Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヘブル書簡 MEMO

総じて時代が下るに従い、西方ではっきりとパウロの作と認める反面、中間的に曖昧にする人々、それから東方では作者不明とされていた。

アレクサンドレイアのクレーメース
ヘブライ書は、パウロのものであり、ヘブライ人のためにヘブライ語で書かれたが、ルカがこれを注意深く翻訳してギリシア人の用に供した」(教会史Ⅵ14:2)

オリゲネス
「その思想はパウロのものであるが、書いたのは別の者である」

264年アンティオケイア会議
パウロの作として扱う

パウロ
ヒエロニュモス、M・ウィクトリヌス、ルーキフェル、プリスキリアヌス、ファウスティヌス、フィラステル、パウリヌス、パキアヌス、ペラギウス、カッシアヌス、ユリアヌスなど第四〜五世紀ではパウロが著者であることが繰り返し示される。


中間派
西方のアンブロジウス、ヒラリウス、など、またヌミディアのミレウムのオプタートゥス、イタリアのヴェローナのゼノーなどはヘブライ書について沈黙するか曖昧である。


著者不明
回心者イツハクは聖典としながらも著者不明という。
東方の影響あるアクレーイアのルフェーヌスも同様
第六世紀〜七世紀のイシドールス(セヴィリヤ)は多くの人々がヘブライ書の著者がパウロであることを疑っていると書いた。(語源百科)


反論の根拠
ギリシア語が他のパウロ書簡と非常に異なる。
本論がいきなりに始まりパウロの名が無い。
書簡ではなく説教文だったのでは(テモテの件を付け加えて書簡ということにしたのでは)


差出人一覧------
01.Rom:パウロから
02.1Cor:パウロとソステネから
03.2Cor:パウロとテモテから
04.Gal:パウロと共にいる兄弟たちから
05.Eph:パウロから
06.Phpパウロとテモテから
07.Col:パウロと兄弟テモテから
08.1Th:パウロとシルワノとテモテから
09.2Th:パウロとシルワノとテモテから
10.1Tim:使徒パウロから
11.2Tim:使徒パウロから
12.Tit:使徒パウロから
13.Phm:パウロから




所見:
名が無いこと
使徒言行録も明らかにするように、使徒パウロに対するヘブライ人特にユダヤ地方の人々のアレルギーは相当なものであった。
もし、パウロがこうした人々に何か知らせたいと思う場合、初めからその名パウロを避ける理由は充分にあったろう。

加えて、ディアスポラの民も対象に含むことで、はっきりとユダヤヘブライ人宛てとはしない方が得策と判断したかも知れない。

内容
これらの内容はTANAKHに相当程度通じていなければ分からないものながら、シュナゴーグでは毎週トーラーが朗読されていたので、トーラーの範囲と詩篇を強調する内容をそのまま理解できたのはユダヤ教徒の背景ある人のみである。
それでも著者は「あなたがたの理解力」の不足を語っている。
「時間の点で言えばあなたがたは教える者となっているべきであるのに・・基礎から教えてもらう必要がある」というのは、まさにナザレ派の持つ『はじめの者が後になる』というユダヤキリスト教の事情を窺わせる。


トーラーに込められた意義を縦横に用い、しかもローマ書にも比肩すべき格調と霊感をも備えた著者としてパウロ以外に当時誰が居ただろうか?
文章の前半で教理を述べ、後半で訓戒を教えるスタイルはパウロ書簡に見られる特徴であり、その定型はヘブル書でもはっきりしている。

宛先については、メルキゼデクを知っており、メシアがユダ族から現れたことに大祭司としての資格に疑問と呈するであろう読者を想定している。
律法の裁きの手順や子供への懲らしめの習慣を当然のものとして語っている。
また、神殿祭儀のあらましを知っており、ヨムキプルの贖罪の儀式の意味も知って居る。
旧約での人物が創世記から士師記にかけて次々に挙げられているだけでなく、詩篇エレミヤ書、ハガイ書、
彼らは現状で迫害に面しており、命に関わるようなものは経験していないことが指摘されている。これは急な状況の変化が起っていることを指しており、その原因には62年のヤコブの殉死があると思われる。
シュナゴーグを追われたナザレ派は、熱心党らの愛国主義からは選別されているに違いなく、ローマに処刑されたメシアなどを熱狂するユダヤ主義者らからは忌避されるに違いなく、一時はヤコブをはじめとするナザレ派の人々が神殿で見せる敬虔さに一定の敬意を勝ち得てはいたものの、反ローマ主義の猛烈な勃興の中で、パレスチナのナザレ派をはじめとし、ヘブライ人のイエスの弟子らにはユダヤ体制との決別が促される時代に入っていたといえる。
これらの点からも、本書簡はヘブライ人への手紙と呼ばれるに十分な理由を持っている。

文末でテモテの釈放を期待しており、著者はイタリアの兄弟たちと共に居る。しかもテモテを待ってすぐにでもあなたがたに会いに行けるとしている。
この相手先は、テモテを知っていることを伺わせるが、テモテがエルサレムに行ったことがあるだろうか?
あるいは、テモテの名を聞き及んでいただけかも知れない。
テモテは母方がユダヤであり、割礼を受けていたので、ユダヤ人からの抵抗はトロフィモスやテトスのようではなかったろう。
ただし、「行くつもり」であったとしても、行けなかったということはあり得ることで、それがパレスチナの場合には、パウロに臨む危険は以前のエルサレム訪問の比ではなく、ましてヤコブも居ないとなれば、まったく危険であったに違いない。

推論できること
その内容からして著者は使徒パウロであり、原本はヘブライ語で記された。
このヘブライ語の手紙を必要とした背景は、おそらくイエスの弟ヤコヴの死であろう。そうでもなければ「義人」がしっかりと束ねるテリトリーにわざわざ「諸国民の使徒」が顔を出すだろうか?
ヤコヴの去ったユダとエルサレムのエクレシアにはこれによって大きな喪失を味わい安定を失いかけていた。
この状況を救えるほどにしっかりした人物としては、当時パウロとペテロがいたであろう。

パウロは、ユダヤのイエス派がユダヤ教に飲み込まれないようにとユダヤ人の不信仰な過去を暴く、そして神殿祭祀にまさるメルキゼデクの優越性をも説く。キリストの役割がユダヤ教にあってどれほど重要であったかに焦点をあて、教理面で強力なサポートを与えようとしている。書中『集まることを止めぬように』とあるが、これはシュナゴーグからの追放を指しいる蓋然性がある。即ち、ユダヤ教徒としての集会の習慣から追い出されても、異邦人らが集まっているように、その習慣を保つよう勧告しているということである。

新総督アルビノスの到着と、アンナスⅡの罷免により、イエス派の状況は幾らか持ち直し、パウロエルサレムに入っても、大きな混乱には至らなかったのかも知れない。それでもその危険が無かったわけもなく、資料は釈放後パウロユダヤに入ったことを述べていないようだ。

あるいは、その意志を持ちながらも、パウロはペテロと共に二回目の逮捕を受けたのかも知れない。

パウロが二度目の捕縛を受けてからどれほどの期間生きたか分からないが、ヘレニストらはこの見事な内容の手紙を読むことを欲し、パウロに付き添っていたルカにギリシア語への翻訳を依頼する。(とすればルカのヘレニスト説の状況証拠No.4)

こうして、高度なヘブライ語の文章をルカはおそらく苦労して翻訳したが、それまでのパウロ書簡にないギリシア語翻訳となり、それが今日に伝承された。用いられたギリシア語の特異性はこれで充分に説明はつくだろう。

あるいは、ギリシア語に訳されたは第二世紀中葉で、ルカではない、ヘレニストによって訳されたのであれば、新約中の誰とも異なる文体になる理由がある。

エスの弟ヤコヴの死がAD62年頃なら、手紙はパウロの二度目の捕縛の以前となり、年代は絞られる。パウロは60年から61年にローマに送られ軟禁生活を二年過ごして63年頃に釈放されたと見るなら、ヘブライ書がヘブライ語で著されたのが62〜63年初期で、その後パウロはテモテとテトスを伴って地中海を巡回し、64年後のどこかでローマに戻り、テモテ第二を書いているのだろう。

63年なら、第一次ユダヤ戦争までは四年未満の年月を残すのみで、ユダヤに居たイエス派信徒には大きな危機が迫っていたなかでの重要な書簡となった。

東方がこの書をアンティゴメナに含めた理由は、その書がイタリアでおそらくはローマで書かれていることにあるように思える。
そのギリシア語写本は西方で広がり、ユダヤではヘブライ語そのものが与えられたが、おそらくユダヤ戦争の最中に失われた。
その点、東方はそのヘブライ語原典にも、ローマのギリシア語翻訳からも最も隔たってしまっていた。

(東方、特にシリアについてはヨハネ黙示録においても同じような状況に置かれたように思える)


 以前のメモ


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