Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

コンスタンティヌス(大帝となるまで)

ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(272-337)

モエシアのナイッススで生
父コンスタンティウス・クロルスはアレマンニ族の血を引く
テトラルキアの西の副帝となり、やがて正帝
他の息子はハンニバリアヌス(早世)、ダルマティウス(二人の男児あり)、後妻の子ユリウス・コンスタンティウス(副帝ガッルスとユリアヌス帝の父)
母ヘレナは東方の出身(ビチュニアの蓋然性もあり)でナイッススの旅籠で働いていたところを(16歳?)コンスタンティウスの捕虜となり妾となってコンスタンティヌスを産む。
313年頃にキリスト教に帰依。(そのきっかけはシルウェストルの起こした奇跡にあるともされるが、これは相当疑わしい)
ディオクレティアヌスが副帝の必要を感じ、東西に更に二人の皇帝を任命したときに西の副帝に選んだのがコンスタンティアヌスだったが、そのときディオクレティアヌスはコンスタンティアヌスの妻となっていたヘレナを離縁させ、自分の妻の連れ子であったテオドラと結婚させた。以後三十年に亘りこのヘレナの名は歴史資料から消える。

若きコンスタンティヌスは半分人質としてディオクレティアヌスの宮廷で育つが二十年間父に会うことはなかった。その宮廷の本拠(気に入った場所)はニコメディアではあったが、実質移動宮廷(聖なる随行団)であり、バルカン半島からビチュニアを転々とし、必要に応じてダマスコやアレクサンドレイアへも移動する。その滞在地は荒廃するほどに物資の調達が厳しかった。
305May1.ディオクレティアヌスはニコメディアで退位し、西の正帝であったマクシミアヌスにも退位させた。新たな正帝は東がガレリウス、西がコンスタンティウスとなった。
そこで、コンスタンティウスは息子コンスタンティヌスを人質から解いて自分の許に送るよう依頼する。しかし、ガレリウスはコンスタンティヌス(を恐れたか)手放そうとしなかった。しかし、根負けしてある朝一度許すと、コンスタンティヌスはすぐに、しかも内密に出発した。翌朝ガレリウスが行かせたことを後悔し始め、後を追わせたが、コンスタンティヌス各宿場の馬の腱を切って進んだので、追っ手が追いつくことはできなかった。
彼はブローニュで父と再会を果たすが、次の年に父はヨークで他界してしまう。(306Jul25)

テトラルキアの崩壊
ブリタニアガリアは直ちにコンスタンティヌス(当時二十代)を正帝と仰いだが、ヒスパニアは拒絶してきた。ガレリウスはコンスタンティヌスを正帝とは認めず副帝と宣言した。その年の十一月にはローマで西の正帝であったマクシミアヌスの息子のマクセンティウスが皇帝に祭り上げられたが、ガレリウスは三人目の副帝の存在を許さず、副帝セウェルスに討伐を命じるが、マクセンティウスの父で優れた武人のマクシミアヌスが正帝復位を宣してセウェルス軍を威嚇した為に討伐軍は瓦解し、セウェルスもこの敗北から死に至った。

マクシミアヌスはコンスタンティヌスに接近し、西の正帝として認めること、及び、自分の娘ファウスタとの結婚を申し出た。
コンスタンティヌスはガレリウスの彼への副帝宣言が不承不承のものであることを知っており、マクシミアヌスに付くことに決める。307
ガレリウスはマクシミアヌス討伐のためにローマに軍を率いて向かうが、やはり自軍の忠誠に疑問を抱き、ローマの近くまで進軍しながら撤退した。

しかし、翌春になるとマクシミアヌスと息子マクセンティウスの仲が悪くなり、軍が息子を支持した結果、父マクシミアヌスは義理の息子となったコンスタンティヌスの許に逃避することになる。
コンスタンティヌスはマクシミアヌスを暖かく迎えたが、権力は渡さなかった。

308ガレリウスはいまや混乱した帝位を何とかしてほしいと引退していたディオクレティアヌスに復位を訴えるが拒まれ、リキニウスを東の正帝に据えるが、これに東の副帝であったマクシミヌスが不服で、結果として帝国にはガレリウス、リキニウス、マクシミヌス、コンスタンティヌスという四人の正帝ができてしまい、それに北アフリカのアレクサンデルとローマのマクセンティウスの二人が皇帝を称えているという事態となった。

その後、マクシミアヌスはコンスタンティヌスがコロヌス遠征で留守の間を突いてコンスタンティヌスの死を偽って告げ、自分が西方を掌握しようとしたが、軍はコンスタンティヌスを強く支持してコロヌス方面に向かった。
結果として、このクーデターは失敗に終わりマクシミアヌスはマルセイユで没する。310

翌311ガレリウスも病没し、直ちにマクシミヌスはアシア州を編入し、リキニウスは対岸のヨーロッパ側を占拠した。


対マクセンティウス
312マクセンティウスは北アフリカを制圧し意気を上げる。この間コンスタンティヌスの方はリキニウスに異母姉妹を娶らせ同盟を威示したので、マクシミヌスはマクセンティウスとの連合を成立させた。

その年、マクセンティウスはコンスタンティヌスの国内の彫像の破壊を命じ、リキニウスとコンスタンティヌスの両軍の間(ヴェローナ)に主力部隊を集結する。
しかし、コンスタンティヌスの行動は思うよりも速く、都市を攻略しても自軍に略奪を許さずに進んだので、諸都市は抵抗を避ける。
トリノに進む間に敵部隊を壊走させたが、トリノ市は城門を閉ざしてマクセンティウス側の敗残兵の受け入れを拒否した。
その後ミラノも降伏し、城門を開けたので、そこで休暇をとったのち、ブレシアでも勝利してヴェローナに向かった。

ヴェローナでは数に勝る敵と戦う激戦となったが、攻撃の手を緩めなかったコンスタンティヌスが辛くもこれを制した。
アクィレイアとモデナも支配下に入り、北イタリアは制圧された。

ローマのマクセンティウスは北方での敗戦続きからアウレリアヌスの城壁を誇るローマでの決戦を覚悟する。しかし、ローマではコンスタンティヌスが一度も負けていないことに民心が傾いていた。

マクセンティウスは占いから10月28日(彼の即位日でもあった)に決戦をすることを思い定めた。しかし、それでは遅すぎる結果となる。
彼はローマの市内に篭城せずに打って出ることにし、フラミニア街道を北上してすぐのところでコンスタンティヌスの尖兵に阻まれたが、その敵兵の盾には、XとPの奇妙な組み合わせ文字が記されていた。
そこにコンスタンティヌスの軍勢がカッシア街道を南下してきたという知らせが入る。

機先を制されたマクセンティウス軍は防戦一方となり、ミルウィルス橋からローマに戻ろうとする兵士らが殺到して恐慌状態となり、その渦中でマクセンティウスも命を落とした。312

ミラノ勅令
313febコンスタンティヌスはリキニウスとミラノで会合し、同時に二年前に取り決められていたコンスタンティアとリキニウスの結婚が執り行われた。両者は共に勅令を発し、その中でキリスト教徒を含めた崇拝の自由と没収された財産の返還が謳われた。
マクシミヌスはリキニウスの背後い攻撃を加え、ビザンティウムが陥落した。リキニウスは取って返しハドリアノープルで倍以上の敵軍と対峙したが、武装を地面に置いて「至高の神」に祈りを捧げるという奇妙なセレモニーを行ってから戦い、敵軍を敗走させる。

マクシミヌスはキリスト教の神を恐れ始め、寛容令を発布して信仰の自由と財産建物の返還を命じた。
彼はカッパドキアに退いていたが、リキニウス軍の進軍が速く、さらに東方に逃避する必要が生じた。彼はキリキアの狭門で敵の進軍を遅らせ、その間に東方での徴兵の時を得ようとしたが、リキニウス軍は時をかけずに隘路を突破してキリキアに進入してきたので、マクシミヌスは自刃して果てた。


対リキニウス
315コンスタンティヌスはリキニウスは再び会合を持ちコンスル職を共同で担当することに合意し、その後しばらく両者の間は平和であった。
321コンスタンティヌスはリキニウスの同意なしにコンスルを任命するようになり、323にはリキニウスはコンスタンティヌスコンスルを認めなかった。同年、コンスタンティヌスはリキニウスの領土(モエシアかたトラキア)に侵入したゴート族に攻撃を加え、リキニウスの抗議を受けたが意に介さなかった。

その理由は、両者の宗教観の相違が明白になったためであるとも言われる。リキニウスの「至高の神」とはユピテル・オプティムス・マクシムスであってキリスト教の神ではなかった。コンスタンティヌスとの不和の原因は彼が発したキリスト教圧迫の勅令にあったということは十分考えられる。


コンスタンティヌスはリキニウスとの決戦に臨み、XPの組文字を記した御旗(ラバルム)を五十人の衛兵に持たせ、苦戦している部隊のところに持って行かせるように指示し、自分には移設できる礼拝テントを用意した。危機陥った時にはそこで祈り、新たな戦略を得るためであったという。日曜日には軍隊にも休みが与えられ、異教徒も強制的に祈りを唱えさせられるようになった。(エウセビオス

リキニウスとの戦いは、帝国を二分する大決戦となったが、優勢なはずのリキニウスの海軍が動かず、コンスタンティヌスの息子クリスプスの率いる艦隊がビザンティウムを攻撃するのを座視したため、勝敗は分かれた。

リキニウスはコンスタンティアを命乞いに向かわせ、彼はもうしばらくの年をトラキアで生きていた。

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312のローマ出征以前にコルドバのホシウスがブレーンになっていたかもしれない。カルタゴのカエリキアヌス宛の手紙で、ホシウスの指示に従って3000フォリスの金の分配をするよう命じている。
彼が改宗したかに見える年は312年ということで定説となっている。
彼のキリスト教への寛容政策は、まず父から受け継いだものであったとされる。しかし、その時点(306以後)での貨幣によると、彼はマルス神を我が父、保護者、勝利者、勝利と平和をもたらす者、としている。クラウディウス・ゴティクスの子孫であると呼ばれるようになってからは、その先祖の神ナタリス・インヴェクチ・ソリスを讃えることが増えた。


所見
ヘレナの帰依が313年頃となると、彼女が息子に影響を及ぼす前に息子自身がキリスト教に傾倒していたことにならないか?その場合、母の影響はミラノ勅令の後で、少なくともリキニウスとの確執に助力したのでは?





(クリスプス)
コンスタンティヌスⅡ世
コンスタンティウス
コンスタンス





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