Notae ad Quartodecimani

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キリスト教の独善性に関する断章1

キリスト教の独善性


『実によって見分ける』(イエス
『理証、文証も現証には過ぎず』(日蓮


「正しい崇拝」と呼ばれた新教についてエラスムスは激しい批判を寄せている。自分たちの教理の正当を主張しながら、その行う粗暴の倫理性は旧教時よりよほど低かった。⇒脱退者の破壊傾向(正義の暴走)


では倫理性が正当の基準かといえば、結果的に道徳を競うことにつながり、競われたときにその道徳は倫理性を失っている。


道徳は宗教の本質ではなく、別物としないと宗教が見えなくなってしまう。


宗教側が唯一正当な宗教を称える理由は信者の方にないのだろうか?
宗教側にとって最低限信者を保全しなければならず、教導者はそれに一番心を砕くであろう。
(正しい宗教を広めることが真の崇拝」を唱えるものは偽り、というのは一理ある。教導者はその先に何の目的もない)

組織の施設などを一度大きくしてしまうと、維持費の関係で縮めるのは非常に難しい。
従って、数%でも信者の継続的減少は大きなダメージを教団に与えることになる。信者へのサーヴィスを次第に切り詰めねばならず、それを悟られると気落ちさせ教勢に影響が出る。


それゆえ正当を主張する場合、どんな宗教でも教勢に波はあるだろうから、ネガティヴな印象を信者に与えまいと相当に外面をつくろわねばならぬ。

つまり、信者を失わぬため、正当に属している安心感を常に供給する足枷をはめられるのだが、その過程では実際と異なる状況を演出する必要が生じるので、倫理上に問題ある決定をすることが避けられまい。


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信者は正当でないものを信じたくは無い⇒失うものが大きいから
ここに信者の怠慢がある。無いものねだり

実際に正当を称える様々な宗派を並存させた原因はまず信者自身が間断ない探求の努力を惜しもうとするところにある

こうしてスーパーの安売りのように、いずれかの宗派が自分たちが正当であると主張を始めると、他の派もそのようにしない訳に行かなくなる。


教導者は「正しい」宗教を「造る」必要が生じる。
社会的是認、教団規模、増加率、戦争不参加、教理のロジック、年代計算、有名人の入信、なんでもよいから言い訳を造る。
しかし、人間必ず倫理上のミスをする。

正当を主張する以上、自分たちのミスは極力隠す、それは出来なければ上手く弁明する。ミスの証拠となる古い文書を処分し、信者の目に触れさせない。こうして倫理上のミスの上塗りをするが、それは紛うことなく故意の悪行である。(もちろん卑怯極まりないが、それは教導者がよく知っていよう)

また、他宗派のミスは、他のどの派にとっても自分たちの正当性の証として使う絶好の機会となる。
(他宗派を揶揄するところは偽りの証拠」というのは一理ある)

倫理上のミスを免れない教導者が、存在し得ない「正当」を称えることは、参入者獲得と信者確保のために媚を売っていることになり、間違いを体よく隠すことにおいて罪を不動なものとする。

それゆえ、相互に揚げ足取りを始め、それを互いの信者に信じさせようとする。
通常の社会では、このような人格はとても尊敬されたものではないのだが・・

⇒これはヒュームの言う「塹壕戦」である。

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教理は数式に似ており、解はその行動である。
計算途中がおかしいことに気付ける信者は極めて少ないようだ。

計算の途中経過にミスがあっても、それを納得しながら進むと解が如何に異様なものであっても、それが正しいと思える。
つまり、ロジックを積み重ねてきたからである。

数学の場合は、検証が容易であるが、宗教教理はそのような訳にゆかない。
倫理が関係しているからであり、倫理観は人それぞれであり、共通の認識を持つことはまず無理である。

したがって、人を殺してはならない、とか、盗んではならない、といった極めて明解な倫理基準でなければ、その宗派の教理の間違いに気付く可能性は非常に低い。

教理教育は計算式を教導者と共に解く(いや、教導者が解くのを見守る)ようなものである。どこにトリック(故意)やミス(失敗)があるのかを見出すには教導者以上の計算能力(見識)が必要だが、ほとんどの場合、入信する者は初心者で、非常に不公正な事態がそこにある。
ゆえに、宗教に騙される人は多く絶えない。

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入信する側は、正統を見出そうと躍起になるので、そこに罠がある。
一度正統を納得すると、安心してしまう。

教導者と同じ思考回路が築かれてしまうと、それ以外の発想が難しくなり、新しいことを積極的に取り入れようとはしない。
そうするくらいなら、新しいものや別のものを攻撃して、その正当性を自己の中で破壊するほうがよほど楽である。

ある程度信じた期間が経過すると、信仰を変えることで失うものが大きくなってゆく。
それまでに多くの運動に携わり、犠牲を払い、献金をし、友人を得、世話を受け、職業まで斡旋されていれば、殆ど宗教問題ではなくなって死活問題となっている。

それは宗教の本質からは遥かに隔たっているが、信者はその宗教が正当でないことを認めたり、離れたりすることを恐れ、ロジックなく「本能的に」避ける。
これは、教理にしがみ付かざるを得ない状況に信者を追い込むが、教導者からすれば、願わしいことである。

しかも、教導者はその動機を隠しつつ、その様を眺めることが出来る。

従って、教導者の恐れるものは、信者が教理をもう一度検証することであろう。

教団を離れた信者を最も重い類の罪人に仕立てるのは、教導者が自らを保護する目的以外に無い。
教導者は信者を外部情報から遮断し、多くの資料を与え、教理研究で時間を奪い、活動に駆り立て、スズメの涙ほどの僅かな成果を正当の証拠とするに驚くほど巧みである。(この点、信者には悩みや幾らか疑念がよぎっているはずであるが、それを振り払うことが正しいと考えるように仕向ける)

しかし、情報統制をしてきた教団は、隔絶が強いほど、崩れはじめると倒壊は早い。北朝鮮のような社会である。


結論として言えることは:
正当を称える宗教教導者ほど、倫理性からも道徳からも遠く隔たった人間たちもいない。その欺きの悪辣さは外見を繕うことにおいて政治家も遠く及ばない



教導者がこの状態で、どうして正当な宗教が有り得よう。

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