Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

絶対正統主張派「塔」「モルモン」「原理」離脱者の状況

絶対的宗派から退く者を巡る

・人間関係の縮小、絶縁
(職業、収入を含むことのある)
  交友の喪失、孤独感、生活の危機

・宗教上の良心の痛み
(意識中の神関係の喪失)
  罪悪感、自己価値の喪失(絶望→自死

・習慣、教理の滞留
  言行、思考方法の転換の困難

・旧宗派への敵意
(加害層、指導層を対象)
  攻撃による苦悩の昇華、完全な棄教(神否定→自己の放棄)




外的環境変化

・旧宗派からの忌避と蔑視
(見せしめも含めた)

・事情を知る部外者からの軽視
(反省を要求される、騙され易い者と見做されることの)

・同境遇者の共感、慰撫
  背後に孤独感の相殺、正義感の回復の動機

・異宗派からの慫慂
(的確さをカムフラージュした別宗派からの)
  新たな被是認の仮補充の動機から



要請される事柄

・新たな交友(職業)関係の構築

・神意識の再確認

・かつての習慣、思考方法を転換する

・旧宗派への意識に圧迫されない

・離脱後に近付いて来る者への注意

モルモン経典の序の前にある文言
「ところで、もし誤りがあるとすれば、それは人の犯した間違いである。したがって、キリストの裁きの座で染みがないと認められるために、神にかかわるものを非難しないようにしなさい。」


○組織が神是認の絶対性を唱えている場合、その害が最大化するのは信者の離脱後ではないか。
本人の意識が変わり、それまで耐えてきたものに対して、その根拠と正当性を初めて客観的かつ真剣に問うことになる。
しかし、神是認の絶対性を唱える宗教組織は、その問いに答えることは不可能であろう。なぜなら、神是認の絶対性の客観的証明は、神自ら行わない限り、その組織はもとより誰にもできないからで、単なる人間である限り、究極的には「正しいから正しい」としか言い様が無い。そこで初めて離脱者は欺かれていたことを悟る。(これは歴史に際限なく繰り返されてきた)しかし、そのような宗教組織が自己義認を否定することは組織崩壊を招き兼ねないので、その主張を変える可能性はまず無い。もちろん、離脱者への真摯な回答などはおろか、そうした類の信者の真剣な質問と正面から向き合うことさえも到底無理であるから、質問者の方を悪者に仕立てなくてはいられない。
その理由は、モーセの体制やキリストの新しい契約に在ったような「聖霊」という神の後ろ盾の客観的な証拠を何も持ち合わせてはいないからである。その組織の人々は、自己保存本能から教えられた事以外を想いに浮かべることさえ恐れる。それがご利益信仰であるので、神の物事を探り出そうとはせず「求め続けよう」ともせずに命欲しさのために真剣な探求から逃げ出すのである。

そこに排他性の動機があり、ご利益とその絶対性への強い願望があり、その精神の特徴は自己愛からくる「恐れ」であって、神への「畏れ」は、シバ神のような滅ぼす神への「恐れ」に置き換えられていて、その「恐怖」が信者たちを硬く拘束するものとなっている。この人々に神への「畏れ」はもちろん「愛」に至っては高尚過ぎるようだ。
したがって、そうした宗教組織をそれ以上相手にすることは徒労となるに違いなく、その過程で古傷に触られることにもなる。その組織はそこにしがみつく信者と共に壊滅するまで存続し続けるだろうから、宗派そのものを正そうとするのは無益で、精々が、そこから幾らかの人々を覚醒させる援助をする程度に思う。
身近な者が依然としてその組織に残っている場合、離脱の強制はできないので、何とかうまく付き合ってゆく方法をそれぞれ案出する以外ないようだ。場合によっては相手の忌避から逃れるための便法も必要に思う。なぜなら、相手の忌避も聖句の適用次第であり、もちろん書かれた当時の状況を無視した、強引な現代への適用となっていて、けっして神の是認の下にあるわけではない。むしろ人権を蹂躙するものであり、表される正義感とはまるで関係もなく、人と人を分かち憎ませる中世的異端審問の「悪魔の業」と呼ぶ方がよほど相応しく見える。

人は何を信じようと自由に造られていながら、この組織はそれすら認めてはいないことが離脱者への忌避に表れている。なぜなら、彼らにとっては、それが繰り返し訂正されるものであるにも関わらず、自分たちの教理に絶対の信仰を持っており、それ以外の思想を(幾らかでも違うものさえ)容認する余地はまったく持てないからである。これは神が「象り」として与えた人間性や理性や思考の自由に対する悪魔的圧制の恐るべき挑戦である。そこに幾らかの聖書の味付けがされたことでその人々は欺かれているとしか言いようもない。
もし、このような組織に入ってしまっているなら、また、身近な人が所属し続けているなら、まず自らの覚醒も疑念もけっして表明すること無く抑え、上記の「要請される事柄」のような事項が満たされるのを待ち、様々な状況の変化を機敏に察知し、就職、引越、転勤、進学などの変化の時節を利用して離脱する機会を窺うのも自他への気遣いと言えるように思う。その間は非常に難しい事態や、精神状況に置かれることもあるに違いないけれども、自分たちを絶対視しているような組織に立ち向かう以上は、覚悟すべきことなのであろう。エリコのラハブのような機知や冷静さを適用すべきなのは、まさに人生のこうした場面なのかも知れない。もし、神に祈りつつ離脱を果たすなら、それはその組織への本質的で大きな打撃になるように思える。

様々な情報を見るにつけ、現状でこの組織は危機的段階に入ったようだ。まず、年代計算、地上天国の未達成、終末の予想外な延期など、現実との齟齬による教理的崩壊はもちろんのこと、強引な情報統制に拍車をかけつつあり、それは人間理性に対して挑戦するもので、いよいよ社会からの独善的孤立の道を選んだことを意味している。
それに追い討ちをかけたのが、この人々もまた一般社会の人々と倫理面で同列であることを示したことである。それは単に幼児への性的虐待が内部でも起こったということを越えて、それを隠蔽したという致命的なミスリードであった。つまり自分たちには「罪が無い」と言ったに等しい。この隠蔽体質を信者の側から是正しようという動きも幾らかあるらしい。だが、隠蔽はこの種の醜聞ばかりでなく、既に教理の不都合や破綻からして始まっていたことである。
報道されるアカタルシアと隠蔽問題は当然倫理的打撃を組織上層に与えたに違いないが、それを信者に明らかにせず、なおその過ちを継続しているところに問題意識の無自覚さが表れており、それはキリスト教徒の名を汚しているという以外ない。

この組織の教導者からすれば、この倫理上の問題よりは、そこから派生した資金凍結など法的措置から来る経済的逼迫の方がよほど応えているようだ。今後もこの種の負担は増えることはあっても減りそうにない。次から次へと部内者の不行跡が明らかにされつつあり、その訴訟対策と保障費用に資金をつぎ込まざるを得ないことが目に見えているからであり、この方面でも今後の凋落は傍目にも決定的である。おそらく、現状の自由寄付制を維持することは難しくなってくるであろうが、そうなると、先進国での信者の高齢化と一般的職業の否定による貯えの無さが今後の窮乏を加速することになる。
俯瞰するに、教理崩壊と隠蔽による倫理的堕落に加え、より強い圧制と経済損害が近い将来にこの組織を必ず襲うことになり、それは一般的に見て宗教組織としてはまったく異常で破廉恥なものとなる以外にない。この組織はその道をすでに歩んでいるが、それが見えないのは情報統制され資金と時間を吸い取られている末端の人々ばかりであり、最後に真相を知らされるのはこの人々になることだろう。その際の精神的打撃については誰も責任を負うことができないほどの規模になるに違いない。そのときにこの組織には何の保障を行う財力も残らず、宗教組織らしい慰めはもちろんのこと、おそらくは謝罪の言葉さえ無いことも覚悟せねばならない。

だが、信者の覚醒を援助することは対面の場合非常に難しい。今日ではネット上に批難するサイトが多いので、その閲覧に導くべきか?
但し、これらの内容は玉石混交であり、精神性の低い中傷目的に終始するものが少なくも無い。中にはキリスト教も宗教も唾棄すべきもののように捨て去るよう誘導するもの、また、キリスト教のより正確な情報を装いながら、人数の増えず信者獲得を目指す教会側に導こうとする怪しげな解説もまま目にするところである。これらを現役信者は最も警戒するであろうし、そのようなものを紹介すれば、「世」はやはり間違っていると確信させる手伝いをすることにもなりかねない。
あるいは、その入り口からして現役信者に拒否感を抱かせるものもあり、ほかのものもすべては「同類」と印象付けさせてしまうなら、その組織の指示の通りにネット情報のすべてを拒否するよう促してしまいかねない。既にある程度の疑念を孕んでいる信者の場合はともかく、未だ熱心な場合には、この辺りに慎重さが求められるが、それを満たすものがあるだろうか。














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