Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キリスト教の独善性に関する断章2

他の宗派を批判して自派を高めるは明らかに相対善である。

にも関わらず、自派を唯一正統と称するなら、そこで既に偽りを行っていないか?

誰もが間違いを免れないにも関わらず、これをごまかす手段は教理であって、間違った数式のようにとんでもない解に人を至らせながら、正しいというのである。

「批判」「正統」「教理」この三つにはよくよく注意するべきであろう。
通常の人付き合いで、このような人を尊敬できるだろうか?

それゆえ『その実によって見分ける』はまったく至言というほかない。

たとえれば、「愛によって見分ける」*と教えつつ、自分たちはこうした、ああしたといいつつ「他は・・」とくるのである。*(本来この意味はないが)

それが果たしてアガペー愛か?何と言う誤謬!

少々冷静になれば分かろうものを、人間関係の雰囲気や、それらしい道徳論の下手な使いまわしで人は容易に騙される。

この手の欺きにかかり、頑固に固執する人々の多さよ!
嘆かわしいかな、これがキリスト教の名を佩びるのは・・・

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一般相対性理論には六つの解があるという。

それぞれが自分だけが正しいと言えるものでない。
それを言えば、相対性理論自体が未証明であるから。

もし、宗派のひとつが自分たちの解を正当として他を排するなら、信仰とは誰もが同じ解に達することのできる単純な数式のようなものであると言うに等しい。

しかし、信じるとは個人の倫理的決定であって、誰もが同じ結論に達する数式とは訳が違う。

では、なぜ「信仰」か?それは神が人の中の自らの象りを尊重するためである。

もし、同一の解の出る単純な計算式のように信仰を考えるなら、それは精神上の圧制に他ならない。

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唯一の正当を主張することには結構な努力を不断に傾注せねばならない。
自分たちの正当性が脅かされる事態に必要な限り介入し、出来るなら反論する相手を言い負かさねばならない。

こうして、彼らは神の正当さを証すよりもよほど多くの時間や資料を何より努力を自己弁護に用いなければならなくなる。こうして彼らの専心の対象はこれによって神から分かたれ、自分たちの「教団」が彼らの弁護と賛美の向かう先の座に着くであろう。

このように正当を守り続ける不断の努力の必要があるのは、実は正当などは人間界のどこにもないからではないか?とすればこれは実に空しく意味もない努めではないか!

パウロは『あらゆる人間が偽り者であったとしても、神の真正さが知られるように』と願ったが、少なくとも彼らはこの言葉を軽視しており、あるいはその意味も悟っていないのであろう。


なぜに、彼らがこれほど教団の証しに邁進せねばならないかといえば、教団に実は人の証しを要するほど神の証しが無いからである。

神の証しとは即ち「聖霊」であるが、これを持つなら人の証しなど虚しいものである。聖霊の証しのあるところは論争の必要なく泰然としていられるが、聖霊のないところでは争いの精神が満ちる。
その訳は、自分たちが戦わなければ神ではなく教団の正当性が立ち行かないからである。

どうして、自分たちも間違えを犯す同じ人間であると真実をいえないのだろう。たとえ論駁されてもよいではないか、それはその人の敗北ではあっても神の敗北であろうはずもないのだから。

それとも、自分が神を代表しているとでもいうのだろうか?恐ろしいことよ!

宗教教義上で間違えを犯すということは、それが人間の領域のものであることを証明するものであり、唯一正統を称えるなら「ひとりよがり」の自画自賛ではないか。どうして他の人々を巻き込んでよいだろうか。

こうして、聖霊からますます離れた教団の信者たちは霊の果実を結ぶ状況からより離れて、闘争という世の傾向を深めて行かざるを得ない。

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独善的教派は、信者の得る情報を制御しなければ教団の教えの「優秀性」を確保できない。なぜなら、誰でも同じように勉強不足や思い違いは生じるからである。

しかし、信者に先に気づかれたのでは、正当の看板にキズがついてしまう。
また、教師の信者に対する優等が損なわれ、沽券に関わる。

ある程度は「新しい啓示」等と称して稀に変更することはできるだろうが、慎重にやらないと信者が騒ぎ出すという「恐るべき」ことが起きかねない。特に以前の教理を否定しなければならないような場合は、少しずつ根回しをして段階的に変更する必要があろう。
(ヨットのタッキングは風上には真直ぐ進めないことを喩えるによい)

では指導者は、これらの情報統制を行うときに、自らの不倫理を意識するだろうか?まず間違いなく意識するだろう。しなければ倫理的知覚力に問題があり、はじめから人の上に立てる器ではない。

しかし、そこでは「信徒全体の為」に偽りを進めるというような妙な責任感を持つことがシュミレートできる。

だが、これは神と信者の双方を欺き、自分自身をも欺いている。
この倫理の破綻するとき、いったいどうするつもりか??

それは「毒食わば皿まで」の心境ではないのだろうか?
或いは幹部が多い場合、責任の所在がはっきりしていないだけなのかも知れない。
共に、信者からすれば悪夢以外のなにものでもない。


















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