Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

16世紀、日本人のカトリックへの質問

・神が善であるなら、悪魔を創造するはずが無い。
・サタンが過失のために永遠の罰に曝されているというなら、人間をもそれほど過酷な罰に曝す神は憐れみ深くはない。
・神が人間を創造したなら、人間を放り出し悪魔に誘われたり、苦しめられたりするのをなぜ許したのか。
・神が善なら、どうして人間をこれほど弱く、罪に傾き易く創ったのか。
・地獄を創造した神が善だと言えるか。
・神が善なら、なぜ守るのが難しい掟(十戒)を押し付けたのか。
・自分たちの宗教の開祖は、助けを願う者には誰でも地獄から救うと教えられている。


山口で
・神が憐れみ深いなら、どうしてこれまで日本人を放っておいたのか。
・しかも、その神を信仰しない者は地獄に堕ちるとすれば、その神を知らされなかった自分たちの先祖はどういうことになるのか。


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日本人はどの国民より何事でも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほどに質問するので、わたしたちと論じ合うときも、話は全く切りがありません。

日本人は、十戒に列挙されていることを自然法によって悪い事であると知っていました。未開人の間でもこの知識が見つかるものなら、まして文明国場合は見つかるはずです。

僧たちは「デウス」の御名を「ダイウソ」と呼んでいます。その意味は「大きな嘘」です。


何よりも重要なことは万物には唯一の起源があるということです。しかし、彼らの本ではこのことについてはひとことも触れられていません。宇宙の創造については不思議と沈黙を守っています。


聴衆の多くは、イエス・キリストの生涯について聞いた話に感動するあまり涙を流さずにはいられません。なかでも彼らはキリストの受難と死に感動しています。


十字を切ることを教えてもらうと、彼らは「父と子と聖霊によって・・」の意味を説明するよう強く要求します。

「キュリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」という言葉を倣うと、彼らはその意味を聞きたがります。


日本人を悩ますことのひとつは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないとわたしたちが教えていることです。彼らは亡くなった子どもや両親や親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて・・


私が日本その他の地域で会ったことのあるシナ人は色が白くて、日本人と同様に敏感で、好奇心が旺盛です。知的な能力からいえばシナ人は日本人より優れています。シナにはユダヤ人やマホメット教徒もいることはうすうす気づきましたが、しかし、キリスト教徒がいる形跡はありません。


シナは一度福音の種が蒔かれれば、そのままどこまでも広がってゆくような国です。のみならず、もしシナ人がキリスト教を受け容れれば、日本人はこれまでシナ人から教わったさまざまな教義を捨てるようになるでしょう


私は日本人に口では語り尽くせないほど恩を受けています。日本人を通して主は私の心を照らし、私が数えきれないほど多くの罪を犯していることに気づかせてくださいました。

日本に派遣する者は慎重に選ばなければなりません。老人は体力が足りず、若者は経験が足りないので不適当です。


所見:
カトリック布教を阻んだ最大の要因は、「地獄の教理」にあったと言ってよいほどに宣教者側も自らの教えに苦しむことになった。だが、これは新教派でも同じ結果になったに違いなく、実際に論理的思考に拠らなければ信仰に進まない日本人の特質は明治期以来の新教派の少なくない伝道が実を結ばなかったところにも見えている。

さて、シャビエルは日本に来る前にインドで一万人を超える人々に洗礼を施している。その勢いを日本に期待したとすれば、見込み違いであった。安二郎に会ったときに日本人にインド方面では見掛けない特性を見た。しかし、安二郎は優れた人物であったうえ、キリスト教に心を開く性格を有する者であった。だが、実際に日本人の多くと接すると、論理を問う国民であることに戸惑いを覚えたようである。彼が思ったようには日本では布教は進まず、却ってカトリックキリスト教の教理が日本人という論理を重んじる国民によって試されてしまった。その結果は「地獄の教え」が持つ非論理性が暴かれることになったというのが真相のようである。「話しに切りがない」とは論議が平行線を辿った形跡のようである。日本人が納得したなら論議は終わるに違いない。
彼が日本への宣教者は慎重に選ばれるべきだというのは、日本人が執拗なまでに教理を試すからであり、インドのように大人数が何かをもらえることを引き換えにバプテスマを受けるようなことが無く、戦国期にあり既に火縄銃の輸入や複製をしている日本には武力の脅しも通用しないために、その布教が例を見ない稀なる困難に直面したからであろう。

結果、シャビエルは日本の布教のためには、シナに日本の教師としての役割を果たさせようと思い立った。そしてシナに着くや否や彼は病没してしまい。そこで彼の日本宣教の夢は終わった。
彼が本国(ポルトガル)やイエズス会に書き送った内容には、シナ伝道を催促する意図が見える。例えれば、シナにはユダヤ教徒イスラム教徒が既に居ることを知らせ、放っておけば両者の伝道が先に行われる危険を匂わせる。そこでキリスト教徒の居る形跡は無いとも言い添えている。これは彼の熱意の現れでもあろう。

後に、イエズス会儒教と信仰合同を装い、儒者の服装をして清朝の宮廷にまで入り込んだが、さすがにこれは儒学者の見抜くところとなり、中国での布教にも効果を上げることなく失敗し、却ってドミニコ会の主導する検邪聖省に信仰合同の件を追求されイエズス会はしばらく解散を余儀なくされている。なんというお粗末。シナはキリスト教が「そのままどこまでも広がってゆく」ような国ではなかった。つまりは、日本にも中国にもヨーロッパ・キリスト教は通用せず、極東の持てる精神文化に価しなかったと言うべきであろう。ヨーロッパ人には残念であろうが、極東人は彼らが見做したような未開人とは言えない。むしろヨーロッパはシナの歴史の余りの長さに動揺を覚えることにもなってしまった。それはヨーロッパにキリスト教を再考するように促し、やがて、西欧は伝統的キリスト教を再吟味させられている。

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日本のキリスト教事情

禁令解除1876年から2016年で140年が経過する
現状で新旧の宗派を合わせて1%に満たない。キリスト教の印象は然程悪くもなく、社会的ステータスさえ感じさせる。
それでも増えない理由は何か?

商品は良いのに、営業が悪いのか?
⇨そうではなく、商品が悪いのでは

・教理に論理性や倫理性が無い
  欧米人は意識しないらしいが、幼稚なところが多い(新井白石の指摘)
  信者は復活して楽園行き。信者以外は地獄行き。
神道や一般的仏教と異なり押しつけがましい
  教理への服従を求めるところが高圧的
・白人優位のためか
  欧米の精紳により東洋の魂までも奪われることへの懸念あり
  また欧米人の精紳基盤のキリスト教に価値を感じなかった
  欧米に学びつつも日本人は彼らの問題を見抜いてきた(和魂洋才)
  伝道者は時に商人ともなり、植民地支配の先兵であると為政者に知られた
  カトリックの宣教師が貿易にも関わり、日本人を奴隷販売する業に無関係でなかった
・奇跡を信じる必要があるからか
  問題なし
・信仰共同体が馴染まない
  世間体が悪いばかりか、広く世間と折り合い辛い
  日曜日に拘束される
・仏教教理の方が優れている
  たとえそうであったにせよ、民衆は然程に仏教教理を知ってはいない
  しかし、地獄から出られる機会については勝っていた
  <地獄の教理は元々のキリスト教にも仏教にも無い>


新教徒の状況はカトリックに変わらず
「私はイエス様を信じないAさんやBさんが、このままだと地獄に行ってしまうという聖書の現実に耳をふさぎたいし、できることなら、〈万人救済論〉という甘い幻想物語の中に逃げ込みたい」。-ならば洗礼を受けてはいても好き放題に生きている白人らが救われるというか?その神の裁きは何と不公正なことか!

明治期以後の新教宣教の注力にも関わらず、キリスト教の地方コミュニティさえ出来上がらなかったのは、白人の傲慢さと幼稚さを直感してのことであろう。今日キリスト教の日本信徒には多く欧米文化信奉が見られる。もちろんこれは本来キリスト教とは関係はない。そして単に欧米文化を崇める世俗人らであってもキリスト教に触れたとしても信徒になろうとは思わないのが大半である。それだけの価値を感じないからであろう。

総論:日本人は欧米からギリシア(客観)を受取ってキリスト(主観)を捨てた。それが日本人の審美眼また賢さであった。

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キリスト教界の最大の病弊「天国と地獄」
地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられた、といっても所詮はカトリック教令以降の正統を言っている。
「シェオル」には死後の世界のニュアンスは無かったが、バビロン捕囚後、特にミシュナー以降に死後に行く場所が現れるが、それでもバビロニアン・タルムードでもそこに留まるのは最大一年とされる。

セプチュアギンタ以降、ギリシア語「ハデース」に翻字されてから、ヘレニズムの影響を被る危険に曝され、それはオリゲネス以降に現実のものとなったというのが真相のようである。
万人救済説では地獄の存在そのものが否定される。特に「タルタロス」とはギリシアアッティカの概念ではハデースの倍も深いところにあり、二度と出られぬ牢獄であったが、それは人間の行く場ではなく、ギリシア神話の下級の神々であるティタンが幽閉されている冥府とされる。この語を第二書簡で用いたペテロは『罪を犯した天使を』拘束する場として述べており、これは第一書簡のキリストの冥府降りに示唆を与える。なぜなら、コヘレトの言葉が述べるように、ヘブライ的概念では死者の魂は死んでおり、意識も残らないからである。(伝道9:5-6.10)

他方、人間は死後ハデース(墓)に行くのであって、そこは誰もが復活の機会を得る場所である。(使徒24:15)生前の善悪を問われるのは『新しい契約』に属する『聖なる者ら』のみであり、早い『第一の復活』を受けて天界に召されるか、あるいは一般人と共に『後の復活』を受け、結果的に裁きに現れるかの違いがある。(ヨハネ5:28-29)⇒「復活
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◆About "Gehenna
Rabbi David Kimhi's commentary on Psalm 27:13 (ca. 1200 CE). He maintained that in this loathsome valley fires were kept burning perpetually to consume the filth and cadavers thrown into it.

Hermann Strack and Paul Billerbeck state that there is neither archaeological nor literary evidence in support of this claim, in either the earlier intertestamental or the later rabbinic sources

But there is a trace in the Bible.⇒2Kings23:10 Jer31:40
From this point of view, the logic is correct when you look at the words of Jesus. ⇒Mt10:28 

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白石の批判
・創造のときに天国を創ったというのには矛盾がある。天地もまだ生じていないのに、人の善悪がすでに決まっているというのも理屈に合わない。(天国と地獄)
・天の戒律を破ったために自ら贖い得ず、これを神が憐れんで三千年後に耶蘇となって生まれて贖った、というのは嬰児のたわごとである。そもそも、天戒を与えたのはデウス自身ではないか。自分で課した罪を許すのにどれほどのことがあろう。間違った食事の罪などのためにデウスが代って罪を受ける必要などないではないか。耶蘇を磔にするような国など亡ぼしてしまえばよかったのだ。(三位一体)
・世界の人を善人にできずに洪水で滅ぼすとは何事か?みなにその教えを信じさせられないというならデウス天地創造の主とは到底言えない。(自由意志理解の欠如)
・明の人が、自分の国の滅亡の理由を論じて、キリスト教がその一つだとしている。我国でこの教を巌重に禁じたのは、やり過ぎではない。(政治との癒着)






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