Notae ad Quartodecimani

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エゼキエル第37章以降

前記事⇒ エゼキエル書の構造

 

37章1節にはそれより前の部分との終末啓示の下賜された期間とに違いがある可能性を含んでいる。それ以前は『第12年10月5日』即ち、前586年であることが記されているが、37章から一続きの内容として39章末尾まで続き、次いで40章からはいきなりに『第25年1月10日』即ち、前571年に飛んでいる。その経過は14年(15年目)となっている。

記述のままに、37章以降が属する33:21からの内容は、それ以前のように諸国への糾弾から、聖都エルサレムの陥落の報を受けた夕方から啓示が与えられており、イスラエルへの咎の宣告と捕囚民の無理解が予告される中で律法体制の牧者らの犯した悪行が描き出される。その後回復が幾らか語られて37章を迎えている。

従って、37章以降の背景は、イスラエルが聖都と失った後の預言であり、それ以前の内容である咎を責める語調から変化が見られる。全体的には「回復の預言」となっているが、40章以降は謎がある。

(神は常にエゼキエル自身を自らの側の者『見張りの者』として語り続ける)

 37章~39章の書かれた年台は前586年以降で前571年以前のどこかということになるらしい。

エゼキエル書は36章を最後に「エルサレム」と「シオン」の名が一度も現れずに終わる。37章から最後までこれは徹底しており、「イスラエルの地」または「イスラエルの山地」という曖昧な言葉に終始する。>

 

 

・骨の蘇生

37章の場面は明確にそれ以前とは異なって、エゼキエルは霊によって平原に連れ去られている。

その谷の平原には乾ききった人骨が無数にあったが、エゼキエルはそれらの骨に向かって預言することを命じられる。

それらの骨は肉体を構成するようになり、四方の風がそれらに命の息をもたらす。

神はそれらを『イスラエルの全家である』と言われる。

 

・二本が一本となる棒

『ユダ』と『イスラエル』の棒は預言者の手に在って一本と化す。YHWHは諸国から彼らを集め、『一人の王を戴き』、『もはや二つの王国に分かれることはない』。神は彼らを清め、彼らは神の民となり、神は彼らの神となる。

彼らは父祖の地に住み、その王はダヴィドであり、神は彼らの上にその幕屋を広げ、聖なる処は彼らの中に置かれる。その聖所が彼らの中にあるのを見る諸国民はYHWHイスラエルを聖なるものとしていることを知らねばならない。

<前518年(ダレイオス四年)以降にゼカリヤが記した二本の杖とは対照的> 

 Jer23:5/Jer30:9/Jer33:15・22/34:23・24/Ez37:24・25/Hos3:5/

Am9は別途

 

続く38と39章はゴグに関する預言で占められるが、これも終末(38:8)について語っている。

安らかなイスラエルを襲うゴグは、タナイームに恐れを与えてきたので、「ゴグの害を避ける方法」も唱えられた。⇒「ゴグとマゴグの戦いの不運」

滅び去る聖都として何度も語られた「エルサレム」の語は37章以降にはまったく出て来ない。また「シオン」の語に至ってはエゼキエル書に一度も無い。これは非常に示唆的で40章以降の謎も含めて解く手掛かりとも言える。

イスラエルという民に対する諸国の軍の攻勢を主導するが、その軍はアッシリアの攻勢の時とはっきり異なるのは、南方系クシュ、プトの従軍が有るとされるところにも表れている。殊にクシュはアッシリアを最後に脅かした勢力であるので、はっきりと別物であることが分かる。これについては「鉤をかけて連れて来る」がイザヤのものとは逆に語られている。しかし、双方共に神の強い意志により必ず行われることを言うのであろう。

また、語られているトガルマが北の果てというのは、当時の世界観で言えることであったのであれば、これはイザヤの語る北の果てとは異なる意味になる。しかし、ゴグが攻勢のために来る方向が北の果てとされているこちらの言葉は、イザヤの意味と同じものらしい。⇒「ゴグの民族について」

ここでのイスラエルというのは、諸国から集められる民だけを意味しない。城壁も閂もなく平穏に過ごしているのは、子の方ではなく母親の方といえる。この両者をつなぐのはメシアの祈りの言葉の中に見える。それは選ばれた民が天に去った後であれば、その蓋然性は十分にある。神が守るべき民とは選ばれた民とは言えず、ここでイスラエルへの攻勢が同士討ちに終わる記述からすれば、このイスラエルは聖徒にはならない。

<新しい角に関する情報はエゼキエルには無いようだ。契約を追うダニエルとは補完関係にあるらしい>

<その意味で言うと、40章以降を含めてエゼキエルはダニエルよりも暗い>

<以前に書いたタイムテーブルは幾つか順番が違ってきている>

 

 エゼキエルでのゴグの働きは黙示録16章での偽預言者を含む霊感の言葉と整合している。これはヨエル3:9以降にも通じる。エゼキエルでの、この結末についての同士討ちは古くはエホシャファトの故事に予型が見られ、それをやはりヨエルが預言して確証している。

同士討ちについてはゼカリヤ14:13-14にも予告されており、「ベラカの谷」の概念が再出している。これらは一つの事象を指していると思われ、それはエゼキエルの38:17で『先の預言者によって語ったこと』と念が押されている。即ち、エホシャファトの故事に発するヨエル(前9世紀)以来の神の預言を言うのであろう。

こうなると、ゴグ自身の場所が『北の果て』とされる意味に見えるものがある。彼は政祭の頂点に居る。更にマゴグがゴグの地所であるのなら、マゴグの正体も見えてくる。⇒「ゴグとマゴグの関係」

そこでエゼキエル40章以降の謎の神殿がどう関わるのかも繋がってくる。

これは相当にクリティカルな内容になるが、ネイヴィームとパウロと黙示とイエスの言葉が一事案の方向に収束されていることになる。当然ダニエルにも散見される。ただ、聖書中では総合されずに散らされている。その目的は理解を妨げるためであろう。直に知ることが避けられているというよりは、諸説が入り乱れ、謬説が流布することが意図されているらしい。理由は終末の背教を誘発することにあるようだ。<ダニエルの12:4は良い意味での預言でないのかも知れない>

というのも、その謬説が終末でのカイヤファと祭司長派の働きを為し、その協力者を招じ入れるための神の遠謀深慮が込められている可能性が排除できず、人は容易にその罠に嵌まる。というより既に嵌まっている。預言の前に人は恐懼すべきであるのに、自分の解き明かす身分に酔っていれば、たいへんなことになる。

 

 ・ハモナー 

 Ez39:16 הֲמֹונָ֖ה

39:15「ゴグの群衆の谷」 אֶל־גֵּ֖יא הֲמֹ֥ון גֹּֽוג 

モナーが二回あり、ハモナーそのものが「(組織された)集まり」また「群衆」の意あり。

「ゴグの群衆」の群衆がハモンであり、ハモナーで女性形。また「数えられた」の意あり。

「海の東」は死海を指すとのこと、「海の道」を意味しない。

敷衍して、「ゴグに蝟集した者たちの組織された群衆」。

16節では都市の名としてハモナー(f)であり、この都市が突然現れるかのように訳されているが、新共同訳は「そこで、ハモナ(軍勢)という名の町ができる」としている。ヘブライ語の簡略さがその由来の詳細を明らかにさせない。

ここでの『街』というのは、ニムロデの都市国家を含意していると捉えると、その墓としての象徴的意味に解せる。⇒『ゴグとマゴグに惑わされた民は地に広がり、聖なる者たちの宿営と愛される都市を囲む』Rev20:8-9

『その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える』の『墓地』はシェオルでなくケベル[ קֶ֜בֶר]になっている。通常の墓の意ではなく「埋葬地」となるけれども、「死体置き場」に近い。