Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

全体が明晰に解説されながら、特に曖昧にされている部分

これは根幹を成す問題となりそうなので特に記しておきたい。

ことわっておきたいが、わたしは該当する宗教組織に敵意を抱いてこれを書くものではない。わたし自身も間違いを免れないが、自分の見えるところを記したい。


さて、それはマタイ10:17-20の句
エスが告げた言葉。つまり、弟子に為政者の前に引き出されるが、そのとき与えられる言葉を語れ、との指示。
理由は聖霊が弟子らの口を通して語らせるというもの。

これは、かつて行われたことだろうか?
もう、すでに終わったことなのだろうか?

もしそうなら、同じ内容がマルコ13章とルカ21章という終末預言の中で語られるのは何故か?

聖書に精通し、極めて効果的に一般人に正確な知識を伝達する宗派組織が、この点についてだけ沈黙あるいは曖昧にするべき理由があるのだろうか?



描かれたような事態が到来するときに聖霊がはっきりと現われる。
たとえれば、マルコ13:9-10では、聖霊によって語ることが、為政者への証しのためであり、[カイ]「そのようにして」あらゆる国民の中でよいたよりが伝えられられねば(布告されねば)ならない。

これは極めて重大なことではないだろうか?

そのときには、まず聖霊を注がれた弟子の状態というのは極めて明瞭であって誰の目にも明らかであろう。
それは為政者と諸国民にもあらゆる人々に明らかでなければ、布告の意味を成さないのではないだろうか?

それは、為政者たち、また諸国民からの激しい憎しみを買う宣告となる。
黙示録でふたりの証人が四十二ヶ月の活動の後に殺されるというのも、これを理由とするであろう。彼らは命に代えても宣明の業をし遂げるのであり、その多くは殉教するようだ。

そうなると、聖霊を注がれた弟子あるいは「油注がれたクリスチャン」と言い換えてもよいが、世界に対して布告するからには、相当に重要な、世界に対して驚くほど際立った役割があると読める。



これほどの事柄を、はっきりと述べないのは何故か?
それこそ、パルーシアを印付ける最も顕著で奇跡的なサインとはならないのだろうか?

様々な見解を詳細に周知させ、多くの出版物を刊行しながら、この点に関する記述がほとんどなく、しかも既に終わった事として僅かに触れるだけなのは、あたかも、この部分を敢えて避けているかのように見られても仕方ないのではないか。

それが、もし意図的であるとするなら、以前からの教理の修正の難しさと、改変による信徒らの反発、そして一度拡大した宗教組織が最も恐れるであろう、人数の急速な減少を避けるための政治的判断であろう。

その蓋然性は小さくないように思えるのだが。



しかし、聖霊が無い以上、人間は修正に次ぐ修正は避けられないし、聖霊を持った初代の弟子たちでも、有る程度の思い込みのあったことが聖書に見える。しかし、聖霊が教理上の間違いを教えるとは到底信じられないことではないか。

それであれば、このようなところで宗教法人としての資質が試されているだろう。この組織は真に神と人に誠意を示せるだろうか?

急がなければ、聖霊の語りがパルーシアの印であり、際立った宣明の業であることに進歩的信徒たちが気付いてしまうだろう。

現在の外部からの情報を遮断する方法には限界があり、それは独裁国家が現に失敗しつつある通りであろう。また、時間を奪って自由な研究をさせない方法もいつまで効果を期待できるのだろうか?

信徒の誰かが、自分で聖書を再検討するということは、まったく留めることは難しいだろうし、逆にそれが本来あるべきことではないだろうか。
それらを背教者にして切り捨ててゆくだけなら、貴重な人材を失うばかりではないのだろうか。(そして後には何が残るのだろう)



これまでの、油注がれるべき人々が居るのかどうかという問題はさておいても、真に聖霊が注がれる状態について、現在まだそのような段階にないことは認めなくてはならず、そうしなければ実際と教理の乖離はこの点だけでも(他にもあるが)防ぎようが無い。

例えれば、体制存続の期間の予想を越えた長さ(キリストは、弟子らは時を知らないと繰り返した)と、14万4千という実数に対する超過の危機がある。(最終的に「招かれる者は多くも、選らばれる者は少ない」と言逃れるのだろうか?これは上塗りとなってしまわないか)

だが、これらを宗派存立の基礎に据えてきたので、相当の覚悟と信徒らへの周到な根回しなくして、数の減少は避けられないのかもしれない。だが、真正さへの犠牲を払うことを避けてよいだろうか。

旧態依然と、信徒が他に行くべきところ(派)が他に有ろうはずも無いと高を括っていれば、果たして民衆の賢さを痛感することにならないだろうか?

また、信徒らがこの場所が救いの経路と信じて疑わないのなら、その責は誰が、また、どのようにとるおつもりか。肉なる人が、聖霊無くして神やキリストに責を負わせるには相当な無理が見えてはいないだろうか。



聖霊に導かれた」と主張することは簡単なことであり、わたしでもそう言ってしばらくは延命しそうではある。
しかし、「聖霊を持っている」また「聖霊を注がれた」と述べた人が聖書と照らし合わされるなら、イエスが「父の業は信じよ」と言ったような立場にあることを唱えていることが明らかで、恐ろしいばかりの地位に立っていることにはならないだろうか。

聖霊が注がれている」と唱える人が、その業を持たないときに、誰が「神の業」を見て信ずることができようか。そこで信を置かなければ聖霊に対する冒涜や罪が生じるのだろうか。

犠牲を出さぬ良い方法はひとつだけ、「聖霊は自分たちになく、経路にはない」と言うことであろう。


やはりこの組織は、「聖霊」において最大の問題点があったようだ。しかも、それはひとつ間違えばそれを冒涜しかねない非常に重大なものであったのだ。

 -イザヤ2:22-

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