Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

グノーシスに関するメモ

エイレナイオスによる異端反駁によって後世に知らされるばかりであったキリスト教上のグノーシスは、シモンを創唱者としており、それはヒュッポリトスらにも記述がある。
しかし、近年にしられるところでのグノーシスは、広範なヘレニズム的宗教思想を指しており、その流行の一端がキリスト教と出会ったところでキリスト教グノーシスが派生したと考えられている。

19世紀の神学者アードルフ・フォン・ハルナックの有名な定式によると,グノーシス主義は「キリスト教の過激なギリシヤ化」であった.直接のグノーシス文献が少なく,教父たちの証言という2次資料に頼らざるを得なかったこと,その教父たちもユスティノス以前はグノーシス主義に対して口を閉していることから,長い間,グノーシス主義キリスト教の異端として発生したと信じられてきた.

トマス福音書はQ資料か.新約外典トマス福音書の存在は,ヒッポリュトス(3世紀)やオーリゲネース(同世紀)の証言により,古くから知られていたが実物が発見されていなかった.そこで1945年に発見されたナグ・ハマディ文書の中に,「トマス福音書」と後書きされた文書が発見された時には,センセーションを巻き起した.トマス福音書は,福音書と名付けられてはいるが,イエスの生涯の記録ではなく,イエスの語録である.そしてこの語録の中には,福音書中のイエスのことばと共通したものが多く含まれている.このことから,この福音書が正典中の福音書の資料,特にマタイとルカの共通資料であったQではないかと論じられてきた.果して,古代教父によって異端として退けられ,内容もグノーシス主義的であるトマス福音書が,マタイとルカによって用いられたのであろうか.コプト語トマス福音書が3世紀初めに存在したのは確かであるので,その原本は新約聖典より古いとする学者もいる.しかし両者の内容を比較してみると,トマス福音書には,正典においては重要なモチーフである「人の子=メシヤの到来」の表現がなく,黙示表現もまれである.従って,この福音書が初代教会のイエスの言葉伝承と何らかの形でつながっていた可能性は否定できないが,直接マタイ,ルカによって用いられた可能性は低い

しかしその後の考古学的研究,特にナグ・ハマディ文書の発見により,2世紀にグノーシス文書が存在していたことが確実視されるようになった.2世紀に文書が存在していたとすれば,そのような思想が一夜にして成立しないことは明らかであり,当時の時代状況を考えれば,ある思想が文書化されるまでに数十年を要すると考えられることから,年代史的にはグノーシス主義が,キリスト教の発生とほとんど同じくらいまでさかのぼる可能性が示されたわけである.文書の内容から判断しても,非キリスト教グノーシス文書の存在は,グノーシス主義キリスト教とは別に成立,存在したことを物語っている.ナグ・ハマディ文書には非キリスト教グノーシス文書と同時に,キリスト教グノーシス文書,そしてキリスト教化しつつあるグノーシス文書が含まれているが,これはグノーシス主義キリスト教に出会って変化したことを意味する.しかしながら,これらの内的証拠も,グノーシス主義キリスト教に先立って成立したかについては沈黙する

(1) 二元論.グノーシス主義の第1の特徴は,そのラディカルな二元論であり,これがすべての思想の根幹となっている.世界観では,これが至高者と世界(コスモス)の断絶として現れる.至高者は世界を創造もしないし,支配もしない.至高者は光の領域に,世界はこれから遠く離れた闇の領域に属している.世界は下位の支配者たち(アルコーン)によって創造され,統治される広大な牢獄のようなもので,その最も奥にある地で人間は生活している.世界の創造が一人の支配者に帰される場合,それはデミウルゴスと呼ばれる.二元論は人間観にも及んでいる.人間は肉体・魂・霊から構成されるが,そのうち霊のみが本来的自己(原人)であり,至高者に由来している.世界の諸権力は,これに倣って人間の肉体をつくり,それに魂を吹き込んだ.しかしそれは世界に対応している非本来的自己であり,至高者と等置される霊(プニューマ.閃光とも呼ばれる)は,肉体と魂の中に閉じ込められている.救済されていない状態の人間は,自らを自覚せず,無知で眠った状態にある.<復> (2) 救済の手段としての知識.グノーシス主義の二元論では,人間が鍛練や修行によって自己の救いに到達することは不可能である.グノーシス主義の救いは,非本来的自己を世界(肉体と魂)から解放して,光の領域に戻すことである.このために人間は本来の自己を知らなければならない.それは同時に本来的自己と等置される至高者を知ることである.これが救いに至らせるグノーシス(知識)である.しかし人間は自らこの知識に到達することはできない.そこで自己と至高者についての啓示者または救済者が要請される.それは光の世界からの使者である.キリスト教グノーシス主義では,この使者がイエス・キリストであると考えられる.この世の支配者たちは,あらゆる手段を尽してこの啓示者の侵入を妨げようとする.しかし彼はそれらの障害を乗り越えてこの世界に侵入し,人間に知識を与えて霊を覚醒させる.この知識が世界と人間について説き明かすグノーシス主義の福音であるが,それは同時に肉体と魂から解放されて世界から脱出し,神のもとに帰る道を示している.地上でこの知識を持った人は,霊的人間(プニューマティコイ)となり,その人の霊は死後,上方に昇っていき,一切の地上的付着物を脱ぎ捨てて,ついには至高者の実質と一つになる

《じっくり解説》グノーシス主義とは? | Word of Life ワードオブライフ


グノーシス主義の歴史的研究においては、グノーシス主義各教派の残した史料が少なかったことから、グノーシスを異端として退ける立場にあった初期キリスト教正統派の立場の資料(エイレナイオスの「異端反駁」等)に頼る部分がほとんどであったが、1945年にエジプトで発見された「ナグ・ハマディ文書」等、グノーシス教派側からの史料が発見されたことにより、20世紀後半に入って資料研究が進んだ。また、従来の立場からはグノーシス主義キリスト教およびヘレニズム宗教・哲学の習合宗教(シンクレティズム)と見なす傾向が強かったが、ナグ・ハマディ文書の発見以降、独自の宗教思想としてグノーシス主義を研究する動きが強まった。

1966年にはイタリアのメッシーナで「グノーシス主義起源に関する国際会議」が開かれ、グノーシス主義神話の特徴に関する定義として

反宇宙的二元論
人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在
が提案された。その中でも主要なものが「反宇宙的二元論」の概念である。その他の要素については、各教派でとらえ方が異なる場合があり、「グノーシス主義」にくくられるあらゆる思想・神話が1~3の要素を満たすわけではない。

グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この世界が「悪の世界」であるが故と考えた。現実を迷妄や希望的観測等を排して率直に世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の世界」などではなく「悪の世界」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の特徴の一つである。

世界が本来的に悪であるなら、他の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、間違いであるとグノーシス主義では考えた。つまり、この世界が悪であるならば、善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因なので、実は悪の神、「偽の神」である。そのため、彼らは悪の世界(=現実)は「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。なら、「霊」あるいは「イデア」こそは真の存在であり世界であると考えた。ここから善悪と物質、精神の二元論が成り立った。

ニコニコ大百科

グノーシスギリシア語の「知識」「認識」)によって救済を得ると信じる、既存諸宗教(とくにキリスト教)の分派。グノーシス(主義)は人間個人の本来的自己の認識を救済とみなしたために、救済機関としての教団組織への帰属を救済の条件としなかった。またこれは、多くの場合、既存の諸宗教の内部におこり、それらの宗教のテキストを自己に固有な反宇宙的二元論の立場から解釈し直して、グノーシス神話をつくりだした。そのためにグノーシスは、既存の諸宗教に寄生しつつ、それらのなかで多くの分派を形成することになる。
 グノーシス派は元来、「グノーシス」を偽称したために、教父たちによって正統教会から排除されたキリスト教異端の総称である。教父たちによればグノーシス派は、同派の「父祖」といわれるシモンとその派をはじめとして、ウァレンティノス派、バシリデス派、ナハシュ派、オフィス派(「ナハシュ」はヘブライ語で、「オフィス」はギリシア語で、それぞれヘビの意)、パルベロ派、セツ派などの分派に分かれた。しかしセツ派などは、おそらく元来キリスト教とは無関係に、ユダヤ教の周辺で成立したものと想定される。このような非キリスト教グノーシス派の存在は、ヘルメス文書、とりわけナグ・ハマディ文書によって確認されつつある。<<[荒井 献]


神への観方
(1) グノーシス主義の至高者は,天上にあって超越しており,悪と悩みに満ちた世界の創造者ではあり得ない.これに対し,キリスト教の神は世界を創造し,支配する人格神であり,グノーシス主義の抽象的,神秘主義的神観とは,全く本質を異にする
(2) この至高者に対する見方は,当然旧約聖書の神観と相いれない.事実多くのキリスト教グノーシス主義は,旧約聖書の正典性を否定しており,旧約聖書新約聖書の連続性を認めない
(3) 同様にグノーシス主義において,至高者のもとから来たキリストが受肉することはあり得ない.肉体はこの世の支配者たちの産物だからである.またこの世界を超越している光の使者が,この世から十字架の辱めを受けることも受け入れられない.グノーシス主義においては,受肉の段階においてか,受難の段階においてか,キリスト論は仮現論にならざるを得ない.
(4) グノーシス主義の救済者は,人間の霊を覚醒させ,救いに至る知識を与える役割を担っている.そこでは十字架の苦難は,何ら救済的意味を持たない.復活による勝利もなく,使者は役割を果した後,天に帰る(5) グノーシス主義には,身体の復活,最後の審判,キリストの来臨,新天新地の出現などの終末論が存在しない.救われた人間の霊が次第に上昇して至高者の領域に入り,至高者と本質を同じくすることが,グノーシス主義の救いである.<復> これらの問題点をまとめると,グノーシス主義には歴史の概念がないことが最大の問題点であろう.聖書の神は世界を創造し,歴史に介入して,これを支配される神である.また世の初めからおられたキリストは,時至って人間のただ中に,人間と同じ姿で来られ,身代りの贖いを完成された方である.このキリストは世の終りに再び来臨され,審判の席に着かれる.その時,キリストにある者は栄光の体でよみがえらされ,新天新地を生きる.このような歴史を貫く神のわざ,そのリアリティーが欠落している点が,神の救いをむなしくするグノーシス主義の危険性である