Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

依頼による論述試行

論点1
間違いの無い宗教が存在するか?


「間違いの無い」とは何を意味するか?
たいていの場合「救われる」か否かが関わっている。

救うか否かは神の決定するところであるが、誰か人が「救い」を請け合うことが出来るか?



論点2
今日、聖霊が人を導くか?


聖霊に導かれる人がその事柄において間違いを犯すか?
間違えるとすれば、それは聖霊に導かれていると言えるのか?

もし、聖霊に導かれつつ教理上間違いも犯すのであれば、その程度の「導き」ならどんな宗派にでもあるのではないか?

ならば、そこには神の導きの確たる証拠はなく、人が教えているのと大差ないのではないか?

(罪ある人間がそのままで唯一正当となり得るか?)



論点3
年代上の予測は神からのものか、人のものか?
その後の予測が何度も外れてきたのはなぜか?


年代を言い当てたことにどんな価値があるのか?
神の裁きとはサバイバルのように対処できるものか?


年代の言い当ては人を高めるが、それは益ではなく害ではないのか?


ルカ21:8を避けて引用するのはなぜか?
その明解な一言をどう理解すればよいのか?




論点4
信徒が戦争に関わらないのはキリストの真の弟子である証拠か?


政治に関せず、実際の闘争に参与しないとしても、宗教上の敵意を免れているか?
信徒共通の敵(僧職者や政治家)を敢えて(憎憎しい図まで添えて)作り出し、自派の結束を図ることをしていないか?(卑劣な手段)


自派だけを正統として他を悪魔のものとするからには絶対の正義があるのか?誰にでも間違いはあるのではないか?

正当化はむしろ、自派の非を認めず、あらゆる周囲に敵意を煽り、人々を偏狭な論争に巻き込むことではないのか?

それならば、血を流さないだけであって、敵意と闘争心において世と変わるところはないのではないか?




論点5
他の宗派より道徳的に見えることは正当の証拠か?


比較による消去法で、唯一の絶対的な正当を見出すことができるのか?
唯一の正当は神以外に無いのではないか?

一般社会でも、他と比べて自分を高める行為は尊敬されないのではないか?

道徳性を誇ったところで、キリストの犠牲に対して何か意味があるか?それはむしろパリサイ的ではないのか?




論点6
宗派の繁栄は神の祝福か?


繁栄とは何か?信徒数が増えると祝福で、伸び悩むと倫理的問題が生じているのか?ならば、先進国ではどこも同じように減りつつあるのはなぜか?

人口比ならカトリック以上の繁栄なく、その組織も建造物も先進的努力も第一であろう。それも神の祝福か?


論点7
経路は何か?


神と結ばれた徴は、律法契約の「契約の箱」や新しい契約の「聖霊の賜物」というように不明瞭であったことはない。

終わりの日に多くの偽キリストが出ることを繰り返し警告されているなら、新しい契約に関わる真の「油注がれた者」たちには、第一世紀以上に明確な徴を与えられて然るべきではないか?

(コリント第一13:8は「愛」を説明する文脈であり、しかも廃される時を特定してはいないので「油注がれた者」が天に行く時を指す可能性が残る)



マタイ10:18-20には「油注がれた者」たちに聖霊が再び降ることが書かれていないだろうか?組織はこの点を沈黙していないか?

我々は真の「油注がれた者」たちを待つべきではないのか?
(マタイ24:48-51)



それでも「経路」が遮断されるわけではなく、組織から「聖霊」という人間よりも高い「経路」に置き換えればよい。
それによって不要な人の束縛を離れ、神に従う自由を実感できるだろう。<なぜ「油注がれた」という新約らしからぬ用語を使用するかといえば、「賜物」がないゆえ「聖霊を注がれた」とは言い辛く「聖なる者」と言えば「大群衆」からは実際よりも差別的に聞こえるからなのか?どちらも真に「聖霊の賜物」さえあれば解消することだろう。権威付けに伝道経験に頼るところは他に仕方ないことで、且つ律法的である。つまり、決定的に初期教徒と異ならせるものは聖霊の不在であろう。不在なら不在を認めればよいところを「在る」と言おうとして、あちこち継ぎはぎをしており「油注がれた」と言うところもそのひとつとなっている。>

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その他


情報統制的閉鎖性:

・外国語学習は奨励しながら、聖書の原語を学習することに反対してきた。果たしてどちらが重要か?

・年代予測を含む古い資料を閲覧できないようにしている。だれの都合か?

・伝道を奨励しながら、信徒がインターネット上でも部外者との接触を抑えようとする。情報の一方通行を望んでいる。それは理性判断や個人的決定権への抑制ではないか?

・これらは、独裁体制国家の施策と類似しており、上層部が恐れるものが信徒の啓蒙による急速な離反(脱北)であることを示す。



世界伝道の方法:

聖霊の働きではなく、人の働きを強調しているが、僅かな聖句だけを根拠にするものである。

一方で、聖霊の言葉が世界に知らされるという部分の無視は、あまりに意図的で明々白々のレベルに達している。

人による伝道がそのまま裁きであると教えてきたが、後にこれを訂正。信徒は「神の裁き」に関わらなくなった。
しかし、伝道行為を実質上信徒第一の責務とし続けることによって、依然としてより重要な「愛の掟」を差し置いたので、「弟子は愛により知られる」よりはよほど伝道行為で知られる。(日本のような先進国で減少)


(あちこちで聖徒に適用されるべき言葉を信徒に当てはめ、意図的に特権を分配し痛々しくご機嫌を取っているが、これは囲い込みであろう)

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説得上の注意事項

理屈で納得しても、交友関係や仕事など利害が絡むことがあり、そのためにこれまでの信仰を継続しなければならない「事情」が誰にも生じ得る。

しかし、それは宗教の本質から離れた個人の「事情」であって、これは本人が解決するより他ない。もし、論議に予想外の熱意が加わるようなら、その事情が大きいかもしれず、争論は避けるほうがよい。

何を信じるかは本人の決めるべき倫理的決定である以上、外からは踏み込むべきでない一線が存在する。(どんな宗教にも完全無欠はない)

ただ信仰者の内心で、それまでの信仰の絶対視に動揺が生じたとすれば、(たとえ相手が不承不承に見えても)この種の説得は既に成功したといえる。


次に、代わりの希望を与えないと相手は強い虚無感に襲われるので(後遺症)、自ら聖書研究を深めるように勧め、自分が得た精神的自由を生き生きと語り、「自分は正しい」と主張する単なる「人間の義」の呪縛を後にして、聖書そのものが語りかける希望的実像*について知らせるべく、幾らか(少しで充分効果あり)話しておくべき。




註:聖霊の発言を通して人類はふたつに分かれ、王国を受け入れ、聖徒を支持するか否かで裁かれる。  ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか」

したがって、組織のすべてが悪い訳ではないにせよ、人々を奉仕に駆り立て、人生でより重要な基本的生活を築く時間と機会を奪うべきではなかった。神は貧しきを支えるだろうが、困苦に追いやった原因者は誰だろう。

それらは人間の作り出した命令であり、聖書に立脚もしていない。


しかし、キリスト教をすべて投げ出す必要はなく、レベルを下げてまで教会に属すべき理由もない。頼る組織の変更は、人に従うことにおいて何ら問題を改善しない。


むしろ、神の経綸は不変であり、我々すべての贖いは既に満たされている。
できることからして行けばよい。それ以外できないのだから。

その最大の利点は、神の語るときに人間の義には一切妨げられず、自己の純粋なる良心から神に従うことができることにあろう。



主人にどれほど善意があろうと、もう人の奴隷となるのはやめようではないか?人を当てにするのは危険であるから、これからは信仰において自立しよう。何事も組織頼みであったため、自らの良心や判断力や愛が弱っているかもしれないが、聖書研究と実践を通して徐々に回復できるだろう。

たとえそれが、その人なりであっても「人任せ」にはしていないのだから。

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筆者は攻撃を加えて愉悦するに非ず。

如何なる宗派にも問題はあり。

ただ、自派を唯一正当とするならば、それは現実を離れた妄想に違いなく、これを必要に応じて説得せんがために以上を記すものである。







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