Notae ad Quartodecimani

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Memo 安息日

新約でキリスト教徒に意味を教えるのはヘブル書第三章
そこでは、入るべき「休み」がそこに残されており、キリストを信じる者は入るべきであり、そこから離れ落ちるべきでない、という。

かつての「休み」はエジプトの苦役を脱し、「約束の地」に入植することであった。
それは四十年の彷徨とヨシュアの軍事行動を経る必要があった。

この休みに入れなかった者らは、神に信仰を置かず、その意志に逆らっていた。
同様に、「神の声」を聞くときに心を頑なにすることは「休み」を得ないことになるという。

ヘブル書が書かれた時には、キリストの声を聞いたにも関わらず、心を頑なにしたユダヤ人は「休み」に入ることはなかった。
その「休み」とは律法の業という労働から解かれ、信仰によってメシアを受け入れて(罪の)隷属から解かれることであり、聖徒の場合は神の義に入りまったく律法の業を必要としない状態に入ることであった。

この「罪の隷属」は律法の業だけを意味しない。
初めは、アダムの堕罪によるエデン外での「生きるための労働」に端を発する『顔に汗してパンを食し、遂には地面に帰る』の現状の人間生活がある。それは自分の命を保つべき労働であるが、最後には否応無く死を迎えるという空しい労苦である。これは神の創造当初の人間に対する目的ではなく、堕罪の結果として神から離され、人間の備えでもあった地の様相が創造の企図を離れ、生じたことであろう。

爾来、人間はこの労働を迫られ、互いの貪欲は生活の糧を得ることもときに難しくしている。これがアダムの選んだ道の実相であり、神はこれを人間本来のものとは見なしていない。神はといえば、人の創造よりのちはずっと安息に入っていた。

そこで(聖徒に関わらず)すべての人がこの空しい労働から解かれ創造本来の人の状態である「休み」に入らせることは、神の意志であり、「贖罪」という神との和解を以ってそれは最終的に成し遂げられる。
これがまったく成就を終えるのは千年期の後のことではあるが、「聖徒」たちは早くも地上でその状態に入ることができたので、ヘブル書は「休み」に入るよう述べている。

しかし、そうでない人々も同様に象徴的に現在でも神の休みに入ることができる。
それは、第七日の不労働が示した「アダムの労働」をどう見做すかによって、人間本来の姿を定期的に思い起こすことができたように、信仰により自分の生計のための労働を離れた見方ができるようにすることである。
そのような人にとって、労働はこの世における一時的なものであり、人生の主要な目的とはならない。
また、イエスのときの宗教家らのしたように、メシアを受け入れず、自分たちの「正義」を律法の業で成立させようと労苦するようなことからも離れることになる。まして、安息日に多くの規則を加えて人を縛り上げ、「安息」それ自体が労働でもあるかのようにしてしまうのは論外である。
即ち、イエスが敢えて安息日に癒しを行ったのは、この点が関わっていたであろう。ユダヤの宗教領袖たちは、事の外面である不労働を重視したが、キリストは不労働という労働まがいの命令にくさびを打ち込み、こうして律法の業の優位を「安息日」を通して覆していたと見ることができる。また「安息」には闘病からの解放も含意されたのであろう。イエスの癒しの事例は安息日に多い。
それはキリストの父が創造の業を終えて以来保っている「安息」にあらゆる人々を招くことであるが、周囲のユダヤ人はこれを理解はしなかった。ただイエスが強固に安息日に癒しを行う姿を見て驚き、また反発するのみであった。後にパウロが現れ、この真意の一端を説いている。

今日でもキリストを受け入れる者は、これらの自己の正義を立てる行いを通して立証する業(労働)、即ち「自分の業」を休むことができる。
そこには、この世の貪欲によって動揺する市場経済、人間の貪欲を調整する政治、教義や規則を与えて人を空しい隷属に置く宗教から解かれて、信仰により「神の安息」の自由な広野に自分の意識を置くことができる。

これは、「そうしてもよい」ということではない。
ヘブル書も言うように、「この方の声を聞いたなら・・」とあるように、今でも聖書を通してその声に触れることができるだけでなく、今後は聖霊を通して聖徒らから人類は「この方の声を聞く」ことになるからである。

その時はこの「安息」を守るか否かは魂の存続に関わることになる。Isa56
従って、安息日の規定は律法に存在するものであったが、『キリストは律法の終わり』である以上、キリスト教では単なる不労働を守るか否かは意味をなさない。しかし、より意義深い「安息」が指摘されている。
それはもちろん「週に一日くらいは教会に行け」という浅薄なものであるわけもない。日々の行動指針、また人の人格を作り得るものである。


以上のまとめとして⇒「安息日の意味するところ」

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MM
スペンサー・W・キンボール大管長はこのように勧告しました。「安息日は聖なるふさわしい事柄を行う聖日である、労働とレクリエーションを慎むことは大切なことではあるが、それだけでは十分とは言えない。安息日は建設的な考え方と行動を要求される日であるしたがって、もし何もせずにぶらぶらしているとしたら、それは安息目を破っていることになるのである。安息日を守るためには、ひざまずいて祈り、レッスンの準備をし、福音を学び、瞑想めいそうし、病人や苦しんでいる人を訪問し、眠り、健全な書物を読み、出席することが期待されているその日のすべての集会に出席するはずである。このような正しい事柄をしないことは、不作為の罪である。」
安息日の遵守は、義人を世俗的で邪悪な者からえり分けるための大いなる試しの一つである」とブルース・R・マノコンキー長老は述へました。

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Eホワイト
キリストは現在調査審判#を行なっておられる。すなわち信仰を告白した者たちの行ないが、復活に値するかどうか、その者たちが律法に忠実であったかどうか、すなわち土曜日の安息日を守ったかどうかに基づいて調査している。
#(予審)

少しSDAの安息日について見るとEzk20を根拠に据えている。
12『わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する【主】であることを彼らが知るようにした。』
20『また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、【主】であることを知れ』と。』【新改訳】

安息日は、神の民とそうでない者とを隔てる壁であると言っている。

「神は安息日をも創造された」とも

キリストが神にされているために、エゼキエルの句を根拠に、安息日が『新しい契約』においても神と民との『印』とされてしまった。
三位一体の弊害がここにもある。しかもかなり複雑に絡まってしまい、ここから元に戻すことはかなり難しい。

しかし、自分が神の民とされたいと言う願望に於いては、ほかの多くの新教的宗派と変わりなく、ただ、その方法が異なるだけになっている。

ホワイトがメソジスト出身というのは、なるほどうなづけるところがある。(1827年11月6日生まれ。メソジスト教会員であった。幼いころに子供の投げた石が当たり、17歳で召命、1915年7月16日逝去 享年88)

それから、「礼拝」という概念はカトリック由来であり、古くはユダヤの崇拝方式を引きずっている。

安息日を遵守すること、そのものが律法契約に含まれることであるうえ、原始キリスト教安息日の集会を続けていた習慣を日曜に切り替えたところで、律法の条項が十戒だけ延長されたと取り違える隙があったということらしい。




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