Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

塩と火

火で塩付けされる
 
 
イスラエルでは塩の入手に困ることがなかった。
死海周辺には膨大量の岩塩と、天日塩があり、比較的に安価であったらしい。
死海ユダヤ人には「塩の海」[ים המלח]ヨム ハ メラー と呼ばれてきたほどに、太古には周辺が海であったものが地表の隆起によって海水が取り残され乾燥した気候のために水が蒸発してしまい、しかもこの塩湖から流れ出る川もないために無尽蔵の岩塩が周囲にあり、「ロトの妻」で知られるような塩の柱をいくつも見るほどである。
 
また、地中海側では海水蒸留による海塩も得ることができた。
但し、岩塩では不純物が含まれ、それが独特の旨味を供するだけでなく、不純物が多過ぎたり、水分が塩の成分を溶かしてしまった後の岩塩には当然ながら塩味も効果もなかった。
エスが『塩気を失うなら、その塩は・・』とは、岩塩を指しており、『火』との関わりで述べるときには海塩の製法を例えていたと捉えることがパレスチナで不合理とも言えない。
 
 
◆『火』については
マルコ9:49で、人はみな火によって塩味をつけられなければならないと主が言われたのは、ご自身さえもが地上で共感を学ばれたことを含んでいることであろう。(ヘブライ2:17-18)
 
コリント第一3:12にある『火』は試練を表していると見てよいらしい。
ペテロ第一1:7の『火』はまさしく試練を指しているが、それは同書4:12からも明らかと言える。
 
メシアを退けたユダヤには『火のバプテスマ』が臨んでおり、終末のこの世も同様である。(ペテロ第二3:7)
 
但し、『火』は「硫黄」との関わりで滅びの象徴でもあるが、この辺りの違いには判断を要する。⇒「三色
 
そこで『あなたがたは地の塩です』と言われたのは、この世と言う環境の避けられない『地』に於いて、少なくともキリストの弟子でありたいと願う者が、地に満ちる苦しみから学ぶものであるべきことを指していることでしょう。(テモテ第二3:12)
 
この捉え方を裏付けるように、共観福音書の中でイエスが弟子らを塩に例える場面はどれも迫害があることに備えさせる文脈の中にある。
マタイは山上の垂訓の冒頭での有名な「九つの幸い」の最後には迫害を受けるときに天での報いは大きいのであるから幸いであると述べて、すぐに『あなたがたは地の塩』と続けられている。
 
これは信仰には代償が伴うことを警告する件でルカが、塩気を失うことの無価値を述べる点で相似が見られ、マルコでも、手や足や目が自分を邪魔するなら、それを切り捨ててでも神の王国に入るようにと語ってから、『ゲヘナでは蛆は死なず、火は消えない』とし、『それで[γαρ]人は皆、火で塩気を付けられる』と語られている。そこで人に塩味を付ける『火』とは、その受ける苦しみであることの状況証拠をそれぞれに持っていると言えよう。
 
イスラエルはエジプトの苦役を通して、寄留者の苦しみを知った。
律法は『おなたがたも寄留者であったのだから、』として、彼らの共感に訴えている。
 
・敷衍して、人がこの世の苦役から学ぶところもまた多い。
もちろん、この世の有様は間違ったもので、神の訓練でもないが、『罪』を負ってしまった人類に苦役は不可避となっており、それ自体は不幸の源ではあるけれども、それぞれに他者への共感や配慮のできる者として成長させる点では得られるものが何もないとは言えない。
 
聖徒らについては、地上での契約に忠節を尽くす生き方は神の訓練であると書かれているが、天に召されるまでの間にキリストに続く者として試みを経ることは、彼らに義をもたらし、揺るぎないものとさせると述べられている。
 
従って、人は誰もが苦しみの『火』を介して貴重な資質である『塩味』を付けられてゆく。この点では、キリスト自身が試練によって人の苦しみを知ったので、また人を助ける事ができるとある。(ヘブライ2:18)
それは共感を生み、互いの間に平和をもたらし、苦しむ者の苦痛を和らげ、人の弱いところを支え、神による全き善が施されるまでの間に、神の善に倣いつつ、その善良さの一端となるよう努めることができる。
それを裏付けるようにコロサイ書簡には『 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう』とあります。これは『火で塩気を付けられなければいけない』と述べたイエスが『自分の中に塩を持って、互いに平和に過ごしなさい』と続けて語られた部分と意味は整合しています。(コロサイ4:6)
 
主の弟ヤコブが教えたように、人々を顧みない態度は『清い崇拝』とは言えず、無益なものとなってしまう。
 
マルコ9:49の背景にあるとされる
レヴィ2:13『あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』
民数18:19『イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である』
歴代第二13:5『あなたがたはイスラエルの神、主が塩の契約をもってイスラエルの国をながくダビデとその子孫に賜わったことを知らないのか。』
 
以上から、マルコ9:50の末尾にある『あなたがたの間を平和に保て』が、イスラエル共同体の契約が履行され、相互の関係性が保たれることを指しているとの見方があるが、レヴィの塩の契約は別にして、ダヴィドの王権との関わりを述べていたというには時代的にそぐわない。
むしろ、ここでは『塩』が塩そのものの働きを述べていると観る方がしっくりする。つまり、塩という物の持つ性質のことであろう。
 
 
 
 
それは『愛』アガペーを掲げるキリストの教えに於いて最も基本的な資質であり、その『塩気を失ってしまうなら何の役にも立たない』とは、どれほど信仰の業や理解に優れていようと、人への共感や配慮を欠いているのであれば、何の役にも立っていないと言う非常に鋭い警告であったのであり、これはキリストに倣うつもりのすべての人々が心の底に銘記すべきことでしょう。
また『何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ』という言葉は、脱落聖徒の描写に用いられるものであるところの共通性を感じさせる。
 
 -以下、使用文-
誰かが「自分には愛がある」と唱えることは容易ながら、それは塩であると言うだけのことで、その味わいがないなら、塩と言えません。ヤコブが言うように、それを現実のものとするのは言動なのです。
 

聖なる者ではないわたしたちもこの世で難義して生きてゆかねばならないのですが、そこから塩味を得てゆく機会ともできるとすれば、この世で犠牲の死までを遂げられたキリストを信じ、その教えの弟子であろうとすることは、この世にあって有意義で実りあるものとなり得ます。
この世で培われたその『塩味』は、永遠にその人の価値ある資質として輝きを添えることになるでしょう。

穀物の捧げ物には必ず塩が添えられたように、それには味わいが求められていた。
大麦の初穂がニサン16日に捧げられ、それがキリストの復活の日ともなったこと、また、シャブオートの日に小麦の初穂が捧げられたことが聖なる者たちに聖霊が注がれ『神の王国』をキリストと共に構成する者たちの選び出しが始まったのであれば、双方ともに地に在って試練を経ることが求められていたことになります。

その地での試みを通して、彼らが精錬されるだけでなく、人の痛みを知ることを通して、彼らが支配する人々への共感を学ぶことにもなり、穀物の捧げ物について、必ず塩を求められた神は、『王国』の相続者すべてについて、その共感あるものとなることを必須とされたことでしょう。