Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エドムの咎

エドムは前587年以後ユダ南部に移動している。
オバデヤはエドムがバビロンと共謀してユダを征服したと指弾10-11

主なる神はこう言われる、エドムは恨みをふくんでユダの家に敵対し、これに恨みを返して、はなはだしく罪を犯した。
『アハハ、永遠の高きところは今や我々のものとなったと言った。そこで諸国民の残りの者らによって攻囲され占領されたとき、周りのすべての民はお前たちを蹂躙する』36:1-3
それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしはエドムの上に手を伸べて、その中から人と獣とを断ち、これを荒れ地とする。テマンからデダンまで人々はつるぎに倒れる。
わたしはわが民イスラエルの手をもって、エドムにわがあだを報いる。彼らがわが怒り、わが憤りに従ってエドムに行う時、エドムの人々は、わたしがあだを返すことを知るようになると、主なる神は言われる。Ezk25:12-15 ShM無し

あなたは限りない敵意をいだいて、イスラエルの人々をその災の時、終りの刑罰の時に、つるぎの手に渡した。Ezk35:5
あなたは言う、「これら二つの国民、二つの国はわたしのもの、われわれはこれを獲よう」と。しかしYHWHがそこにおられるにもかかわらず。Ezk35:10

YHWHのつるぎは血で満ち、脂肪で肥え、小羊とやぎの血、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。YHWHがボズラで犠牲の獣をほふりエドムの地で大いに殺されたからである。Isa34:5-

わたしの他に居なかった。諸国民の中に Isa63-

エレミヤも哀歌の中でエドムの娘とシオンの娘を対比して語っている 4:22
そこではシオンの娘の咎が赦されて二度と生じない代りにそれがエドムの娘に向かうことを明らかにしている。

この件について聖書以外の資料はあるか?

EzkやObdは事後の報復として語り、Isaは共に預言として語る
その対型は相当に著しいものであるらしい

前587年以降にエドムがユダ南部に移動したことは当然ユダの民の憎しみを引き起こしていた。Keith W. Carlry"TheBook of Ezekiel"

イスラエルの手をもって」については
ハスモン朝期にエドムは一度征服されユダヤ教を強制されたが、それは西暦70までに及んでいる。だが、これは預言の成就ではないであろう。

PS137:7以降には相当な含みがあり、これがダヴィドの作なら完全な預言と言える。イェシャヤより古く初出では?いや、イツハクは何と?
『耐えきれなくなるときにその(ヤコヴの)軛を取り去る』西暦七十年に成就し終えたとは思えない
流刑の害にエドムが関わっている。第二神殿崩壊は流刑をもたらしておらず、離散が継続している。

やはり、終末に於けるエドムは只ならぬ何かを指しているようだ。
ユダの対型ではないか?銀三十枚
エサウのようであってはならない』赤豆の煮物

エシュアの命を狙ったヘロデ大王エドム人
マシアッハの到来を妨害⇒ペルシアからのマゴイ⇒女の生む男子を食い尽くそうとする

ヤコヴの手を以って」は契約の終了を表す。
問題はバビロンかマゴグか
ヤコヴの軛を取り去る』のであればバビロンということにはならない
イザヤは「ひとり」であったと云う。バビロンであれば諸国民となる
なぜ『ほかに居なかった』?
聖徒攻撃の手引きをしたユダ・イスカリオテの対型か(ではユダの動機はエサウ的であったか)

また、そうであればエドムの裁きは聖徒召集以前ということか 『まず毒麦を集め・・』
脱落聖徒らは赤馬までは生き長らえると思われるのでゼカリヤと一致しない あるいは彼らの滅びが全体にカオスをもたらすか?
一つ考えられるのは、エドム的行為によって脱落聖徒が地に残されることで、彼らの命運が決することを殺戮に象徴している
これなら裁きの執行者が一人とも言える。十二人はその審理に参与はしても執行権限まではないと見ることは妥当
なぜなら、赤馬の災いの執行には王権相続者の全聖徒が伴うと思われるので

少なくともObdはそれが終末であることを予告する
ではエピファネイア前のヤコヴが最弱であるときに裏切る者
シオンの娘がシオン自身でないように、バビロンの娘とはバビロン自身ではないのでは?PS
いや、あまり関係は無さそうに見える バビロンの刑執行人は人間である

諸国民は二度の戦役で共に攻略に成功しないが、シオンの子らについては一度限り成功する。これにエドムが関わるとみるべきか?しかし、副次的攻撃らしい。
エドムの目的はイスラエルとユダの土地の収奪だったと、エサウの呪いか?イスラエルの危急に乗じて利得を得たとは史実らしい。まるで身内らしくない敵意を表したと。イスラエルの帰還史上でエドムが破滅を被るような事態は記録されておらず、キリスト後まで健在を確認できる。
シオンの子らに約束された地を狙う近しい裏切り者とは?
Heb10:30?

違犯のエドムについての正体を明かすのは
PS41,PS55であり共にOB7と関連している
ダヴィドはアブサロムとの関わりで吟じたにせよ、その言葉はキリストと滅びの子とに関連している
『彼らを最後まで愛された』『苦悩の内に明かした』


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バプテストの悔い改めはユダヤ人を祭司職に導く「洗い」だったのか?職服を着ける前の洗いであったとなると・・
ただ、それは流れる水で行われており、「海」の水ではない。
アロンの洗いと職服の着用、その後の灌油と七日の見張り
ヨハネは、流れる水は飲むものと描く
エゼキエルは!それで海が無いのか!ヴェートハショエバー
ヨルダンとはいえ「生ける水」の範疇にある
では「信仰」と「聖霊」をつなぐという意味か?
「洗いの水」と「生ける水」の違いからすると水洗と飲水は異なるらしい
ユダヤでは昔、夜間の飲水を勧めず、禁止するミシュナーもあったらしい
理由は大したものではなかったが
ではキリストの洗いとバプテストの違いは?
共に祭司職への準備であったことになる。
では信徒に洗いは必要か?
それとも他の意味があるのだろうか?
祭司が水で身を清めるとはそういうことか
もしバプテストとキリストが川の水に拘ったならユダヤ伝承に従っていることになるが(あのシャブオートのときにはどこで施されたか?シロアムは問題なし、ベツサダでは?)
ヨハネは、スッコートの祭りに於けるイエスに文章を割いており、最終日のアツェレトでの発言に言及し、それについて霊を関連付けている。<光は山上の垂訓>
結果的に水は犠牲の血の上を流れる=水と霊
極論するとバプテスマの必要が無くなってしまうが・・どうか
マルコの末尾・・
この件、ディダケーにもあった!(驚き)


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ハナニ [ רֹ אֶ ה] ローエー
預言者 [ פָ נִ ים] パニーム
視幻者 [חֹ זֶה] はゼー

וְדִבְרֵי֙ דָּוִ֣יד הַמֶּ֔לֶךְ הָרִאשֹׁנִ֖ים וְהָאֲחרֹנִ֑ים הִנָּ֣ם כְּתוּבִ֗ים עַל־דִּבְרֵי֙ שְׁמוּאֵ֣ל הָרֹאֶ֔ה וְעַל־דִּבְרֵי֙ נָתָ֣ן הַנָּבִ֔יא וְעַל־דִּבְרֵ֖י גָּ֥ד הַחֹזֶֽה׃

1Chr29:29




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