■ 「千年」の句
ヨハネ黙示録には「千年」の句が以下のように六度現われ、それが重要な期間を意味すること示唆しているといえる。
それら将来の特別な期間を示す「千年」の句は、すべて以下のように黙示録の20章に集中している。
◆「2 初めからの蛇」であるサタン悪魔が捕らえられ千年間拘束される。
◆ サタンは「3 底知れぬ深み」に封印され、「諸国民」を惑わすことが防がれるが、「千年が終了するとしばらく開放される。
◆ イエスを証して死に至るまで忠実であった者達は「4裁きの権能が与えられ」生き返り「キリストと共に千年の間王として支配」する。
◆「5 残りの死人は千年が終わるまで復活」しない。
◆「6 第一の復活を受けるものは幸いなもの、聖なるもので」あり「神及びキリストの祭司となり、千年の間彼と共に王として支配する」。
◆「7 千年が終わるとサタンは・・・・解き放たれる」「地の四隅の諸国民ゴグとマゴクを惑わして・・・海の砂粒のように多い民を戦争のために集め、・・聖なる者たちと愛されている都市を取り囲」む。
■ 「千年」の働き
以上の句を併せて、その「千年」の期間を規定してゆくと
そこにはサタンに対する勝利があり、現在とは異なって悪魔の影響力が及ばなくなる。
忠実な者たちが復活し、直ちに裁きの権威が与えられる。
以後、キリストと共なる王の立場で千年間支配を行う。彼らは祭司でもある。
その期間の終了までには「聖徒」以外に復活はなく、千年の終了後になって悪魔は復活した多くの民を誘い聖なる者たちと、ある都市を攻撃する。
したがってその千年は、死に至るまで忠実であった「聖徒」たちとキリストによる支配の行われる期間であり、そのあいだは悪魔の影響が除かれるからには、人類社会の様相は現在とはまったく異なるものになる。
■ 支配される者
だれが支配されるのかといえば、復活の必要のない、つまりは死者でない者たちである。
この千年紀の前にサタンが捕らえられているので、その支配の開始は現在の人間社会が終わるとき、即ちキリストの予告した終末以後といえる。
同じ黙示録は7章で「9大艱難から出てくる」「大群衆」について述べており、その終末を生き残る多くの人々がいることをも教えている。それゆえ、千年王国の支配を受けるのはこの「大群衆」とみるのが自然である。
しかし、その「大群衆」と言えども終末のときの人類の大多数が生き残るとみるのには、聖書のほかの陳述からすると無理がある。
イエス自身がマタイ24章などで警告したように「ふたりがいる」と「一方はとられ、一方は捨てられる」とあり*、さらに生々しいエゼキエルの預言38章によれば、生き残った者たちには葬りきれないほどの屍が長い期間にわたって地に晒されるともある。それも黙示録にある大空の鳥たちが膨大な死肉を貪ったあとのことであるように見える。
(*2011年の現在は異議あり/2014年:上記マタイ24は、聖徒に関わるものであるので、この適用は間違っている)
■ はじめの者が後に、後の者がはじめに
同じように、終末の前までに死亡したすべての死者が復活するときにも、大多数が悪魔に誘われて聖徒たちの支配と、その中心たる「都市」に向かって反旗を翻し、その支配を受け入れようとする者は多くはあるまい。彼らは「罪の酬い」である死を受けているので、完全な選択を行うことになる。そして現在でも死者が生者の数を上回るのが当然のように、前述の「大群衆」よりも復活者の数は余程に多く「海の砂粒」のような民の勝利は確実に見える。
しかし、その結末は「第二の死」つまり未来永劫の消滅の象徴である「火の湖」への投擲となり、それは永遠の立ち上る「煙」のように神の法廷における判例として記念されるのであろう。
こうしてみると、キリストが復活について幾度か述べた言葉の意味を二重に読むことができる。
終末に生きていた「大群衆」は謂わば「最後」の者であったのに、この時期のは「はじめ」となり、彼らより先に生きた「死者」は「はじめ」であったのに「最後」になる*。
(*2012追記:これは二種類の適用ができる/2014年:どうやら上記の解釈は一方だけのようである/2015年:イエスの「最初と最後」という言葉の適用はおそらく上記のようではない/2017年:この「最初と最後」の適用はユダヤと異邦であり上記は間違っている)
■ 千年王国は誰のために働くか
それから、もうひとつ重要なことがらは「聖徒」たちが王であるだけでなく「祭司」とも呼ばれている点である。
モーセの律法によれば「祭司」はレビの支族のものでなくてはならない。また古代のダヴィデ王に神が述べたように王権の家系はユダ族の、しかもそのなかのダヴィデの子孫にのみ継承されるべきであった。そのように律法下であれば王でありながら祭司でもあることは不可能で、聖書中にその先例をみるのは「メルキゼデク」ただひとりである。
ヘブライ人への手紙は5章7節でキリストについて延べ「10 彼は、はっきり神によって、メルキゼデクの様にしたがう大祭司と呼ばれている」とキリスト自身が王と祭司を兼ねることを示唆している。聖徒たちは彼と共に同様の権威をもって、終末を生き残った「大群衆」の原罪を浄めるべく、大祭司キリストと共に従属の祭司として、千年の間その働きも為すことになる。
■ 千年王国の完了
こうして「大群衆」は死を経ずして原罪から贖われるし、千年期の間(を用いて)に地球上は充分に神の園の様相を見せていることであろう。
そして復活してくる死者たちは、復活そのものが「再創造」であり*、既に「死の酬い」を以って原罪から離れているために、彼らには「祭司」の必要がなく、無原罪ゆえに一切の権威に拘束されるいわれもないために「王」の必要もない。*(2017年:パリンゲネシアは聖徒にのみ当てはまるのであろう)
そのため千年も終了するときに「一切の権威が無に帰せしめられて」おり「キリストも自ら服し」「こうして神がだれに対してもすべてのものとなるように」なり、こうして人類はエデンのときのような「神の子」として回復され、千年王国もその働きを完了するのである。コリント第一15章24節〜
その後、神自らの裁きを通して神のオイコノミアが完成し、天と地のあらゆるものが創造物として復帰する。エフェソス1:10、フィリピ2:10-11
黙示録が現われて以来、千年王国は多様な解釈をされ、それをめぐって様々に語られてきたが、その千年の後には、創世記3章15節をはじめとするすべての預言と秘儀が終了し、人はアダムがもっていた神の子としての自由を享受することになり、聖書も千年間に(追加される部分も含めて)理解の啓示を受け、その使命を完うしていることであろう。ヨハネ8:36
キリストは宣教の主題として「神の国(王国)」を据えていたが、その価値の高さを強調する多くのたとえを語っていた。
(2015年:しかし、イエスの時点ではそれは奥義であって民にはほとんど知らされていない)
したがって、キリストに倣おうとする者が、この「王国」の意義を知らず、価値を認識また感覚しないなら、ほとんどその恭順の意思もその信仰も業も的外れなものから逃れ得ないであろうし、それならばキリスト教徒としての身分を誇るよりは、自己の良心に照らして内面を省みる努力を重ねた方が、よほど救いに近づけるように思えてならない。
(2012年:「救い」の追求については多少の違和感あり/2017年:聖徒以外の者は、まず聖徒の救いを要するので、自分の救いの以前に、まず聖徒の救いに関する裁きに於ける信仰を抱くか否かが問われることになり、それが聖徒以外の者の救いに繋がるが、聖徒再出現以前の現時点では救いを求める以前の段階にある)
なぜなら、バプテスマが人を救うわけではないからである。実際、クリスチャンと称える者たちによって多くの非道が歴史上に為されている事実は、もはや隠しようもない。
終末に彼らが「主よ!」と呼びかけるとき、その主は何と仰せになるだろうか。
(2014:この適用はクリスチャンに対するものではないところで間違っている/2015年:これは広い意味ではキリスト教徒にも適用はできるが、脱落聖徒を含んでいる可能性もある/2018年:マタイ7章であれば続く句から脱落聖徒に限って言っている)
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以上の文章は2007年頃のものであり、荒削りな部分の修正が要る。
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