Notae ad Quartodecimani

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異邦人が全部救われる時まで? ローマ11章

甚だしく誤解されている箇所 ローマ11章25節

ギリシア語(プレーローマ)「満たす」は何についての充足を言うのか

 

Rm11:25-27

一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、/「救う者がシオンからきて、/ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、/彼らに対して立てるわたしの契約である」。【口語】

 

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」【新改訳】

 

一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」【新共同】

 

頑迷さが部分的にイスラエル人に生じたが、[しかしそれは]異邦人たちの[救い]の満ちる時がやって来るまでのことであって、そのようにしてすべてのイスラエル人が救われるであろう、[ということである]。次のように書かれている。

「シオンから救う者がやって来るであろう。

彼はヤコブから不信心を取り去るであろう。

そしてこれは、彼らに対する私からの契約となる、

私が彼らの罪を取り除く時に---」【岩波委員】<Isa59:20-21>

 

原文は

[τὸ μυστήριον τοῦτο, ἵνα μὴ ἦτε ἑαυτοῖς φρόνιμοι, ὅτι πώρωσις ἀπὸ μέρους τῷ Ἰσραὴλ γέγονεν ἄχρι οὗ τὸ πλήρωμα τῶν ἐθνῶν εἰσέλθῃ,

καὶ οὕτως πᾶς Ἰσραὴλ σωθήσεται · καθὼς γέγραπται · Ἥξει ἐκ Σιὼν ὁ ῥυόμενος, ἀποστρέψει ἀσεβείας ἀπὸ Ἰακώβ.

καὶ αὕτη αὐτοῖς ἡ παρ’ ἐμοῦ διαθήκη, ὅταν ἀφέλωμαι τὰς ἁμαρτίας αὐτῶν.] NA.28

 

解釈の例

「異邦人が全部救われるに至る時まで」という表現が、万人救済論を主張しているわけではなく、全世界に救いの福音が宣べ伝えられ、各自が個人の責任においてそれを信じる機会を与えられることになる状態を指している。その平等な機会は、愛の神の願いに基づくものである。

<1Tim2:4を挙げて>

勿論、それは神自身が「これ以上はもういい」と判断される状態であり、全知の神だけがその「満期」をご存じで、人間にはそれがいつ満ちるか知ることができない「時」である。

 ちょうど御子イエスが「時の満ちる時に及んで」この地上に与えられたが、多くの明確なしるしにもかかわらず、人々はその「訪れの時」を知らずにいて、また知ろうともせず、御子が地上から去ったのと同じである。

 

(an east window)様 2017.12.16

 

イスラエルはみな救われる」の「みな」とはとのような意味なのでしょうか?・・
この「みな」というのはイスラエル人が一人残らずという意味ではなく、民族全体としてのイスラエルのことを表しているのです。すなわち、世の終わりに、全世界に福音が宣べ伝えられ、救われるようにと神に選ばれれていた異邦人がみな救われると、それまでかたくなだったイスラエル人たちがこぞってイエス様を信じるようになり、こうして、イスラエルはみな救われるようになるということなのです。おそらくそれは、「残された民」のことを指しているのでしょう。この「残された者」については11章5節にも出てきました。神様は、今も、恵みによって残された者を選んでおられますが、この世の終わり時にはもっと多くのイスラエルがイエス様を信じて救われるようになるのです。 こうして、イスラエルはみな救われるのです。

・・・

28-32節を引用して

ここでは、「彼ら」であるイスラエルと、「あなたがた」である異邦人が対比されて描かれています。すなわち、「彼ら」であるイスラエルは、今は福音に対して敵対し神に不従順な状態ですが、神の約束によるならば、彼らの父祖たちに対して与えられた祝福のゆえに、神に愛されている者なのです。神はアブラハムを選び、「あなたがたを祝福する者を、わたしは祝福する」と約束されました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)と約束されましたが、その約束に変わりはないというのです。神の賜物と召命とはどんなことがあっても変わることがないのです。

 

(大田原キリスト教会)様 2014.1.25

 

 

所見;翻訳に問題があるように思う

異邦人が先にイエス・キリストに帰依し、云わば「選ばれたクリスチャン」が集められた後に、再臨のキリストによってユダヤ教徒か悔いて改宗するというような解釈、またイスラエルを血統上の民族と見做し続け、当該のパウロの句を現実のイスラエル民族の上に適用するものと解釈する原因はどこからのものかと言えば、『満たし』[プレーローマ]がイスラエルをどう満たすのかについてのパウロの真意を得損なう翻訳に問題がある。

[πλήρωμα τῶν ἐθνῶν εἰσέλθῃ]「諸国民で満たされる」のがイスラエルという民族であり、パウロが言いたいのは『諸国民によって[定数が]満たされ、イスラエル[というものの]全体が救われる』の意味であり、ユダヤ人だけでなく異邦人も多く居たローマのエクレシアでは、この辺りのパウロの言葉にペテロやエイレナイオスが云うような性急さがあっても、彼らが実際に聖霊注がれた身であったことにより、彼らにはこの文の意図を明瞭に理解できたと思われる。

この[πλήρωμα]を「満たし」との本来の意味に訳しているのは、上記のもので岩波委員会の訳だけであり、まず、そこで日本語訳の大半の聖書読者は上記引用にあるような解釈を強いられることになる。聖書翻訳が重要なのはまさにこのような箇所といえる。

パウロの言葉の背景には、奇跡の聖霊の注ぎによって、真に水と霊から生み出され、選ばれた者らにしてみれば、ユダヤ人だけでなく無割礼の異邦人にも聖霊の注ぎがあり、それを彼らが実際に体験していたことがある。

一方、それらの解釈の背景には、『新しい契約』に一定数の充足があることの理解が欠如している。

つまり、本来『契約の子ら』であるユダヤ人の『頑迷』即ち律法主義によるメシアへの不信仰のために『新しい契約』に参与する者が足りず、定められた本数の枝に異邦人が接ぎ木されて、その全数が『満たされる』ことを言っている。

そうして黙示録が伝える『14万4千』という、パウロが言う『神のイスラエル』には、異邦人の流入と数の満たしが起こって、それが『祭司の王国、聖なる国民』を最終的定員に達することになり、アブラハムに示された人類救済の子孫で成る『天の王国』が完成され、そうしてイスラエルという民に与えられた神の目的を果たすことが可能となるという意味で『イスラエル全体が救われる』とパウロは言っている。

これはやはり黙示録の中、その第11章でも測られるべき神殿と祭司に相当する奉仕者という『祭司の王国、聖なる国民』、即ち『神のイスラエル』と、その他の測られることのない諸国民という描写にも表れている。

上記の句に於いて、なぜイスラエルが救いを要する事態に陥ったかといえば、現れたナザレ人イエスに対するメシア信仰を抱くユダヤ人が足りす、そこにメシアを深く信じた異邦人がアブラハムの子として生み出されイスラエルの一員として数えられることによって、イスラエルという民の全体が『満たされる』のであって、異邦人そのものが満たされるわけではないし、全人救済論とも無関係であることは言うまでもない。

この異邦人の流入によるイスラエルの救助は、イスラエルのメシアを処刑させるほどの不信仰と大半の民の無反応な鈍感さに対する処置であり、それはイエスに命令を願ったローマ士官についてイエスが云った『東や西から人々が来てアブラハムと宴席を共にするが、この国民は外に投げ出される』と予告されていたことの成就でもあり、それをパウロは『イスラエルに麻痺が生じた』というのである。(そしてこの麻痺は終末にも続く趨勢にある)

上に挙げたどの翻訳も、この意味からは訳してしないので、その発想に到達していない。従って、だれが読んでもこのような趣旨を捉えることはない文章になっている。

そこで、キリスト教徒になる異邦人が増えて、そのため再臨のイエスを見てユダヤ教徒が大量改宗することがイスラエルの救いであるとか、それを司るのが異邦人の満たしの務めであるとかの推論を煽っているのだが、そこで欠如しているのは『新しい契約』による『神のイスラエル』が選ばれた一定数のアブラハムの裔、また『キリストと共同の相続人』となることへの理解である。これはイスラエルという神の選民が何であるのかの視界が無いことを表している。

誤解の生みだす危険

見える様での再臨を想定している教会や教派は本当に多くて、このままでは肉で現れる偽キリストへの防備がまるでない状態であることに驚かされる。キリスト自身が地上に現れるキリストに追随してはならないと再三警告している福音書の言葉をどのように捉えているのだろうか?

このままであれば、一般的教会は終末にアンチクリストの信奉者を構成することになってしまうが、それでよいのだろうか。やはり、再臨でもユダヤ教徒ばかりでなくキリスト教に於いても不信仰と麻痺が繰り返されるかのようである。このままではその趨勢にあると言うほかない。

 

「キリストの再臨が見えるものか否か」これは終末での異常な程に大きな争点になるに違いない。これはほぼ生死を分けるほどのものではないか。

 

この件に関連して

L.G.フロイトマンは「新約聖書に於けるアンチ・セミティズム」の中でJh11:45-54についてヨハネ福音筆者を批判している。

曰く「イエスの死がなぜユダヤ人を救うのか。また彼らを一つにするのか。大祭司カイヤファがどうしてそう視界したかについては説明していない」。「イエスの十字架の敵役が告訴される必要があったこと。その敵役はローマ人であってはならなかったこと。ユダヤ人らはキリスト教を拒否したし、キリスト教徒の抗争相手であったから、その敵役にはユダヤ人が最もふさわしかった。そうすることによってヨハネ福音書筆者はキリスト教徒がイエス・キリストの十字架の死にローマ人を関係させることを避け、ローマを敵に回すことができた。問題は、そのもっともらしいモチーフをヨハネ福音書筆者が見出すことにあった。それゆえ、イエスの死がユダヤ人を救うという11:50以降の示唆は、諸福音書の中に見出される捏造的説明の内の一つに過ぎない」。

これに対し、東北学院大学の土戸 清教授は「散在している神の子らは、カイヤファの預言の文脈においては[離散のユダヤ人らを意味するが、ヨハネ福音書記者は同時に[異邦人をも含むイエスに従うものたち全体を神の民]に含意させていた。さらにカイヤファが政治的レベルの判断により「イエスは国民に代わって死ぬことになっている」と述べ、それに対して、ヨハネ福音書記者は読者にイエスの国民救済にかかわる判断である[世の罪を取り去る神の子羊]を想起させている]」。と論破する。

 

ナチスホロコーストの後に、キリスト教側のアンチ・セミティズムが糾弾される社会的潮流の中で、フロイトマンの節はまた別の一方に偏っていると思われる。

やはり、イエス自身も福音書筆者を使徒ヨハネとしても、ローマとの対立を避けたのではなく、律法体制の中に裁かれるべき重要な要件があった。それでイエスパレスチナに宣教を限ったのも、ローマとの政治的対立を避けるためではなく、もとよりアブラハムの裔にして『祭司の王国、聖なる国民』、それこそが真実のイスラエルを集め出すという目的に沿ったものであったのであり、その要件は『アダムの罪』ゆえに律法順守ではなく、メシア信仰の有無であったというのが真相であろう。

それであるから、アンチ・セミティズムの糾弾は、あらぬ一方に再び傾くことであり、キリスト教ユダヤ教の和解なり接近なりは、キリストの教えとはかけ離れたところで行われる政治的ショーと言う外ない。それは必ずや終末に悪い材料となるであろう。これは宗教間の敵意を煽るためではなく、神が人間に対して何を問題にしているのか、それが初臨のキリストによって模式的にユダヤで試行されたのであり、その本旨を見失わないためのものである。>