Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヨブ記 舞台裏と意義

ヨブ記の由来

ユダヤ伝承はモーセの記したものとしている。

非常に古い書で、舞台はおそらく西暦前十六世紀以前のパレスチナの東に広がる「アラビア」、この書に登場する全員が非イスラエル人という点が特異な書。ミデイアンのケニ人祭司エテロからの情報か?

文章は詩文で難解であり、そのためアラム語からの翻訳ではないかとさえ言われる、しかし、マソラと死海の差はほとんどないとのことであるから、伝承の信憑性は低くはない。それでも伝来の状況などはトーラーと共にあったこと以外不詳。その意味では謎の深い書である。

原トーラーの成立より早くに存在していた蓋然性が高く、そうであれば最初の聖書経典であったことになる。神名YHWHが存在することからすれば、今日のヨブ記は、創世記と共にモーセ以後に再編纂されたものと言える。但し、現状でのヘブライ語写本には、ハ ティクネが二か所確認されているため、ソフェーリムの活動以降の編纂であることになる。

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ヨブ記の出演者:イドマヤとアラビアの境界・ウツ<アウシティス>の住人ヨーヴאיוב「敵意の的」これは本書の内容に沿って誇張された名に違いなく、本名とは言えない。<LXXによれば「ヨバブと呼ばれた」と註解される>

他の出演者:神יהוה:悪魔השטך(反抗者) イサクの血統に属するエサウ系テマンのエリパズאליפז(エサウとアダの子ではない):アブラハム血統のケトラ系シュアハのビルダドבלדד:ナアマのツォファルצפר <おそらくイシュマエル系アラブ>:テラハ系ナホルの子ブズの系統のエリフאליהוא この五人はいずれもテラハの系図に属し、尊崇する神(エル・シャッダイ)は共通していたであろう。エリフだけがテラハ一族に在ってもアブラハムの子孫ではなく歳も若い。従って正論を述べたのはアブラハムから最も遠い血統にある人物であったことになる。本書にはヤコヴ以下の嫡流系統(イスラエル)に属する者は皆無である。


LXXによれば:エサウの子らの出自でタイマン人の王のエリパズ*、サウカイア人の専制君主ビルダド、ミナイア人の王ツォファル(Smith's Bible Dictionary:おそらくシリア方面のアラビア人)*(エリパズについてはエサウカナン人の妻アダに産ませた長子が居るが、アブラハムから四代目でありその子にテマンが居るので、その子孫の別にエリパズが居てそちらを指しているかも知れない。テマンの支族は知恵で知られているので、それを強調した可能性もある)

LXXの註解では、ヨブ自身はヨバブが元の名、エドム人アブラハムから五代目、父の名はザレ、母はボソラ、彼自身の妻はアラビア人 Gen36:33によれば、彼自身もエドムの主要都市ボツラ出身のエドム人で支配者 「ベラが死んで、ボズラのゼラの子ヨバブがこれに代って王となった」その王権はフシャムに引き継がれる(エドムの王権は選挙で獲得したらしい)
Douglas James Wilsonをはじめヨブをヨバブに同定する識者も多い。
アブラハム⇒イサク⇒エサウ⇒ザレ(ゼラハ)⇒ヨバブ イスラムではアイユーブと呼ばれる
1610 Douay-Rheimsによると本編はヨバブ自身によってアラビア語で書かれ、モーセヘブライ語に訳したとされる。

アブラハムからイサク、ヤコヴを通じると五代目は十二族長の息子の代に当たるのでイスラエルの時代はほぼエジプト滞在の頃に当たる。(モーセは7代目)

アブラハムからの世代が然程に進んでいない時期には、確かにエドムもイスラエルが『その境界を犯すべきでない』『兄弟』であったろう。嫡流イスラエルが去った後にアブラハムのほかの子孫らの間で、アブラハムへの約束の行方が謎となっていた中での論争であり、脚色されているにせよ、実体となった何等かの事件があったことを否定し切ることはできない。
イスラエルに対しては、後に律法契約の締結という一つの答えが出るが、それ以外の子孫らについてはこの書に於いて道徳的規制とは逆が教えられている。それは同時に律法遵守の「人の義」の危うさについて本書が補完しており、律法と双璧を成すほどの意義が込められている。

従って律法契約よりも早く、イスラエルが約束の地に不在の間のアブラハムの非嫡流の子孫らの論議と、その誤謬を一歩離れて指摘したナホル系統の子孫エリフの出来事であったことになる。
ブズの子エリフがアブラハムの子孫の外、同じくテラハの子ナホルの血統からの出身者であるところは、アブラハム契約から律法契約と続く流れから距離を持つ広い知見を表すようなところがあり、条約の約定に視点が集中し、時には近視眼化することになるイスラエルとその周辺(エドムも後のハスモン朝期にユダヤ教化されている*)に対する普遍的観点を唱える役割をその血統が物語るようなところがある。
ヨハナーン・ヒルカノスⅠはエドム征服の折に、彼らが以前からの偶像崇拝を止め律法を順守し割礼を受けることを条件に生存を許したため、その時からエドム人ユダヤ教徒となって西暦起源を迎えた。

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ヨブ記の論理構成

神とサタンのヨブに関する論争

ヨブの三人の友らのヨブへの譴責

以上ふたつは、ヨブ個人の義を強調する働きを為しており、その後に本論に進んでいる。ここでこの書が終わっていれば、ヨブの人間的な義や特性が勝利して終わる。

この観点からすれば、エリフの発言の前までは、サタンも三人の友もヨブの義を際立たせる舞台装置であった。

この書の目的は以上の論議にはなく、エリフの発言以降の諸章に真骨頂がある。

それは、人間の義が如何に優れていようとも、神の義の前に意味を成さない、ということにある。
従って、倫理に関するところでの仏教的「因果応報」は、律法の外側一般では通用しない。キリスト教での、人間の『罪』はアダムの子孫である以上逃れられないので、如何なる善行も神の是認に及ばない。

この結論は神の裁きに際して極めて重い意味を持つ。

ヨブですら悔い改めたのであれば、その他の者らは押しなべて「神の義」に道を譲らねばならない。

しかし、これが難しい人々は実際に多く、それは歴史上に政治と宗教の別なく、「何者が正しいか」という事柄が世の全体にとっての争論また闘争となってきており、殊に終末においてはこの論点が神に向けられ、人それぞれの裁きを分けることになるのであろう。

もし、結論として、ヨブが苦しみを通して神と人との関係を悟った、或いは、神への忠実を如何に尽くしたか、というように捉えるなら、本書の趣旨とは無関係、また逆の方向に進んでしまう。この書の本論はそこにはなく、ヨブの義が神の前に如何なるものであったのかに置かれている。また、本頁下に別記するように、正しい者が災難に遭う理由を説明しているのでもない。この点を含めヨブ記の本旨はかなり広く誤解されている。


ヨブ記の内容評価

まず、全体を概観すると、善悪と神の関係について、相当に奥深い内容が語られている。また、天体や創造物の実態や神の知恵の描写に稚拙さが見られない。

殊に、カバやワニについての知識は、解剖や日常の様々な時間帯に観察しなければ知りえないものがあり、ここにはエジプトの知恵が感じられなくも無い。

しかし、その本領は神と創造物の関係という人間の観点を超えた、また人間に案出することの難しい内容にあり、しかもそれが詩文として装飾されながらも淡々と語られている辺りはまったく驚異的である。

特に32章以降、因果応報というような人間らしい発想が一端崩壊し、その中から人間の義の限界が、ヨブを最たる例として明らかにされてゆく後半部分は超絶的で、単なる人間の知恵による著作とは思えない。神の義は法則のように作用はせず、その道を辿りだすことは人間理性を超えることであることが示される。神の義にアダムの子孫は誰も到達しないからである。
(仏教のアジャセ王の故事に表面上は似るが、意味は正反対であり、ヨブ記は因果応報を唱えていない)

モダン期には、道徳的法則も自然法則と同様に作用する、と尤もらしく主張もされたが、それは人間の日常では個別にそう見えることもある。しかし、総体に目を向けるとそれだけでは説明が着かない。ヨブ記は遥かな過去にそれを指摘していたといえる。

因果律については、律法を守るときに祝福が、守らないときに呪いが、律法契約そのものに織り込まれており、実際にイスラエルの上にそれは起こることになった。では因果律は誰でも人に同じく適用されるのかといえば、ヨブ記の登場人物のすべてが非イスラエル人であることは示唆的である。『律法はヤコブに与えられた』ものであり、その因果応報も律法の存在に起因するのであり、それ以外の諸族に同様に適用されるという理由は聖書には存在しない。

従って、律法の外に在る人々については、神のゆえの倫理上の因果律は存在しないことになる。そこでどれほど道徳律を守ろうと、それは神との関係を左右するものとはならない。ヨブが最高道徳者として登場を要請されるのはこの論理を極めることにある。これは登場人物のすべてが律法契約の対象者外であるゆえに可能な論議といえよう。

そうであれば、ヨブ記は律法を補完する働きを荷っており、律法がアブラハムの裔であっても守られないことを予知しているかのようで、後代のキリスト教的でさえある。

イスラエルが律法遵守に成功するのであれば、また同様に、ヨブの義が勝利するなら、共に人間は業に拠って義を得られることになり、苦しみや試練となる事柄を与える神は不当であったことになる。

しかしそれでは『義人はいない』という現実を踏み越えることになり、人は贖いなく業によって『義』に達することができるという結論に至る。

現実には、この世は神から離れたゆえに苦しみを経ているのであって、人にはおしなべて義が無いゆえの事である。
しかし、人間は社会を維持するために一定の正義観念を持ち、それを互いの間の合意、つまり「法」とし、それを遵守させるための「権力」を必要としている。そのため、思い描く「義」が人間の間での善行と誤解しがちで、それが神の前にも通用すると思い込み易い。ほとんどのキリスト教派の教えがその影響下にあり、宗教とは「敬虔で善良な人を作るもの」であるとされるきらいがある。
だが、それはパリサイ派そのものであり、『罪人を招くために来た』ナザレのイエスと衝突を繰り返した。今日でも、「「神の嫌う行い」というものがあるのだから、やはり神は人に善良であることを望んでいる」として、信者の行状を善化することが聖書教の眼目であると反論する手合いもあるが、キリスト教に関する限り、それは小手先の技量に過ぎず主要な目的を欠いている。信者が善良であるかどうかはキリスト教そのものとは無関係であり、善行を語り始めれば止め処ない規則の羅列に陥るばかりか、そこから抜け出すことができなくなってしまう。

この誤謬から抜け出せるキリスト教徒は極めて稀であろう。原因は人間の家庭での成長過程も考えられる。子は親の規制を守ることで喜ばれ、是認も受ける習慣が繰り返されると神との関係に於いても本能的に同じように反応しがちになるとしても自然なことではある。だが、神は何もかもが人間の親の相似形ではなく、『アダムの罪』という越え難い障壁の向こう側に神はいる。
多くの教会や宗派にとって、この点を現実的に捉えることが難しく、どうしても徹底されない傾向があり、その理由を作っているのは「人間社会の常識」であろう。だが、真にキリスト教を求めるのであれば、それを越えて行かねばキリストの犠牲の真価を捉えたことにはならない。

ヨブ記に於いて、『義』を巡って彼が争った相手は、サタンでも三人の友らでもなく、明らかに神であった。その論点は「人は神の前で自ら義となり得るか?」であった。ヨブが、事細かに自分の善行を論い、次第に自分は正しいのに神は自分を不義者として扱ったという本音を友らとの試練で漏らし始め、遂に決定的に自己の義を提示して神は不当だと言うに至ったからである。
だが、この傲慢な誤謬を、後半に入ってからエリフがヨブの義の脆弱性を徹底的に暴き、そのうえでその場に臨御した神自身が最終的にヨブの限界を諭した。それに対してヨブは発言を撤回し悔改めており、こうして論議は終了する。

神が彼を祝したのはこの悔改めであり、彼の義がアダムの子らの最高度に達していたからこそ、その悔改めの価値が重かったと観るべきである。即ち、ヨブを最たる例として、人は誰も神の前に義を唱えることはできないことを端的な仕方で明示するのがヨブ記の役割である。



以上の観点からヨブ記の適用を書き出すと ⇒ 「ヨブ記の結論、唯一正統な宗教があるか?」

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ヨブ記への幾つかの解釈への反論:
×神を崇める人に苦難を与えながら神が沈黙する理由をヨブ記は述べている

一見すると背後にサタンが中傷を行うので、その試練に人がどう答えるのかを神とサタンが見定める事がヨブ記の主旨かのように読める。しかし、サタンと神の論争は身体への責苦にあっても神を呪わなかったところで一度決着を見ており、三人の友が強要したのは神への忠実を試みることではなく、自分の隠れた咎を認め、その道徳性に瑕疵があることを認めさせることであった。これは忠実の試みではなくヨブの道徳性を審査している。しかも、神は終わり近くでヨブに悔悛を促す発言をしており、沈黙を破る機会を持ちながら、サタンの試みが有ったことを説明せず、ヨブの忠実ではなく悔い改めに祝福を与えている。ヨブ記の目的は明らかに勧善懲悪の外にある。



×三人の友人に屈して、心当たりのない罪をヨブが認めれば、それは豊かな生活を望むことになり、サタンが勝利する

それを誰もほのめかしていない。ここに続く友らとの議論はヨブの以前の行状の正当性に焦点が当てられており、回復の方法は幾らも検討されていない。したがって、ヨブはそれに関わる誘惑の下にないと言えるだろう。加えて、双方ともに因果律の基礎の上に論議を進めているのであり、もし、罪を捏造するなら、より大きな災いを招くことが意識されたであろう。



×混沌に帰すことは神に対する冒涜とも考えられるが

神は人が塵であることを理解し、死が逃れ場となり得ることを承知する(エノク/モーセ/サウル/エリヤ)また、創造や誕生を呪うことは現下の事情のゆえであって、それは苦衷の大きさの表現に留まる。(3:20)そうでなければ、神はこの点でヨブを責めたであろう。



×神に対する人間の忠誠がサタンに反証を与える

本書では被造物の忠誠は舞台装置であり主論を成していない。また本文35:7のエリフの言葉と矛盾する。神性に関わる立証はキリストの死により一度限り提出されたのであり、人が立証するという概念は律法主義や人間主義的「義」に退行することで、このヨブ記の結論にも逆らうことになろう。ヨブの忠実の深さは、神とサタンの論争の的となり得るほどに「地上に彼のような者はいない」と言われるほどにヨブの義の傑出性を強調する前提として語られ、これを焦点としてその「人の義」の無効をこの書の結論は教えるものである。まして、皆がヨブのように振舞えるとしたら、誰がキリストの贖いを切実に感謝でき「医者は病人のため」という発言に同意できるだろうか。


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ヨブ記の[神義論]との関連
ヨブ記を神義論の「災害を起こす神」と関連付けるのは間違っている。なぜなら、ヨブの苦痛には論争があり神の承知するところであったが、一般の災害はそうではない。人には予想も着かない事柄は常に襲い掛かることをソロモンも指摘しているのであって、この世界は神の摂理が動かしているとは言えず、基本的に人間は自然法則と意志と偶然の複雑に錯綜する世界に生きている。限定的に、ヨブ記の中では神と悪魔の人への意志の行使が描かれている。但し、ヨブ記は災害をどう捉えるべきかを述べてはいない。もしそうなら災害や偶然の不幸はすべて神の与えた試練となってしまう。だが、「この世」の苦しみは、人が神から離れた結果であって、創造の業を反映したものでもなく、神の意図ではない。アダムの罪のもたらした結果であって、神は関与していない。

『太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも聡明だからといって富を得るのでも知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。』(伝9:11-12)
このように、この世は物理法則によって「自動化」されており、サタンの訴えは(ヨブへの保護についてはこの論議を導くための)倫理に関わる特例であって、神は奇跡以外に万象に逐一関与しない。(後代にメシアとその聖徒らには義の完成のための試みが行われている)
誰も偶然の不幸を避けられないのは神の与えた試練ではなく、神から離反した「この世」の有様そのものである。ヨブ記はこの世の苦難の存在理由を説明するものとはなっていない。

ヨブ記は一律に人の遭遇する不幸を説明するものとはなっていない。ゆえに神とサタンの論争も、ヨブという人物の徳性を際立たせ象徴化するための演出であったと捉えることができる。

世の苦難の一切を神への忠実を試す試練と捉えると、人は「業」によって神への忠実を実証できることになり、同時に信仰によって義を得る必要性が失われる。

転じて、世の苦難をサタンが逐一もたらしているものと捉えることも、迷信的アニミズムへと退行させるものとなる。人は常に試されて、神とサタンの裁きのゲージの上を行き来しているのではない。もし、そのように捉えるなら、この世は義の試験場と化してしまい、人は間断のないストレスに投げ込まれ、優越感と劣等感の奴隷となる。それこそが、ヨブの陥った「試練」をもたらした。彼は、苦境に在ってさえその優越感を維持し尽したが、その結果は神への断罪となってしまった。

こうした人間の義への固執は、キリスト教の特に新教系の宗派の教えの中に散見される。また、キリストの時代のパリサイ派にも端的に表れている。ヨブは悔い改め、祝されたが、「後代のヨブら」はどうするだろうか?

また、人の義の神の前の無効については、契約に無い者らが自分たちの神への信仰の故の迫害を受けるときに神からの保護の確約もないとも言い得る。自分たちがどれほど神への忠実と思われることに尽くしたとしても、それについて神は与り知らぬ立場をとったとしても、それを神の不当とすることはできない。『罪』のゆえにこの世は尽く神に服してはおらず、誰も自ら贖いの仲介者とは成り得ない。聖霊の契約に無い限り、信仰者であってもなくても、迫害する側もされる側も誰もが同じく『罪人』であり、神の格別の配慮の外にある。しかも、契約に在った聖なる者らは専ら迫害によって精錬を受けたのであるから尚更のことであろう。

ヨブ記に見る「忠実」と「忠節」の差
なお、ヨブが神に対して尽くしたのは「忠節」ではなく「忠実」であったように思われる。

その違いは、忠実が他者に依拠し、規約を守ることに応報を必須とするのに対して、忠節は、良かれと思われることを行うので、応分の酬いを直接に自らには求めない。むしろ相手がよければそれで良いのである。しかも自発的なものであり、忠節では忠実に何かの条件に従ったのだから応分の酬いを望むというものとはならない。
一方、忠実では他力本願のようでいて、実は従順を示した相手に応分の報酬を請求するという雇用関係を強要しているのである。両者は奴隷と自由人ほどに異なる。
この点で、ヨブが目指したのは、自発的忠節ではなく神に依拠する忠実であったが、それはヨブ自身の案出した道徳律の遵守であり、神の命じたところではない。神はそれを悪魔に誇りはしたが、それが彼に義をもたらさないことを承知の上であった。しかし、ヨブの忠実な行状は「義」という応分の報酬を得ようとする律法契約の盲点ともなり兼ねない問題であった。それが彼の家族と財産の損失、また身体上の苦痛を通して「義」の不獲得が現実化されてゆく。

やはり、行状の道徳性は律法に同じく人に義をもたらすのではなく、『罪を明らかにする』というところが正しい役割であった以上、神の規定への従順の方ばかりを追求してゆくと、必ず人間の限界の壁に突き当たり、二つの問題を生み出すことになる。
一つが、非現実的で、道徳的に劣った他者を常に比較の対象として必要とする相対的優越感であり、これは後代のパリサイ派が堕ちた陥穽であった。
もう一つが、自分の思った通りにならない神への不満である。そこで間違っているのは、人間の義が神に通用するという妄想であり、その動機となっている利己主義である。
これは、西暦七十年のユダヤ律法体制の崩壊に於いて、これ以上ない仕方で結果を刈り取った。メシア信仰による義を見出さず、モーセの律法に固執したユダヤイスラエルは、21世紀のいまだに自分たちは正しかったと認識し続けている。
それでもなお、自ら教条主義に舞い戻り、この愚を繰り返し犯しているキリスト教宗派は多い。
確かに『新しい契約』は、一定の道徳律を課すかのように見える。それは契約に与る者、聖霊の注ぎを受けた者には律法契約のように『キリストの掟』が求められるが、契約の外に在る大半の人々が、新約聖書の基準を自分に課せられていると勘違いするなら、ヨブの誤謬を免れないであろう。それでは「キリスト教」までが偏狭な教えとなってしまう。本来、契約外の人々の論議であるヨブ記は、これに気付かせるものと言える。

人間を自らの象りに創った神は、人間を下僕にすることを望まない。だが、ほとんどの宗教では神を崇め奉り、喜ばせることが神の意志であり、宗教人は神への恭順を示す業や犠牲により対価の利得を得られると信じさせるが、キリスト後にあっては、これこそがサタン崇拝の特徴とさえ言える。キリストへの信仰による義を、狡猾な仕方で無効化するからである。
キリスト教界が、この観点からヨブ記を認識しない背景には、「社会的常識」を打破し難いところにあるようだ。それは律法的価値観に縛られることだが、信者確保のために、一般常識がそのようであるところで「敬虔な義人像」がキリスト教の目指すものであるかのような捉え方を教えざるを得ないからであろう。そうして人は善良な者と邪悪な者とに分けられ裁かれると思い込むが、神の裁きの要諦はそのようなところにはない。この点でノアの洪水とソドムの滅びなどは神意を皮相的に捉えさせ、本書の論点を曇らせるものとなっている。だが、その思い違いはどうやら聖書に仕組まれた秘儀の為せる業であるようだ。その人々は終末の終局までヨブ記に込められたこれほどまでに価値ある倫理観を理解しないのかも知れない。



神は人の行動に一喜一憂せず、その内面の倫理的価値観をみる
「宇宙論争」という誤解 








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