Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

レハベアムの人柄

レハベアムは、ダヴィドとバテシバの件、ソロモン即位時の混乱と粛清をどう感じていたか?
おそらく感じたことは、王権がもたらす自分の存在の不確かさではないか。

彼が偉大な父王との比較に悩んだというのは皮相的な観方のように思える。ソロモンは晩年賢王ではなかったからであり、国家の経済状況が悪化しても贅沢な暮らしを止められず、民に重税を課し、過酷な徴用を続けていた状況で、世代交代したときに民はレハベアムに希望を見ていたに違いない。

それであるから、旧臣らが何かとソロモンの偉大さを説いて、彼を閉口させたということはまずあるまい。但し、向こう見ずな判断を下すものの影響を受けやすい性質であったことが若いブレーンの言いなりになったというエズラの記述に見える。但し、若いと言いても本人が40歳の頃の同年配ではあるから、粗暴な時期とは言えない。

十部族が離れたことで、彼の野放図な生き方は不可能となったかのようだが、ヤラベアムに対抗心を燃やして、分裂当初はベニヤミン族と共に18万の軍勢を集めてイスラエルに攻め込むところであった。
そこで彼は預言者シャマヤの諫めを受け入れている。
だが、それで愚昧な歩みを収めたわけではなく、次には高き岡での淫行崇拝を助長し、これはエジプトに攻め込まれて財宝を奪われ、ソロモンの栄光を減じられてからその仕業を悔いるに至り、国の防備を固めるべくシェフェラの諸都市の防備を固めている。
後代に、ラキシュがバビロニアの攻撃を遅らせて首都に時間を与えたことは、レハベアムの備えが生きたことを物語る。

そこから見えるのは、賢いとは言えないものの、後知恵の人であったということであろう。
つまり、賢い判断をせずに失敗するのだが、それを後悔して対処するという人間像である。

賢くはないが、まったく頑迷でもない。
それでも、父王の絢爛豪華な治世を鼻にかけるバカ息子とまでには至っておらず、そうなっても仕方のない状況で、ある程度の賢明さは保っていたと言えよう。
だが、はじめの奔放さがなければ、そこそこの成功の機会はあったという惜しい性格なのであろう。
母親がモアブ人であったが、とりたてて幼児犠牲についてレハベアムと結びついて書かれてはいないが、堕落した崇拝を励行したのち、ファラオ・シションクに攻められ、さっそく父王の築いた宝物の栄光を喪失する結果を招いている。彼はこれに相当懲りたようで、失われた宝物を劣る材質のもので代替してはいる。

彼は晩年に王位継承が順当に行われるようにと、皇太子アビヤの他の息子らに寛大に相続をさせている。ここで猜疑心の塊のように晩年を迎えた残忍な王のようにはならず、好々爺のような温順さも感じられる。そこはイスラエルを二つに割ったかつての教訓からのように思われる。

歴代誌の諸王は、恰も人の諸相の展示であるかのようで、様々な性格と人生を見る。我々は人の良し悪しに気が向きがちだが、ダヴィドの失敗を見るに、人格や行状がどうでなければならないということもない。

しかし、総じて他者への共感や信仰という事柄においては共通するものがある。その信仰というのはアブラハムに約された事柄に関わり、それをどう評価するかに掛かっていたと言える。





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