Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

同名異質

同じ行動を起こしていても、人の動機はまちまちであることは多い。

自分が幾らかの近親感をもって眺めていたものが、随分違うということがはっきり見えてきた。

彼らの動機は「自分」であったのだ。
もちろん、わたしが自分をどうでもよいと思っているわけではないが、事が神ともなれば、自分がどうこうよりも、倫理的関係のすべてが気になる。
つまり、社会や世界の在り様である。

その中で、うまく立ち回って自分が得をし、佳い経験ができればそれで良いとは思えないのである。

また特別な体験をしたからと、自分と神の関係が強まったとも然程は思わない。しかし、実にわたしの不思議な経験は少なくは無い方だろう。

この点で言えば、自分がたとえ楽園や極楽往生のような恵みに入ったとしてでも、自分の内奥は何かの不足を告げるだろう。

これは、自分を気取るつもりで言ってはいない。

自分を神が見守っていてくれて助けてくれる、というのはけっして悪いものではないだろう。しかし、そこに陥穽もある。
また、儀礼や音楽のようにキリスト教の本質でない部分を愛する人々も非常に多いようだ。

だが、果たしてそれだけで良いのだろうか?
いや、むしろ、それがもたらす価値に自分は一抹の虚しさがよぎる。

そして、わたしの見る限り、聖書は思うところと超えて遥かに優れた価値を示していた。その前に自愛など何の意味を持つだろう。

だが、そうなると、同じキリスト教を唱える大半と動機を異にするのではないだろうか?どうやら、正反対らしいのだ。
それは宗派が何んのということではなく、個人の問題なのだが、逆に言うと教理の違いにも関わらず、ほとんどのキリスト教徒が動機においてそうらしいのだ。

自分のためのキリスト教であるなら、わたしの価値観は幾らも満たされないだろう。まして、自分の眼前に驚くべき価値を見出しているいま、彼らと反対の方向に踏み出さざるを得ないと思えるのである。


既存のキリスト教に決定的に欠けているとわたしが思えてならないものは、神の観点である。

それは、わたしが自分自身を一度捨て去るような精神状態に置いたことからくるのかも知れないが、神はわたしの髪の毛の本数まで知っているとしても、やはり自分は神の前にある意味「微小な存在」であると思えるが、わたしはそれでよい。

「それゆえにこそ云々」というセンチメンタルな理由付けもできよう。
しかし、一方の神の観点を求める見方には、驚嘆するほどの価値観の宝の山があり、当然ながら、自分のことを捨て置いてもわたしはその宝に目が行くのである。

その宝とは神の深慮であり、すべてが上からの一方通行ではない。況や下からの賃上げ要求のようなものでもない。

しかし驚くべきことに、多くの人々はそれに注意を払わず、却って嫌悪感をさえ示す。それはキリスト教徒を自認する人々だが、これはいったいどうしたことか?ある信徒はわたしにこう言ったものである。「祝福がなければやってられない」。


わたしは、自分がたいした者でないことをよく知っている。
だが、自分が抱え込んだ物がどれほど重いものかも知っている。
つまり、自分以外にそれを評価しようとする人が居ないために「それ」はますます重さを増し続けているのである。

そして、大半の人々は自分のための神を愛する、ということが分かった。
最終的に求めるものは自己の救いであり、それが無いなら元から関心を持ったのだろうか?

だが、神の観点はどうなのだろう。
常に恩恵を施す側に祭り上げられた「神」は、全知全能の中に塗り込められ、まるで人格を塗り消されたかのようだ。

この観点を避けようとする人々には、一種特有の霞のようなものがかかっているように感じられる。つまり視界を阻み、麻薬の煙のように朦朧とさせ、何か甘いものに耽溺するかのような霞である。

直感する言葉は「中毒」である。これを妨げようとするものは傷を負わされるだろう。

わたしは、誇張して書いていない。
思うままに述べるとこうなるのだ。

だが、こうして批難することで関わっているだけでも、その影響の下に入ってしまうようにも感じる。

自分にできること、それは向けられた敵意の相手をせず、ただ持っているモノについて語り続け、とりあえず自分の重荷を下ろそうとすることだけのようだ。

「重荷」という意味は、自分の矮小さに対して持ったものが重過ぎるのである。
わたしなんぞより徳があり、より相応しい方が居れば、さっさとお任せしたい。




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