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教理控制 (きょうりこうせい)

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 「教理」と呼ばれるものが、神の座に就いて偶像化してしまい、不完全であるにも関わらず、信者の思考や行動を支配させるようなことを許すべきだろうか?

 この擬人的「教理」は往々にして過酷な独裁者となって、他宗派や他宗教への敵意と闘争の坩堝に人々を投げ込み、信じるところの本来から正反対の言動を命じるようなことをしてこなかったろうか。

 イエスは「知恵はその働きによって示される」という。
それならば、「教理」そのものも人間と同じく倫理性を逸した不完全なものであることを曝していないか、それを神の言葉と置き換えてよいものだろうか?

 「教理」は、その理解者に優越感を与え高慢にさせ、慢心をもたらして事の本質を探る努力を曇らせてきた。その一方で、愛や慈悲などの人間味ある豊かさを蔑視させてきたのではないだろうか?

 しかし、果たしてまったく「正しい教理」などが存在するものだろうか?
むしろ、人は押しなべて同じ倫理的不完全の中に閉じ込められてはいないだろうか?

 ならば、教理で高一等の地位を誰が得られたものだろうか。

 こうした宗教教理の暴挙に対処するのは理性と人間性の回復であり、何よりも得体の知れない欺きの主から逃れ、聖書本来の諭すところに立ち戻ることである。

 そのために、詰まるところはまったくの一次啓示の理解とはなっていないところの、完全でない人間の二次的理解に対し、その「教理」に当然の分を弁えさせるべく一定の制限を加えることは、神の名の下に不完全な代替物が暴走して人間を傷つける事態を避けさせるという深い意義がある。

 それは宗派間の敵意を軽減あるいは無くし、条件が合えば、宗派を超えてより多くの人々が公正な判断の下に教理の理解を共に磨くことさえ視野に入ってくるであろう。

それぞれに宗教組織は信者を失うまいと自派の正統を主張し、外への違和感や軽蔑を抱くよう仕向け、所属意識や敵意を煽られているのであれば、教派別に分断された人々は教理の犠牲者と看做すことができる。

しかし、本来は皆が同じく「キリスト教」を素朴に信奉しようとする点で異なることはなかったはずであろう。しかし組織の操る教理によって、派を超えて信仰の仲間として互いの間で伸ばされ示されるべき人間の善性を、動物的争いという反対方向に働くよう仕向けられてきたのである。

 宗教教理に初めから通じる初心者などはまず居ない。
しかし、教理は数学の長い数式のようなもので、説明する教師の間違えを数式の部分を指して指摘できるような学生が期待できないように、初心の信徒はまず以って教導者の言いなりとなる。

 その数式から導き出した解が入信者の喜ぶようにすることなど、老獪な宗教教師にとってはまことに容易いものである。
 だが、彼らの関心の主体はどこにあるだろうか?
その正体が焙り出されるのが、善性とは反対の言動を求められるときであろう。

 初歩の段階で信者が弱い立場にあるなら、より進んだ次の段階で挽回すればよろしい!
 つまり、信者の良心や理性が躊躇するような行動を求められたときにこの「教理控制」を発動するのである。

 怖れる必要はない。あなたの思いも体も時間も財産もあなたのものではないか?あなたが躊躇を感じることを強制させようとするあらゆる圧力に屈するべきではないし、それを行ったとしても真の信仰から出てはいないのではないか?


 この提案は組織の教理の制限である以前に、神と人の関係に横槍を入れさせないための策である。

 つまり、その不完全さを指摘して、あらゆる教理を然るべき立場に服させるその「教理の教理」ともいうべきものを「教理控制」と名付けることにしたい。これは「きょうりこうせい」と読む。

 その意義は、どんな「教理」にも不完全性を認め、それに相応しい扱いをするというだけの簡便なものであり、複雑な体系も緻密な推論も必要ではなく、ほとんど「誰でも」適度な注意を払いさえすれば機能するものである。

 こうして、これまで信ずる者らが同じ人間の宗教権威に平伏し、過剰な保護の下に腐敗させられていたかも知れない「教理」そのものが人々の良識や価値観によって吟味され淘汰されることによって、これまでの独裁者の仮面を剥ぎ、おそらくは神ではない何者かの閉鎖的欺きの意図を見破って、神本来の意図を探り出すことである。

 もちろん、これは人間の側の作業であり、啓示に勝るものではけっしてない。それゆえ、議論の余地無く神の啓示が示されるときには、この「教理控制」は意味を成さないし、啓示に道を空けるものである。

 すなわち、人々は神の名の下に、神ではない何者かの特性を強制され、それと気付かずに仲間の人間を傷つけてきたのであったが、盲従を避け、真に価値のあるものを見分ける努力を行うのは人の務めであろう。

 この失敗が宗教の二面性となって、宗教上の危険を世にもたらして人々を宗教から遠ざけ、世俗主義を横行させる一因となってきたことは容易に見出せることではないか。

 この「教理控制」はキリスト教のどの派においても適用できるものと思える。不完全な「教理」そのものを盲従を求める圧制者に我々が自ら仕立ててしまってはいけない。それは「神の象り」である人間を自ら卑しめることではないか。

 しかも、それは第一に個人の問題であり、その人の内面で「教理控制」を意識さえすればその人の中で即機能を始めるもので、宗派の大仰な教導者の承認などを必要とはしないし、組織の教導者には何らかの強い動機があるだろうから、このような信者個人の意識変革を許すとは到底思えない。

 すなわち、「教理控制」とはその信仰者個人が自由に用いることが出来るので、一種の「運動」のようなものとなり得るのである。

 宗教権威者から教理を介して過剰な要求をされたと思えるときには、いつでも「そのお求めについては教理控制を適用させて頂きます」と言えばよいだろう。もちろん、黙して自分の思いの中だけで適用できればそれに越したことは無い。

 教理控制の趣旨について権威者が尋ねるなら、とりあえずこのブログ本頁でこれを定義してあるので、教理控制を訝る権威者には見てもらえばよいだろう。

 聖書の神の一次的啓示を持たないのであれば、何ぴとも神の権威で人を過剰に縛る理由がないではないか?

キリスト教徒は「教理控制」を働かせるなら、他の教理を信じる他派の信徒に自説を強いず、教理に違いがあるからと軽視も蔑視もせず、派に応じて人となりの良さを差別せず、自らの「愛の掟」に差別を設けない。

(もちろん、個人的相性のようなものはそのまま働くことになろう。無理を強いて和諧するわけではない)

 あらゆるキリスト教徒に、この「教理控制」をお薦めしたい!
 旧弊を打破して敵意を除き、争いや自己欺瞞的優越感や派閥の偏狭から逃れて、キリストに従う者に相応しい精神態度を培い、また世に示そうではないか!

 







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