Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

絶対倫理による心の傷

「宗教とはそう云うものだ」と言われればそうなのかも知れない。
また、コミュニティを保つのに一定の規則は必要でもあろう。

だが、心に癒しがたい傷を受けている人々が存在している。

そこには、単なる規則を越えて「神の前に於ける罪」を関係させるという問題がある。


筆者は、それをキリスト教団体に見てきたが、それは人間が完全な正義を持ち得ないにも関わらず、絶対の正義を振り回す宗教教理とそれを存在させた人間による精神的圧制である。

殊に、その宗教以外の世界を「悪」と断罪してしまっている宗教の場合、組織から外に出たり、出されたりした場合に、その被害や傷の痛みは深刻で、精神を病むばかりか、自死を招きかねない。

それは、誠実であるほどに自分を責め、その鋭敏な良心は間断なく自己を断罪し続けるのである。

これが社会一般の場で起こったことであれば、社会が許さないだろう。
しかし、信仰するものは自発的にその団体に飛び込んだのであるから、そこでの問題は本人の望んだこととされかねないのである。
これは個人の尊厳の空白地帯での人権の蹂躙とも言うべきだろう。

絶対的倫理を唱える宗教には、ふたつの存立原因がある。
第一は、信者が自分の最大利益である「救い」を確実に得たい願望があり
第二には、宗教家が信者を確保し、支配し現世的利益を得る欲望がある

これらふたつは互いに支え合って宗教団体を堅固なものに構築してゆくのを我々は平素目撃しているのであり
絶対倫理を唱えて自派の唯一正統を自称する宗派は、一定少数ながら教理をよく把握し、信仰行動にも伝道にも熱心である強固な信者を持つものである。
それが外部からは極端に見えるところがあるので、指導層からの支配を受けていることが容易に観察されると共に「カルト」の名を以って呼ばれることになる。


では、このような組織外に出てきた人々と内部に残っている人々はどれほど異なるのだろうか?同じく倫理上に欠陥を持った人間ということにおいて変わるところはない。
しかし、内部の一般信徒からすれば、倫理状況は大いに異なるように見えるらしい。そこには、その教団に居る模範者が救われるという概念が支配していよう。
即ち、道徳性が救いの代価なのであり、これは古代にパリサイ人が落ち込み、他の多くの宗教組織もはまった陥穽である。(ルカ18:9-14)

例えれば、淫行、姦淫、同性愛、盗み、貪欲、泥酔、中傷、強奪が「王国を受け継がない」という句に抵触してしまった人が出るとき、それはもちろん喜ぶべきことではない。だが、「王国を受け継がない」の句をそのまま適用してよいものか。文脈を見ているなら、これが明らかに聖徒に適用されるものであることが分かるだろう。(コリント第一6章)

しかも、聖徒たちへの対処法ですらマタイ18章によって個人的に忌避する方法や、ヨハネ第一5章やヤコブ5章などの慈愛ある方法がある。
本人が実情を自覚しているなら、断罪し忌避するよりは「健康な者ではなく病人」のための医師として働けないものだろうか?
忌避を受けた人の多くは、世俗の見地からすれば多くのケースは刑事事件にも至らない事柄であり、教団内部の倫理基準は高いというよりは偏向しており、とてもキリストが示した精神とは異質に見える。
まさに、キリスト教の場合、彼らが信奉してやまない聖書の基準からしても、それは偏向しているのではないだろうか?


例を挙げれば、「医者を必要とするのは病人である」という精神に対して、信徒を監視し、警官として振る舞い、逮捕者を裁判にかけるという図式が果たして「医者」のすることだろうか?
しかも、この「警官」は監視することが神の義に適うと信じ、悪行の摘発にはひときわ熱心であり、集団を清く保つということに注意を集中するときには自らに「正義」を強く感じているようである。
しかし、それは律法的奴隷状態ではないだろうか。
そこでは「キリストに従う者」らしい寛容も慈愛も示されず、このようなキリスト教徒の姿を新約中に見出すことはできない。


もし、信徒が実際に何らかの不行跡を行ってしまったとする。
その人を「罪人」と見て裁くのは律法からの見方、また奴隷身分のものではないのか。

新約の教えに見る場合、その人は「病人」であり世話が為されるべきものとなるだろう。それも警官や週刊誌の記者のように人の粗を探り出そうとするよりも、よほどすべきことはないのだろうか。
本人の告白や自然な周知に任せればよいのではないか。本人に罪悪感があるなら、それはその人と神の間の問題であって、同じ罪ある人間が割って入ることは滑稽なだけでなく、それこそ「貸したものを全部返せ」という罪ではないのか。


まして、道徳上に問題を起こさず、教団の信条の一部を肯じることができなかった人々への断罪は、逆にその組織の指導部がキリストの座を占め、どんな弁解をしようと、実質的に無謬を宣するに等しいことであろう。
かつてローマ教皇公会議の決定を根拠に、しばしばこの権威を発動し、俗権を動かして弾圧を行った昔の轍を踏んでいるのである。

その一方で、エルサレム会議の寛容さを見よ!⇒http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51747829.html
そこで、ふたつの群れが如何に並存できたかを知るときに何が見えてくるのか?

例えれば、「神は世を愛して、彼を信じる人が一人も滅ぼされることなく、永遠の命を得られるよう、その一人子を与えた」とある有名なヨハネ3:16の神の意志はどうであろう。

神が世(コスモス)を愛しひとり子を与えたのは、人類の全体に罪があるからではないだろうか?

もし、その愛が特定の団体に独占されているのでないなら、どうして裁いてしまえるのか?

あるいは、「悔い改めれば復帰できる」というかも知れないが、この神の愛の独占に関する問いに答えてはいない。

一度信仰を得た者が組織を自ら離れるのは「聖霊に対する罪」で許されることはない、と言うだろうか?

では今日だれが聖霊を受けた印たる賜物を有しているのだろうか?
そして、それを裁ける立場にだれが立っているというのだろう?

組織の外に出たり、出されたりすることが「霊的死」であるというのなら、その組織は、神のあるいはキリストの畏怖すべき裁きを前倒ししており、まさにその裁きの座にいるのではないだろうか?

それは神やキリストの代理を務めてしまっているのではないか。
では、実際にキリストが裁きに来られるとき、その裁きを前倒ししてきた代理者の処遇はどうなるのであろう。キリストが誉めるだろうか。

それとも、自分たちは神やキリストの経路だとでも言うのだろうか。
もし、そうなら「義の証し」たる聖霊の灌ぎを見せることができるのだろうか。(ローマ8:1)

また、キリストが臨在するときに、そこには二重の仲介者がおり「目に見えないキリストは頼るに足らず」と唱えることになりはしないだろうか。

そのような教団の「裁きの前倒し」は、「教団に入るものが実質救われる」という教えを通して行われているのではないだろうか。
それはローマ法王が中世期に振舞ったように、自分たちに「絶対倫理」が存在するというのに等しく、歴史から教訓を得たとも言いがたい繰り返しに陥っていないか。
そして、これこそが多くの人々を傷つけ誹謗し断罪してきた元凶ではないか。



しかし、罪があり朽ち行く肉なる人間が絶対的倫理を持ちうるとしたら、是非とも神からの啓示を、つまり聖霊を持っているべきではないだろうか?

それは初代キリスト教徒がそうであったように、誰からも明瞭に見分けられ、且つ世界に向けて宣言するべきものであろう。(マルコ13:10)
しかし、彼ら「真の聖徒」とて信徒を断罪しはしないだろう。

こうした、明確な神の力を伴う聖霊の言葉を、またキリストに従う者らしい慈愛を持たないのであれば、それこそ聖霊に対する罪とはならないのだろうか。

加えて、自分たちの下にキリストへの信仰を求めて来た誠実な人々に、自分たちが決め付けた基準で「聖霊に対する罪」と断じてしまってよい筈も無い。

知恵はその働きによって見分けられるのなら、負わされた人々の深い精神的傷は、その教団と指導者たちの横暴を神に向かって叫んでいないだろうか。



 ⇒ 「聖霊に対する罪」




害された方々へ:いまだ教団の外にあっても、辛苦を重ねて復帰を目指しているにしても、皆さんの受けた傷の癒えるまでには時間がかかるでしょう。その間は、様々な外からの働きかけに「弱い」状態にあると思われます。
観察するところ、それはどうも「利用されやすい」状態とも言えるように私には思えます。より一層の苦難を背負い込まぬようお気をつけ頂きたく思います。(具体的に言えば、「助け」と称して近付く人を誰でも信用してしまわぬこともときには必要に思えます)

オーム真理教の元信徒たちが陥ったジレンマという、これが強烈な事例であるゆえに、あるいは見るべきものがあるとも思えるのですが ⇒ http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20111223/1324619006


ヨブ記の結論 唯一の正しい宗教があるか?
http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51863598.html


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