自らを祝福する
gen22:18
Ps72:17
gen22:18
Ps72:17
Isa65:16
誰も納得するものにも、誰にも納得されないものにも信仰は要らない
だが、『自らを祝福する』という能動的な表現の意味は、単に贖われて終わるという信仰万能の捉え方に警鐘を鳴らす。
ルターがヴィッテンベルク大学のためにローマ書講解を行う際に見出した「塔の経験」はカトリック優勢に対する反抗のバイアスが掛かっていたというべきで、本来はその先にある「罪への悔い」が欠落していたと見るのは不合理ではない。
・「平伏した」[]がここにある ⇒ Mt28:17 14:33
・コルバンについては
ネダリーム8:7 ネズキーンにも有り
・Joh16の場面での23節から、『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう』
『その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである』
との間に見かけ上の矛盾があるが、そこに『新しい契約』の効力が働いていると考えれば、彼らの義認が仮のものであることを理解できる。
新しい契約からの恩寵として『人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、「あなたはYHWHを知れ」とは言わない』という状態に入るとき、もはや信仰の有無を超えたものが求められる。それはヘセドであり、倫理性である。
ほとんどの新教系キリスト教界はこれを理解しておらず、旧教系では修道制によってこれを曲解して来た。
・捕囚と回復
旧約を通して捕囚と帰還の扱いはあまりにも重大であり、すでに律法の中からも始まっている。それは預言書の中で増幅されており、これは徒事ではない。キリストのエルサレムへの嘆きにその延長が見られ、聖徒の精錬の訓戒や例え話もある。加えてパウロやペテロが警告し、ユダが注意を喚起し、黙示録はその過程を描き出す。こうして見ると、聖書はエデンの裁定から黙示録までこの件を扱っており、ユダ・イスカリオテのような背信について相当な部分を使って知らせている。むしろ、これに気付かない方が不思議なほどになっている。その記述は相当量に達しているではないか。
・エゼキエルがなぜゼデキヤを王と呼ばずナーシーと呼んだのかについては、その理由が40章以降に含意されているようである。これはパウロの『不法の人』へと繋がるらしい。
・ネティラット・ヤダイム
エシュアと律法学者の争点の一つとなった手洗いに関するミシュナー
ネティラット・ヤダイム(手の洗浄)についてのタルムードの記述は
主に以下のミシュナー/ゲマラの巻(マセヘット)
ネティラット・ヤダイムに関する主要なタルムード箇所
1. ブラクホート(Berakhot)
朝の手洗い
トイレ後の手洗い
食前・食後の祝福との関係
ブラホート 60b
朝起きたときの手洗い
「Al Netilat Yadayim」の文脈
ブラホート 51a–b
食事に関する手洗い(特に食後の "Mayim Acharonim")
2. フリギン(Chullin / Hullin)
食物の清浄と汚れ(tumah / taharah)
パンを食べる前の手洗いの根拠の議論(ラビ的解釈)
フリギン 105a–b
パンを食べる前のネティラット・ヤダイム
水の量や方法に関する議論
食後の手洗い(Mayim Acharonim)
3. エルーヴィン(Eruvin)
ラビの厳格遵守(ヒュムラー)の文脈での手洗い
巡回中の手洗い
エルーヴィン 21b
ネティラット・ヤダイムの重要性
ラッバン・ヨハナン・ベン・ザッカイが「手洗いを軽んじる者の運命」について言及する有名な箇所
4. シャバット(Shabbat)
* シャバットにおける手洗いの方法
代表的な箇所:シャバット 108b、109a
* 手洗いの技術的詳細や禁止事項との関係
5. ユダヤ法(Mishnah Yadayim)
タルムードのミシュナー部分で、手の清浄に関する基本的法律。
ミシュナー・ヤダイム(Mishnah Yadayim)
手の汚れ(tum'at yadayim) 手を洗う量や器の規定
後世のネティラット・ヤダイムの基礎になった内容
※ゲマラがないためミシュナーのみ。
ネティラット・ヤダイムの主要な根拠
Berakhot 60b― 朝の手洗い
Chullin 105a–b― パンを食べる前の手洗い
Eruvin 21b*― 手洗いの重要性の強調
Mishnah Yadayim ― 手の清浄に関する法の基礎
・メシェクがモスクワという蒙昧
メシェクとトバルは奴隷や銅をティルスに輸出する者としてEzk27:13に記されているが、この特徴を示すのはアナトリア東南部であり、銅の産出はアブラハムの時代、フリュギア人の定住前から幾つもの箇所に痕跡を残しているが、モスクワを中心とする地方は荒涼としており定住者も居つかない状態にあった。(モスクワ大公国領域)ロシア東部で古代に銅を産出した可能性が幾らか残るのは、ウラル山脈方面になる。
一方でアナトリアは、ヒッタイト時代から奴隷に関する法整備が見られ、価格、逃亡奴隷の扱いなどが定められ、アッシリア商人が交易していた記録が残っている。
この件だけでも、メシェクとモスクワを発音の類似だけで結びつけるのは軽率である。
・不法
2Th2:7
τὸ γὰρ μυστήριον ἤδη ἐνεργεῖται τῆς ἀνομίας· μόνον ὁ κατέχων ἄρτι ἕως ἐκ μέσου γένηται.
Mt7:23
οἱ ἐργαζόμενοι τὴν ἀνομίαν
Mt13:41
τοὺς ποιοῦντας τὴν ἀνομίαν
Mt24:13
διὰ τὸ πληθυνθῆναι τὴν ἀνομίαν ψυγήσεται ἡ ἀγάπη τῶν πολλῶν.
全体的に見るとアノミアスは格別な意味は持たないが、パウロの一言とイエスの用例には特別な意味を感じさせる
・アモス書のモアブに関する神名
サクト ⇒ バビロニアのSukkto?
カイワン ⇒ レファン
どちらも、星の神
・現ユダヤ民族の自意識の強さは、民とイスラエル国家の存続のために必要であると認識され、また実際にそのようなのであろう。
その強烈さにスピノザの「人は一人の人を生み出すのであり、民族を生み出さない」の言葉を出させた根源を見る思いかする。
これはただ人と国家の関係を解析した結果としての見解だけでなく、ユダヤ人から度々その思想を問われ続けたことへの反動があるに違いない。
これは後のキリスト教に於ける「牧師の息子たち」の反動に通じるものがある。
どちらも強いバイアスが掛かってしまい、一方の端に寄っている。
人は置かれた精神環境によって、意識が薄い中で偏りが生じるものであり、これには注意を要する。しかし、偏った者同士で意気投合するところがあり、これが偏った精神集団を作らせる。つまりは反抗心の集合である。そうして人は『曲がった道』に入り易い。
・『神々の神』は「異教の諸神の神」という意味にはならない。(Ps136:2)
またPs97:7なども終末の究極的偶像崇拝に言及しているとするなら、ますますそう言える。Ps82はまったく異教の神を意味していない。これはエイレナイオスも指摘している。⇒ 「エイレナイオスの見解 memo - Notae ad Quartodecimani」
また『神の子ら』[ベネーエーリーム]もエーリームとplであるところから徒の天使だけを意味するとは言い切れない。
・巨大な悪影響を与える要素
政治、経済、思想
・カトリック教令から五年後
ブリギドゥスの戦い
。黙示録が二十四人の「長老」として[πρεσβύτερος]としなかったのは
族長という直截的な語彙がヘブライ語に無いこと、また、十二部族との十二使徒とも混乱を避ける必要があったという側面もある。
「族長」という明確な概念はギリシア語のものであって、第二神殿以降に醸造されている。
・[מַרְעִישׁ֙] (mar·‘îš) 「揺さ振る」
[מושמד] (mushmad) 「破壊・滅び」
[כל כנו מושמד] (kol kno mushmad) "All of us were destroyed."
「我ら(世)の*根本が滅ぼされる」
*或いは「カナンは滅ぼし尽くされる」の音かもしれない
[אֲנָשִׁים] (anashaim) 「人々・民」、[ציוני] 最後のヨッドでシオニストの意
これは近代になってからの言葉であるとのこと
・キリスト教の弁証法的反転
counter-theological transformation
神学に対抗しつつ、その構造を引き継ぐ
キリスト教的絶対性(テーゼ)が、その内部論理から無神論・唯物論(アンチテーゼ)を生む
欧米キリスト教界は弁証法的経過を辿ったか?
弁証法(dialectic)
ある思想(テーゼ)が、その内的矛盾や圧力によって
→ 反対思想(アンチテーゼ)を生む
その後統合(ジンテーゼ)へ進む
歴史はジンテーゼに進んでいないように見える。
理由はキリスト教側に然したる伸展がなく、16世紀で止まって来たことによる
ルターの聖書主義が生み出したのはプロレタリア独裁という野蛮な怪物であった
”dialectical inversion” (a dialectical inversion of Christianity)
”dialektische Verkehrung” oder ”Umstülpung”
und "dialektische Verkehrung" (In Hegelschen Begriffen)
・ルターの聖書主義の弊害
釈義の正当化が無数の排他的分派を発生させた
二王国論は根本から矛盾を抱えていた
キリストが弟子ら(聖徒)について『世から選び出したので、世は憎む』の句への解決ができない。これは彼がヴァルトブルク城に匿われたところで決定的になったといえる。
アウグスティヌスがキリスト教を国教化したローマ帝国に未練を残したために、二つの国に信徒が囚われることを許した。原因は世俗との関係性の見誤ったところにある。
また、『聖霊』の認識が失われていた時期でもあり、アンブロジウスの世俗キリスト教を踏襲するほか無かったとも言える。
「神は人間が営む地上の歴史・国々の興亡をすべて支配しておられ、国々の支配者も神の御心に従って立てられ倒される、と聖書は教えている」という考えは『この世』が悪魔の支配にあり、『万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない』の句への反証を与えない。Heb2:8
キリスト、また聖徒らの千年王国の支配の理解なく、ただキリストを支配者に奉ることが宗教上の正義であるとの認識は、本来は聖書理解だけでも避けられたはずであり、王国を二分したり、左右に分ける考えは、アウグスティヌス以降、歴代教皇もルターやカルヴァンをはじめとする宗教改革者ら、果ては今日に至るまでに現れたほとんどの宗教指導者らが陥った蒙昧に他ならない。
アウグスティヌスがルターと異なるのは、前者が境界という精神的な国が世俗国家を導くという教会優位のカトリック的土台を据えたヴィジョンに対し、ルターは双方を愛の方向付けにより別のものとしたところにはある。しかし、宗派が暴動を起こしたときに権力の介入を許したところで、それは矛盾することになっている。この例は、永く高圧的なカトリック支配を脱するに、庶民の非暴力的認識を導くことが非常に困難であったことも明らかにしている。
加えて、ルターの苛烈な反ユダヤ運動はまったく権力の発動であり、後のナチズムに根拠を与えることになった。これは明らかな汚点である。
カルヴァンは教会優位の点でアウグスティヌス的であるが、それを可能ならしめたのは一都市ジェネヴァという狭い範囲で神権政治を行えたところにある。だが、その自由さの制限ではアウグスティヌス的というよりはイスラムのウンマに近いものがあり、専制的であるところはプロレタリア独裁を根拠に圧制を敷く政治手法に近似している。
・チュービンゲンに対する強力な反証の提示者
・カイロ・ゲニザ研究の重要人物
・幼児供犠
・プンクタ エクストラオルディナーリア
ギンスInt,320,321ページは,特殊符号についてこう述べています。「それゆえ,次のことが分かるであろう。すなわち,これらの符号は,偽筆の文字や語として疑わしいことを示すしるしであると古代の権威者たちからみなされていたのであり,すべての疑問と難問を解くとされている預言者エリアス[エリヤ]が出現するときにその手に決定をゆだねられることになっている。偽筆と思える語に小点を付すことは当時に限られたものではない。ヘブライ語写本の研究者が目にするように,後代の書士たちも古代のソフェリムの例に倣っている」。
全15箇所: 創 16:5; 18:9; 19:33; 33:4; 37:12; 民 3:39; 9:10; 21:30; 29:15; 申 29:29; サ二 19:19; 詩 27:13; イザ 44:9; エゼ 41:20; 46:22