Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

その人の義

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イスラム武装勢力が戦果を挙げたときに「アッラーは偉大なり」と叫んでいるのは、もう何度も見聞きし、食傷気味でさえある。
戦車から火柱が上がり、煙を吹いたヘリコプターがきりもみしながら落ちてゆくシーンに神は偉大だというのである。
では、そこで死んでゆく人々と、攻撃した人々の違いは何かと問えば、片方が間違っていて、片方が正しいというのであろう。
イスラム教の場合にはこれほど端的に違いが生死にまで発展するので、例えとすれば、その教理に触れていない者からすれば、とても納得できるものにはならないのだが。
キリスト教とて、内面はそう変わらない。16世紀の三十年戦争を持ち出すまでもなく、つい20世紀まで北アイルランドでの闘争は似たようなものである。
西欧の社会が進歩したせいで、宗教で争うことの愚を政治の方から正されたに過ぎず、宗教の方では依然として宗派の義で裁くという傾向は残されているので、社会が進歩していなければ、どうであったのかは疑問である。
おそらくは、その機会が与えられるなら、どんな闘争をし始めるのかは分からないのが宗教というものの怖さであり、その実感は今後もなくなることも期待できそうにない。それをセーブしてくれる政治とは真に有り難い。
宗教にかける情熱が、どうしてこうも同じ人間を攻撃してしまうのか、また争いの原因になるのかといえば、誰も正解をもたないからなのであろう。
もし、正しい宗教があるとすれば、争うまでもない。しかし、人はある宗派の正しさが受け入れられない。そうでなければ、一神教はひとつである。
そこで、自分の正義を受け容れない他者は不正義となってしまい、そこで攻撃が正当化される。その攻撃には直接的な暴力ばかりでなく、様々な方法がある。
しかし、そのどれも攻撃であることには変わらず、抱く精神は「アッラーは偉大なり!」と同様の意味を叫んでいるのである。
だが、神がそれを是認するのだろうか?
自分が正義だと思うなら、そのように神を自分の側に縛って強要することになろう。神の強奪である。
だが、実際には人と人で何が異なるのであろうか。その「正義」とは何に由来するのか。その正しい人はそれほど異なるのか?
存外に、その違いは小さなことで、思い込みのようなものであったとしたら、その害は却って計り知れないものとなろう。

だが、自分自身に不真実であってまで、自分の義を立てるとすれば、それはすでにその人のうちに崩壊している。
得てして、このような人々が教祖然としがちなのはなぜだろう。
つまり、人集めなどの理由から、自分の中で論理を捻じ曲げて嘘をつき、それを自らに宥めつつ他者に教えを施す者である。

真実を追求することと、自分を騙すことが両立するだろうか?
自分を欺いたときに、他の人々を欺いている。その動機は不純であり、どんなに知識を積み重ねても真実とは無縁なのが分からないのだろうか?
分からないようである。
そのような人が現実に存在する、というより多い。
せめて、真実と自分を分離はできないものか。そうすれば、真実を道連れに心中することも、人を破滅に導くこともなかろうに!

何やら見えてくるものがある。それは、宗教に熱心な人々に却って自己欺瞞者が多いという恐るべき実態なのだ。その先にあるものは何か?動き出した船は容易には止まらない。

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人が信じるから神が成り立つのではなく
人が信じなくても神もその真実も一向に変わらない ヨブ

人間の言葉は不確定で不真実なことも多い
そこで神にかけて誓うべきではない「YHWHは生きている」
エスはそれに加え神殿にも祭壇にもエルサレムにかけてもならないという
エスの言葉は、人間の真実の不確かさを際立たせ、神の真実性を遥かに超えるものとしている。
(旧約の「まことの神」とは「本当の神」の意ではなく、「真実さを持つ神」の意<市川>)
初期教父たちはヤコブの手紙に倣ってマタイの言葉を解釈していたという。(ユスティノス「あなたがたの『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』としなさい」柴田有訳キリスト教教父著作集1⇒ユスティノスはヤコブから引用した箇所がないとのこと)
市川氏の論は傾聴に値する。そこに聖徒理解は無いので、そこは補う必要があるが、人間の実相を的確に聖書と対応させた理解で殊に優れている。
彼は「人の側の善とか誠実は救いには何の関わりもない、すなわち救いの条件としてはまったく無意味であると言わなければなりません。」と言われる。
また「神との関わりにおいて、人間の側の信実だけが問題にされている限り、そのような「信仰」はいずれ行き詰まり破綻します。人間は本性的に不信実なものですから、信実あるいは忠実を維持するために何らかの強制や不自然な情熱が必要となるからです。」とも<『マタイ福音書「山上の説教」講解』 〜山上の説教 市川喜一>

確かに、人間の側の善や信が神の問題となるなら、神を人間の不道徳な世界に引き下ろすことになって、神は我々の日常卑近な諸事に関わってしまう。


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1週に三日の晩に集会をもち、そこで聖書その周辺の書物を学習するばかりか伝道の練習まで行うことが意味するのは、この世での日常生活の相当部分を犠牲にすることであり、主婦であれば夫をはじめ家庭をまずは犠牲にせざるを得ないであろうし、まともな仕事に就いている者なら、仕事に徹底することはできない。
そのように生活を犠牲にする理由というのは「今は普通の時代ではない」からであるという。
どのように「普通の時代ではない」かと言うと「この世は終わりの日に入っていて楽園になるから」という。そこでは永遠の命に入るので、どんな問題も解決されるという。
したがって、普通の生活を送っている場合ではなく、楽園に入れるのであるから、多少の犠牲を払い無理をするのも仕方がないという発想らしい。その対価の犠牲というのが、週に三回の集会や毎月できるだけ多くの時間を伝道活動に費やすことであるという。確かに損得勘定からすれば、週に三回の集会と毎月一定時間の伝道で永遠の命が得られるなら儲けものである。
神が人間を是認して永遠の命を与える条件というものがあり、それは広い意味での「信仰」というよりは、その条件はずっと狭められている。つまり、ひとつの宗教組織の伝道活動による救いであり、広い意味での聖書やキリスト教に対するものというよりは、その組織の信仰箇条に従って崇拝している者にのみ救いがある、または、救いを受ける大部分がそのような者であると言う。
その理由は、大半の教会の教えは間違っており、異教のものが含まれたサタンの教えであるから、自分たちはそれらの教えから離れているので神の是認があるという。
これを外部から見ると、随分と自己義認の強い印象は否めない。加えて、その目標が組織の拡大に邁進するように出来ていて、組織の拡大がそのままこの世の救いと言っているに等しい。従って、神の是認はこの宗教組織だけに占有されていると唱えていることになる。その自信はどこからくるのだろうか?どうやら、1914年という年代をハルマゲドンの到来と予告していたところに第一次世界大戦が起こったことがマジックのように見えたようだ。つまり、それを言い当てたのでその指導者らに神の後ろ盾があると信じたらしい。
その年代からひと世代でこの世が終わり、楽園が到来するという相当に具体的な願望を信仰して信者となった人々が多いようだ。確かに、この世の諸苦が終わることを願うのは間違ってはいない。だが、ここでは神よりもその具体的利益に注目が強い。それは結果論としての利益の獲得であり、その過程というものは等閑に付される。つまり、著しい益が目前に迫っているのであるから、とりあえず救いの条件をクリアすることに注力するということにおいて、その「過程」はどうしてもなおざりにされることになる。
そこで拍車をかけるのが、より多くの時間を伝道に費やすことが望ましいという自力本願的な発想となる。そのため聖書も十分には読む時間を持つことができない。それでも信者本人に自分は聖書をよく研究していると錯覚させるのは集会の予習となっている。しかし、これは同じことが繰り返され、それも偏った部分の反復であり、常に教える側からの範囲や内容が指定されたものであり、その準備を行って伝道を行えば、ほとんど自己学習の余裕なく、そのうえ自由な研究を行っても、それを発表する場は無く、指導者の見解を越えることは誰にも許されてはいない。つまり、指導者が間違えれば全体が間違える。これは閉鎖的独裁体制の国家の誤謬と同じ結果、民の惰弱さをもたらすものであり、人間理性への侮蔑という以外無い。
この信条に感じられる誤謬は、「結果良ければすべて良し」と言っているに等しい「緊急感」にある。しかも、この団体はまさに「緊急感」を懐くように信者に勧めているのであるから、まともにキリスト教を論じる隙をさえ与えてはいないのである。








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