Notae ad Quartodecimani

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幼児のように マルコ10:15

■Mr10:15
[ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.]


よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。【口語訳】


まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」【新改訳】


はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」【新共同訳】


"Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it."【NKJV】




■Mt18:3
[καὶ εἶπεν· ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἐὰν μὴ στραφῆτε καὶ γένησθε ὡς τὰ παιδία, οὐ μὴ εἰσέλθητε εἰς τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν. ]


「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。【口語訳】


言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。【新改訳】


言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。【新共同訳】


and said, "Assuredly, I say to you, unless you are converted and become as little children, you will by no means enter the kingdom of heaven.【NKJV】



■Mt19:14
[ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν· ἄφετε τὰ παιδία καὶ μὴ κωλύετε αὐτὰ ἐλθεῖν πρός με, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.]


するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。【口語訳】


しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」【新改訳】


しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」【新共同訳】


But Jesus said, "Let the little children come to Me, and do not forbid them; for of such is the kingdom of heaven."【NKJV】




■Lk18:17
[ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.]


よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。【口語訳】


まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」【新改訳】


はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」【新共同訳】


"Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it."【NKJV】



一般的な翻訳ではマルコの文章が一番簡潔で、却って何か省略されているような風情がある。
マタイとルカでは、『神の王国では誰が最も偉大な者なのですか?』の問いに答えて『子供のように自分を低くする者が最も偉大な者である』と答えているが、そもそも『入ることができない』となっており、より厳しい。
マタイでは、使徒同士での上下関係への問いに答えての場面で一人の子供を立たせて教訓を与えたが、マタイ19、マルコとルカでは、子供がイエスの許に集まる場面を描いている。
だが、マルコだけは幾分異なっていて、『子供』を主格ではなく対格として『子供を受け取るように、神の王国を受け取らない者は、けっしてその中に入ることはない』とも、つまり「イエスのように幼児を受け入れるように王国を受け入れるように」と言ったともとれる。
その場合、イエスの許に祝福を求めて集まる子供を受け入れるように、神の王国を受け入れなければ・・という意味になる。それなら「子供のように神の王国を受け入れ信じる」ということにはならない。このマルコだけがこの意味の可能性を与えている。
総合すると、マルコとルカの内容は子供の参集を描いていて近いが、マルコで「童心で王国を信じるように」と必ずしも言われたのかは分からない。ルカはそのように理解できる。マタイ18は場面が異なっており、その教訓は互いに競争心を持つことへの戒めであり、要点は謙虚さであった。マタイ19もマルコとルカとは微妙に異なっている。マタイに二例あるように、子供を引き合いにしたイエスの教訓は複数回あったようにとれる。あるいは、現場に居合わせた弟子らそれぞれの主の言葉への捉え方の異なりが表れたのかも知れない。マタイ二か所、マルコ、ルカ共に幾らかずつ意味に違いがある。マタイとルカで違っているのなら、マルコの文章を必ずしもルカに準じさせる必要があるだろうか。むしろ、調整せずにそのままを伝える方が良いのでは。
いずれにせよ、使徒の間での競争心は根強かったらしく、複数回戒められたようであり、最後は主に足を洗われている。それから彼らを『友』と呼んでいる。
人はなぜ偉くなりたいのか。優越感や自愛の原因に何があるか。


所見;Mt19の「神の王国は幼児のような者らのもの」の意味では、無垢で上下関係に想いが向かない子供の属性を指していると見てよいように読め、同じくMt18もその場面からして上下関係にこだわりを持つ十二使徒らへの譴責が込められていると読める。
対してMrでは、やはり使徒らへの幼児を用いた教訓にとれる。つまり、幼児を受け容れるように善意を懐いて王国を捉える必要を教えており、Lkだけが「幼児のように王国を受け容れる」つまり、受け入れ方が幼児のようであるべきの意味になる。
これら四つの出典について、単純化して解釈を統一しない方が本旨に近付けるように思われる。ただ、いずれもが使徒らの抱く問題への教訓を含んでいたことは間違いない。彼らの間の対抗心は最後の晩餐の席にまで及んでいたことからすれば、師はその問題が根深く、解決が容易でないゆえにも、複数回幼児を例えに用いていたとしても不思議はない。その背景には、『神の王国』が地上のものであると捉えていた使徒らが、ダヴィドの王国を思い描いてその中での高い地位を望んだことがある。その点でゼベダイの子らは自分たちの母サロメがイエスの母の姉妹であるところに依拠して王の左右の地位を望んだところにも見える。これについてイエスは自らの職権の限界を説き、分をわきまえる模範を示して終わった。(だが、兄は十二人で最初の殉教者となり、弟は最後の一人とはなっている)
この件は、単に十二使徒の矯正に終わるものでない印象が残る。人はそのほとんどが、自分の上下に他者を置く癖があり、それは秩序や物事に習得、懸命な判断などに役立つものでもあるところから確かに実用性があるので、そのあたりが現状の人間関係では動機の善悪と共に混沌としている。だが、『神の象り』としての被造物である人間本来の在り方は、元来そこには無いに違いなく、そこで幼児の無垢性を象徴として師が教えられたのであろう。
それは、聖徒ばかりでなく、いや、聖徒であってすらその件を矯正されたのであれば、地の者らにはますます必要な教訓となるに違いない。




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