Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キュロス大王の意義 (年表付)

預言書におけるキュロス大王の意義 LF

・ユーフラテスの水を干す
・一夜でバビロンを陥落させる(滅ぼしはしない)
・囚われのイスラエル(シオンの子ら)を解放する
エルサレムでの崇拝を再興する(神殿に先立つ
・後に(ダレイオスの治世)神殿を再建への道筋を付けさせる


◆年表

メディアの王キュアクサレースⅡ世(625-584)はアッシリア攻略に際してニネヴェには向かわず、ディヤーラー河畔にある地方拠点の城市ダルビッシュから攻撃を始めた。紀元前614年


覇権国アッシリア攻略では、メディアは新バビロニアと同盟を結び、キュアクサレースはナボポラッサルの息子に娘を嫁がせたが、その息子がネブカドネッツァルであった。したがって、ネブカドネッツァルの子孫にはメディアの血が流れている。

アラム人ナボポラッサルはアッシリア支配下にあったバビロニア南部(カルデア)の属州総督だった。やがて反乱を起こし、バビロンに入城してアッシリアからの独立とバビロン王を宣言。紀元前625年


メディアの山々を懐かしんだというこの王妃がキュアクサレースの娘アミュティスであったらしい。 そこで「空中庭園」が誕生する。

キュアクサレースの父フラオルテスはアッシリアとの戦いで戦死していた。
その後、メディアは一時的にアッシリアに加勢したスキタイ人支配下に入ったが、スキタイの騎馬兵を学びつつ、軍制を歩兵と弓兵に分け、次第に力を養いつつ、遂にスキタイに立ち向かって、最後は酒宴で有力者を殺害してから撃退。

ついでメディア軍とバビロニア軍は再度合流し、紀元前612年5月30日、ニネヴェ攻撃が開始され、7月28日に陥落した
エジプトのファラオ・ネコの同盟と援助を受けたアッシュール・ウバリト2世がこもるハランを攻略し、アッシリア帝国を完全に滅亡させた。紀元前609年

ファラオ・ネコ(プサムティコスⅠ世の子)はユダ王国と戦い、ヨシア王を戦死させ、ユダを貢納国とし、エルサレムに傀儡王エホヤキムを立てていたので、息子ネブカドネッツァル(ナブー・クドゥリ・ウツル)をナボポラッサルは差し向けた。(親子共ナブー神崇拝)
605年、エジプトはファラオ・ネコに率いられてカルケミシュでバビロンと闘うが、敗北し後退を始める。一方ネブカドネッツァルはヒッタイトを破り、覇権を広げる。しかし、リュディア王国は最盛期を迎える。
しかし、ここでナボポラッサル王が亡くなり、王子は急遽バビロンに帰還しネブカドネッツァルⅡ世として即位する(605)。そのためにエジプトはバビロンの侵攻を一時的に免れたが、アシア方面への覇権を失った。<605即位年=翌604第一年、第二年は603年?>

そのアステュアゲスは最後のメディア王とされているので、ダニエル書のダレイオスが誰を指すかは依然として謎。


598年、ネブカドネッツァルⅡ世は再度西方遠征に着手、その途上でエホヤキム王が死去。エホヤキン即位、在位は三か月
バビロニア攻囲軍に降伏し、王室と神殿の宝物が奪われる。しかし、首都と神殿は守られる。同時に王と高官ら一万人がバビロンに連れ去られ、第一次の捕囚が始まる。

エホヤキン王の叔父であるマッタニアがゼデキヤと改名して即位。
翌年、ファラオはプサムティコスⅡ世に代る。
592年エジプトのヌビア遠征に、ユダは兵を拠出する。翌年ファラオはユダに使節を派遣。

589年、ゼデキヤはバビロンに赴き服属の誓いを更新
同年、ファラオが交代しアプリエスとなる。政策を変更しバビロニアを挑発
翌588年ゼデキヤ王、第九年に近隣のエドム、モアブ、アンモン、テュロス、シドンと共にエジプトを頼って謀反。

587年、ラキシュ陥落、この前後でエジプト軍によるユダ救援でバビロニアは一時的にエルサレム攻囲を解き、却って罠となる。

587/6年、エルサレム陥落
エルサレムと神殿の破壊、バビロニア軍は総督にゲダリヤを任命して帰還。第二次捕囚の始まり。エレミヤと少数のユダヤ人が残るも、ゲダリヤを弑してエジプトに亡命。


メディア王キュアクサレースはカッパドキアまでを手中にしたが、その西方にリュディアが繁栄を謳歌していた。そのリュディアの王アリュアッテスはスキタイのならず者を匿ってメディアを挑発したため、カッパドキアの縁を流れるハリュス川を挟んで一進一退の長い戦いが五年も続いたが、戦いの最中に日蝕が起こったため、不吉を怖れた両軍はここで和議を結んだ。▽紀元前585年5月28日の日蝕
バビロニア王ネブカドネッツァルの仲介によって和議が成立し、リュディアの王アリュアッテスは娘アリュエニスをメディア王キュアクサレースの息子アステュアゲスに娶らせた。

キャクサレースの息子でメディア王朝最後の王となったとされるアステュアゲスはリュディア王の娘アリュエニスを王妃とした。
そこでマンダネという娘を得たが、夢見の悪さ×から、そのマンダネを格下の(?)属国ペルシア王カンビュセスⅠに嫁がせた。
そこで生まれたのがキュロスⅡ世であった。
×①マンダネがエクバタナを水びたしにする夢②マンダネから葡萄が生えてアシアの全土を覆ってしまう夢。これをマゴイが夢解きし、そのためアステュアゲスは厄除けとしてマンダネの子の命を亡きものにしようと画策するが、これが却ってメディア支配を終わらせることになる。!(ネブカドネッツァルの夢解きでダニエルに及ばなかったのはマゴイか?)

576年頃、キュロスが生まれる。アステュアゲスはその嬰児を殺すようメディアの忠臣貴族に命じたが、その貴族ハルパゴスはその子を牛飼いミトリダテースに山地で放置して死なせるようにと命じて預けた、しかし、その牛飼いの妻(キュノまたはパスコ)は嬰児の命を救い、自分の子として育てた。
キュロスを名乗る以前のその子は、王様ごっこをしていてその裁可の仕方から偶然に身分が明るみに出る。しかし、アステュアゲスはその子の生存を悦ぶ。少年はペルシアの王室に帰る。

570年、アマシスがファラオ・アプリエスから王位を簒奪。

561年、エビル・メロダクが即位、在位一年で、新バビロニアの凋落が始まる。

559年、キュロス即位アンシャン分封の太守(558とも)
559年、ネリグリッサル即位、-556迄
556年、ラバン・マルドク即位するも三か月後に暗殺
555年、ナボニドゥス即位、ベルシャッツァルと共同統治、ウルのジッグラトの再建
550年、キュロスⅡ世がエクバタナを占領しメディアを併合。
やがて成長したキュロスに、ハルパゴスの王への遺恨からキュロスに謀反を促したので、キュロスはメディアに反旗を翻す。そこでアステュアゲスが鎮圧に差し向けたのが、その貴族ハルパゴスであり、軍勢と共に寝返って、キュロス側に着いてしまう。そこでアステュアゲス自らが赴くが、キュロスに破られ捕虜となってメディアの時代は終わったとされるが、依然としてメディアはペルシアと複合的な王国を形成した。このときキュロスはペルシア王ではなかった。

547年、キュロスⅡ世はメディアとペルシア双方の王となる。
アマシスはリュディア、バビロニア、スパルタと同盟し、ペルシアに対抗。

リュディアの王クロイソスは託宣の信頼性を試みてデルフォイアポロン神殿の託宣を信じるに至る。
その託宣で、ペルシアに宣戦布告すべきかを尋ねたところ、「ペルシアでラバ#が王となるなら、戦えば大国を滅ぼすことになる」の意味を確かめずに自分が勝てると捉えてしまい、ペルシアと戦端を開くが、激戦の痛み分けに終わった緒戦の後で、仕切り直しをしようと自国に引き上げたところを意外にもキュロスに追跡され、自慢の騎馬隊もキュロスのラクダ隊に蹴散らされ、大敗を喫して捕えられた。キュロスはクロイソス一族を処刑しようとしたが、薪に着いた火の勢いも嵐に消されてしまい、クロイソスの奢りの結末を示唆したソロンなる人物にも興味を惹かれ、助命し、サルディスの都の略奪も一計を以って中止させた。
#ラバ=アイオリス系(?)とメディア・ペルシア系の合いの子「キュロス」の意
当時ソロンは友人でもあったペイシストラトス専制を嫌ってアテナイからサルディスに逃れてきていた。
その後、キュロスは向きを転じてクロイソスを参謀とし、両フリュギア軍も加えてバビロンに向かうことが可能となる。

539年バビロニア進攻に先立ち、グディウムのゴブリュアスを調略し成功。
ティグリス河畔のオピスでティシュリの月に開戦、キュロス側が勝利、シッパルが降伏 バビロンの陥落(ティシュリ16)
ナボニドスは逃走するも捕獲、(釈放され延命したとも) キュロスのバビロン入城(ヘシュワン3)
キュロスのバビロン支配の様子を伝える史料は不明 ダニエル書はメディア王ダレイオスがバビロニア
(メディア人の王ダレイオスの第一年?[ダニエルの祈り])
537年キュロスの第一年、キュロス大王(559-530)エルサレム神殿再建の勅令発布と定礎
ディアスポラの開始)その年内に第一次帰還 第七月にはスッコート
ゼルバベルとイェホシュア(イェシュアと発音された蓋然性高し)
(シェシュバッツァルはイェホヤキンの第四子シェヌアッツァル(シャルティエル)の実子か、ゼルバベルと同一人物か)?


536第二神殿の定礎(バビロン陥落から2年、エルサレム陥落から50年

カンビュセスの治世中に神殿再建工事が中断

529キュロスの戦死。北方戦線でのキュロスの戦死 カンビュセスⅡ世が即位

キュロスの後継カンビュセスⅡ世のエジプト遠征 (帰途シリア522没)
522ガウマタ(マゴイ族)を倒してペルシア貴族でサトラップのヒュスタスペスの息子ダレイオス即位、翌統治の第一年ペルセポリス造営に着手 (もし、マゴイのガウマタの支配が続いていたなら・・)しかし、ガウマタがスメルディスに似ていたのではなく、カンビュセスⅡの本当の弟であったとの説もあり、その場合にはダレイオスの野心の隠蔽であったかもしれない。確かに双子でもないのに、見破れないほど似ているということはまずない。(ダレイオスⅠは何故か権力基盤が強そうでないところあり)

アラム語公用語

520(ダリウスの第二年[Hag1:15])第二神殿の造営の再開(586から66年目)

518(王ダリウスの第四年⇒587から満69年[Zek7:1])

ダレイオスはサルディスに総督府(サトラップ)を置いてアナトリアばかりか、エーゲ海東部の覇権を持ち、ペルシア帝国は最盛期を迎える。

(同「王ダリウスの第4年(518)[ゼカリヤ]第五と第七の月の断食を行って70年」の記述あり)

515第二神殿の完成 ダレイオスの第七年 (エズラ記では第六年(516)のアダル3日、翌月ニサンに奉献?ヨセフスによると第九年)

(奉献はバビロン陥落から24年、神殿破壊から71年目)


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以上のバビロンへの働きは、野獣の角のものとは異なり、その前の段階に相当
YHWHが『その手』を導く『マ−シァハ』としてのキュロスの角色


注意点
・黙示録でのキュロスの働きは、『祭壇の角の間から出る声』が第六のラッパの吹き手の使いに呼びかけて、『ユーフラテスに繋がれた四人の使いを解き放つ』

『四人のαγγέλοιは、人間の三分の一を殺すために解き放された。このαγγέλοιは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである』9:15
第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。16:12

『日の出の方角から現れる天使』が証印を他の四人と共に押す。
・バビロンへの進軍の以前にフリュギアとカッパドキア人を征服して南下している。メディアから王族がキュロスに伴っていたらしい。ダレイオス?
その以前にリュディア王クロイソスを破り、配下に加えている。
そこでキュロスは、バビロンに対して『北からの民々』とも言える。いや進路が北東のオピスから近付いている。理由はネブカドネッツァルの築いていた南東側の長城であったらしい。

・『この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した』
「その地震で七千人が死に」口語(なぜ揃ってこう訳すのか?)
"In the earthquake seven thousand people were killed"NKJV
しかし本文は・・
[ἀπεκτάνθησαν ἐν τῷ σεισμῷ ὀν όματα ἀνθρώπων χιλιάδες ἑπτὰ ]
[ἀπεκτάνθησαν]動)直アオ受3複 「殺す」:消すの暗喩、廃止、廃棄

直訳「その振動によって七千の人の名が消去(廃)された」
[オマタ]「名前」=名)主中複 [アンスゥーポーン]「人」=名)属男
主格は「名」(オノマ)であって、「人」(アンスゥローポス)ではない。したがって、「消される」(アポクテイノー)のは「人」ではなく「名前」の方である。これは「人が死んだ」のではなく「名前が消去された」つまり「名簿(戸籍)から七千の名が失われた(アオ)」つまり、所謂「行方不明となること」を含意してはいないか?
つまり『雲のうちにあって天へ上って行く』が『敵らは』そのようにして『それを眺めた[ ἐθεώρησαν] 動)直アオ能3複 』 そこでは、敵らが迫害を加えようと『残りの者』を探し求めていたからで、エノクの消去のように神は残った者を保護したために、捜せども彼らは居ない。つまり『雲の内に天に行く』
cf;⇒ 1Th4:17
しかし、この理解が不都合な宗派は許多あると思われる。
口語、新改訳で「生き残った者は」と訳されている「生き残る」に該当する原語はNA28本文に存在していない。「ホイ ロイポイ」は「その残り〈複〉は」となり、新共同訳は単に「残った人々は」と訳している。岩波委員は折衷型で『(生き)残った』としている。
他方「生き残った者は」と訳しては、その前の「七千人が死に」に対応してつられて「死」を強調してしまっている。

・キュロスの現れと活動は、極めて精選された時に実現されなくてはならなかった。それが第一神殿破壊から70年目の神殿再建を招来している。☆記事末
これは終末における、キリストのパルーシアの開始が同様に神YHWHの管轄する絶妙な時となることを示唆しているのだろうか。おそらくそのようである。しかし、それがキリストの王権拝受の時とも、天での構築なされる神殿での祭祀の開始ともならない理由がある。(神殿の定礎と仮の祭祀の開始、また構築後の灌油はあっても)

  • 2020年に以下を付記-

そして『三分の一を殺す』とは、騎兵隊に関わることであり、聖徒を指す蝗ではない。
従って、四人の使いが聖徒を表すと見ると、黙示録全体と調和してくる。


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日蝕周期の理解
西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者タレスが予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャ歴史学者ヘロドトスの『歴史(ヒストリア)』に書かれている。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べる「サロス」であるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる。
最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された。


サロス周期(サロスしゅうき、Saros cycle)とは日食や月食が起こる日を予測するのに用いられる周期である。単にサロスと呼ぶこともある。1サロス周期は6585.3212日(約18年11日8時間.ただし、閏年の配置によっては18年10日8時間)である。1サロスごとに太陽と地球と月が相対的にほぼ同じ位置に来るため、ある日食または月食から1サロス後にはほぼ同じ条件の日食または月食が起こる。
サロス周期はおそらくカルデア人(古代バビロニア地方の天文学に長けていた人々)には知られていたと考えられ、後にヒッパルコスプリニウスクラウディオス・プトレマイオスにも知られるようになったがサロスという名前では呼ばれていなかった。サロスという語は、バビロニア時代において3,600年という別の周期の呼び名として使われていたものだった。サロスを食の周期の名前として最初に使ったのはエドモンド・ハレーで、1691年のことであった。ハレーは11世紀のビザンツ帝国の『スーダ辞典』からこの語を採った。ハレーのこの誤りは1756年にフランスの天文学者ギヨーム・ル・ジャンティによって指摘されたが、サロスという用語はそのまま使われ続けている。



サロス周期は古代の天文学者によって発見され、計算法が簡単だったために広く使われていた。唯一の問題は、1サロス後の食が約8時間遅れて起こることであった。よって、ある日食が見られた地域のほとんどの場所ではその1サロス後の日食は見ることが難しい(月食の場合には、月が地平線上に上ってさえいれば1サロス後の月食も見ることができる)。そこでより長い3サロス分の周期(およそ54年31日)をトリプルサロスあるいはギリシャ語で「exeligmos(エクセリグモス)」と呼び、この周期がよく用いられた。1エクセリグモス後にはほぼ同じ場所で食が見られることになる。


中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、斉の桓公皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。


メディアの部族名マゴイ(マグorマギ)が祭司or魔術師を意味する語として残ったことからも、メディア人がアケメネス朝時代にも活発に活動していたことがわかる。その後メディア人はペルシア人と同化し、すでにアケメネス朝時代半ばには厳密に区別されなくなっていた。
cf;[τὸν Γὼγ καὶ Μαγώγ, ]「ゴグとゴグの家」ヤペテ系Gen10:2 創世記では「マゴグ」の名のままで記載! アヴェスター語形マグ(magu, maγu)に由来
[אֶל־גֹּוג֙ אֶ֣רֶץ הַמָּגֹ֔וג]メシェクとトバルもヤペテの子、メディア=ペルシア⇒コーカソイド
マゴイ[μάγοι]は継嗣の絶えたカンビュセスの治世の末期にペルシア王位を内密に簒奪し7か月に及んだが、これをペルシア人ダレイオスら7人が処罰し、ダレイオスが王とされた、というが。・・(ガウマタの出自には異説有り複雑で伝承には信じ難いものあり、王の実弟スメルディスであったとも)
マギ=幼子イエスを訪ねた不吉な三人の東方の占星術家⇒magic語源
シリア伝承では、ラルヴァンダド(Larvandad),ホルミスダス(Hormisdas), グシュナサファ(Gushnasaph)ペルシア語の人名として意味をなしているという。
ゾロアスターの神アフラ・マツダヒッタイト、ミタンニではヴァルナ神と呼ばれていた。シュメールの時代に重なるほど古い。
バビロニア語は後期アッカド語に近く共にセム語、1940年代にアッカド語からシュメール語が解読された。シュメールの記録が知られるようになったのは20世紀後半からであり、オリエント学は非常に新しい学問である。

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アッシュル国家は本来はアッシュル市を中心とする狭い範囲を版図とした。歴史の初期にはウル第三王朝の覇権下にあり、またその長い歴史の中で何度も周囲に覇権を拡大してはまた、その覇権を失って新たに台頭した大国、例えばバビロン第一王朝やミタンニなどの覇権下に屈した。しかし諸民族と国々の興亡の激しいオリエント世界で例外的な一貫性をもった.
アッシリア王国と呼ばれた時代にオリエント全域を征圧・支配する大帝国を打ち立てた。しかし、この大帝国が衰退、解体するとともに滅亡し、その1400年間に及ぶ長い歴史に終止符を打った。
アッシリアの制度上の君主は神格化された国土、あるいは主邑であるアッシュル神で、人間の君主はアッシュルの副王を名乗った。伝統的なアッシリアの国家体制の中核機関はアールムと呼ばれた市民会であり、国家運営の重要事項をここで審議、決定した。アールムの議長を務めたと考えられる公職にリンムがあり、毎年アッシュル市の有力者の中からリンムが選ばれ、年代の記録はその年のリンム職の人物の名前をもって行った。王権の拡大とともに王がリンムを兼ねることも行われるようになってアッシリア王は強大な権力を振るうようになり、アールムとリンムの権限も形骸化した。(グレコローマンだけが発足に於いて共和政体の覇権国家であったとはいえないらしい。それでもコーカソイドには共和制が多い)

バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。
アッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝)の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。紀元前722年にシャルマネセル5世がイスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。サルゴン2世は721年の即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争やバビロニア再征服が続く中で705年に死去し、その間にヒゼキヤはアッシリアへの朝貢を中断し様子見する。サルゴンⅡ世は704にセンナケリブが後を継いだ。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がった。(センナケリブの頃にはサルゴンⅡ世の混乱の影響があり、エルサレム占領を焦ったか)
アッシュールバニパルがエラムを滅亡(スサの戦い、en:Fall of Elam BC647)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなってゆき、紀元前625年には新バビロニアが独立して衰退に拍車をかけた。紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した。新バビロニアが継続できた背景に内紛多発によるアッシリア体制の衰退が大きい。⇒「新アッシリア帝国


以上の要約⇒「指名されたメシア キュロス

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ヘブライの教歴の月名




  第1月     ニサン(アビブ)      3月‐4月
            14日          過ぎ越し(ペサハ)
            15‐21日       無酵母パン(ハグハ マツォート)
            16日          大麦初穂の捧げ物
                  



  第2月     イヤル(ジウ)        4月‐5月
            14日          月遅れの過ぎ越し(民 9:10‐13)
                  「後の雨」


  第3月     シワン                5月‐6月
            6日           七週の祭り(シャブオート)
                  小麦の初穂、早なりの無花果


  第4月     タンムズ              6月‐7月
                  ぶどうの初物


  第5月     アヴ                 7月‐8月
                  夏の果物 (ティシャヴェ アヴ 9-10)


  第6月     エルル                8月‐9月
                  なつめやし,ブドウ,豆類、無花果


  第7月     ティシュリ(エタニム)9月‐10月
            1日           ラッパの吹奏(ヨム テルア)
            10日          贖罪の日(ヨム キプル)
            15‐21日       仮小屋祭(ハグハ スッコート)
            22日          第八日の聖会(アツェレト)
                  すき返す


  第8月     ヘシュワン(ブル)    10月‐11月
                  オリーブ豆の収穫


  第9月     キスレウ              11月‐12月
            25日          献納の祭り(ハヌキア)
                  家畜の冬ごもり 「前の雨」


 第10月     テベト                12月‐1月
                 草木が生育する


第11月     シェバト              1月‐2月
                   

 第12月     アダル                2月‐3月
            14,15日      プリム
                  かんきつ類 アーモンドの花が咲く

 第13月     ベアダル              3月






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