の変化は編者)


以下、森安氏-------------

教皇グレゴリウス十三世が(在位一五七二〜八五)が暦法の改革を考えたのは、ユリウス暦の・・(p149)

Memo--------------------
アタナシオス「アフリカの司教への書簡」
から、当時の東方では、キリキア、シリア、メソポタミアのエクレシアがユダヤ人の過ぎ越しにパスカを合わせていた。
(イグナティオスの手紙からすれば、これは各地のすべてのエクレシアを意味しないと思われる)

これをニケアーでコンスタンティヌスは、「神の摂理は適切に正し、一つの制度の下に置かれることを望んでおられる」と言ってユダヤ人との決別を企図した。

太陽暦に対して復活祭の日付が移動するのは、陰暦のユダヤの祭日を避けるためであり、そこに主体性の無さも見える。




所見------------
オリゲネスの置かれた状況は、ユダヤの明解な出エジプトの子羊の対型としてのイエスを示すことを躊躇させたように見える。
理由は、シリアやパレスチナキリスト教徒の反ユダヤ性ではないか。
既に、イグナティオスの手紙に表れているように、主の晩餐が制度化に向かいつつあり、そこではユダヤ教と異なるエレメントの意味付けが要請されていた。
そこでギリシアプラトニズム哲学との融合が触発され、単なる儀礼秘跡へと向かい始めている。
そこでは、「聖化」がキリストの血の犠牲から離れてしまって、その秘跡エレメントそのものがもたらすものとされてゆく。

もちろん「聖化」の意義も「聖なる者」となることの意味も、アブラハムへの約束もそこには意識されているように見えないし、ここで「神の王国」など思いも付かぬことになっていよう。第一に、聖餐に預かる者が『新しい契約』に参与しているという点は見る限り論外にあり、ただ「信徒に聖化をもたらす神秘的儀式」として見ている。出エジプトの子羊の意味は後退し、犠牲が復活によって相殺されているほどになっている。これではヘブライに託された経綸を無視するに等しく、キリスト教を根無し草のような貧弱な「ヘレニズムによくある宗教」にしてしまった。そうして原始キリスト教の時代は終わったと言える。

しかし、使徒ヨハネの伝統は、神の子羊としての過越しの犠牲たるイエスであり、それはヨハネ福音書でも黙示録でも一貫している。パスカは「神の王国」と密接に結びついており、それはルカ福音者も強く擁護するところである。パスカが『神の王国』と関連なく行われるところでは、そこでキリストに注視するあまり、使徒たちの役割がまるで見落とされている。即ち『アブラハムの裔』『女の裔』と成るべき『新しい契約』という「聖化」を遥かに凌駕する価値の高みにある事柄への無理解であり、秘跡化に拘るところには、この認識に無さが余りにも明らかにされているのである。
オリゲネスのパスカ理解は、既に内容でギリシア的なものとなっているが、幾分の躊躇を表面的に見せるという、異邦人化の移行期の末尾に位置するものだろう。
調査しておきたい点は、この時期の人々がパスカと新しい契約、また天的身体を持つ意義をどう見做していたか?

(上記朱門氏の抜粋内では、既にユダヤ人の15日セデルが顔を出している)



△「実際、感覚的世界もまた、すべてのものをお造りになった方のものであると主張する私たちは、おん子がおん父よりも優れた方ではなく、劣った方であると言明する。私たちがそう言うのも、「私をお遣わしになられた方は私よりも偉大な方である」と言った方を私たちは信じているからである」(24)。


・オリゲネス(人物)⇒http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20130712/1373621650

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