Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

オーム事件の裁判終了に思うところ

.

確かに、16年を経てなお障害の残る被害者や家族にこの件の「終わり」が来たわけではないに違いない。

また、死刑を以って最後の被告の審理が終わったことに一定の安堵のようなものを覚える被害者の身内や親しい方々の感情や、あるいは報いを求める気持ちも人間の持つ自然なものであろう。
モーセの律法も被害者親族による「血の復讐」を認めている)


視座を幾らか変えて眺めると、高学歴で真面目そうな青年が、自らの優秀な技能を凶悪犯罪に使ってしまうようなことに何故なったのか?という疑問は依然残る。
そこに問題の要点、そして彼らのような結末を迎えさせないための重要な「鍵」があるように思えるのだ。
これが重要に思える理由は、この点に注意を払わないなら、同様の事件が容易に再発し得るだろうからである。


これら加害者たちが教団を去った後に一様な反応を見せたわけではないようだが、オームから出たほかの元信者たちを合わせた傾向からすると、彼らの内面の危機は組織を出たあとに訪れる。
以下、聴いたところから推論を加えてみると・・


教団内に留まっている間には自己嫌悪もなく、まして自死の危険もないという。それは内面が何らかの仕方で「満たされている」からであろうことは想像に難くない。確かに人は信じたいものを信じる自由があり、この段階の人々はそれを謳歌しているのであろう。


しかし、組織を出ると彼らの内面の様相は一変する。
「何か」によって満たされていた内面は一気に空洞化する。
そこから先は、当分に亘り信仰の自由などというものは消えうせる。
長く続く不自由な苦悩の始まりである。


この点、何かの信仰に邁進していればいるほど、その後長くそれを引きずってゆかねばならないようだ。


つまり、自分の理性も良心もその「信仰」に応じて形作られたものとなっており、それこそが「精神の核」のように内面で育っている以上は、「思考の習慣」を急に変えることなどどんな人間にも生易しいわけもない。
まして、物事を真剣に捉える人であれば尚更であろう。


そのため、これらの組織を出た人々は初めに「罪悪感」を抱くという。
それは、自分が起してしまったことへの反省や、被害者への共感というよりは、内面では以前の「思考の習慣」に従って自分を判断するからであろう。
自分自身の「至らなさ」を悔いるという。


つまり、警察に逮捕され罪状を認めたとしてもなお、「信者」としての「思考の習慣」に従っている、いや、そうすることがせいぜいなのであろう。
一般的観点からものを見ることをしばらく経験していないわけであるから、これは仕方のないことであろう。


そのため、しばらくは教団を責めず自分を責めて過ごすのだが、やがて彼らの中で変化が起こってくるようだ。
それは、信仰が薄らぐことで忘れかけていた以前の「思考の方法」に戻り始め、自分たちが受けていた教えに欠陥を見出しはじめるのである。


それまで絶対視していたものに疑念の目を向け始めるこの過程は重要な転換となる。
だが、それからは「破壊」の過程に入るのであり、組織を後にしたからといって必ずしも喜ばしいものを本人にもたらすわけではない。


それまで属していた組織に対する嫌悪や憎しみの募る状態であり、その人の中の攻撃的な面が最も現れる段階である。
本人はその嫌悪のゆえに、組織とまったく決別したと思うかもしれないが、感情を乱されていることにおいて、いまだその組織の影響力の下にあるのが現実である。


しかし、どれほど憎んだところで、自分の過去は変えようがないという現実が間断なく元信者をさいなみ続けると、やがてより危険な段階へと進んでゆくという。

それが自死の危険である。

自分の人生を振り返り、それがひとつの組織によって無価値なものにされたことを思い見る。
これは、自尊心があり真剣に生きようとする人が逆に陥りやすい弱点となる。つまり、徹底した自己否定であり、むしろ自己破滅と言った方がよいかもしれない。



さて、彼らが加害者であっても、その加害者としての内面は次第に変化を遂げてゆくものである。
それは社会的法律的制裁を受けるだけに留まらず、内面の苦難という応報をも受けてゆく。



では、こうした不幸を避け、自死や自己破滅の危険を逃れるために出来ることがあるだろうか?

わたしが思うに、教団を離れた彼らを責めることはいとも簡単なことだが、それよりは彼らの内面の変化に寄り添い、彼らの経験を価値あるものに転化する方法もあると思えるのである。


加えて、北朝鮮のような拘束的組織ほど崩れ始めると脆いので、閉鎖的教団にとって最も恐れるのは離脱者であるから、自分たちから離れる者を警戒し、最も罪の重い者と断じる。

そうして、元信者は教団と社会の両方から鋭く拒絶されることになる。

この状況に彼らを置いて、自業自得だと高を括るなら、それは非人間的仕打ちではないか。彼らには彼らなりの理屈があってその道に入ったのであり、それは誰もが陥る危険を孕んだ穴である。

逆に、悔いている彼らを受入れ、生かす道はないものか?

つまり、彼らが洗脳なり凶行に駆り立てられた状況なりを詳細に分析し、その罠に、以後他の人々が陥らぬよう注意を喚起するよう助けることである。
実際の加害者である反面、彼らも被害者でもあるところで、彼らに社会への貢献を求めることができよう。


彼らをただ処刑し、狂信に対し死の代償の恐怖によってのみ警告するのだけあれば、その陥穽に充分な蓋をすることは出来ないであろう。

むしろ、この人々ほど教団の狂気とその欠陥を内部の人々に説得し、その予備軍を阻止できることはないであろう。
彼らがただ死んでしまえば、それは制裁であってもこの観点から見れば無駄死ではないか?その経験を生かすこともなく、社会もその益を得られず狂信ゆえの凶行の再発を防止する機会を逸するのである。

鉄面皮のように見える狂信団体であっても、完全無欠なわけもない。
この教団に対する最も強力な武器は、心から悔いた元信者の語るところではないだろうか。

彼らが人々に注意を喚起し、こうする彼らにも価値を与え、自己破壊を食い止めることができるだろうし、自死を阻止できるなら全体の益となるのではないか。

我々は、ただ「怖い宗教」があって、その目に見えないような恐怖に対して怯えつつ過ごす以上の対処法があるだろう。
さもなければ、社会は精神的に深いものをすべて拒絶することになり、結果として、人間らしい自由な思考は制限され、文化は惰弱な世俗主義に覆われるのではないだろうか。そこには個人の理性も良心も活躍する場がないだろう。


それで、狂信的教団への入信から洗脳の過程で「気付く」ことが出来なかった元信者の悲劇を繰り返さないことこそ理性的で合理的対処法であると思える。

我々が、組織の外から見て極端に見える何かを「狂信的」と言うのはあまりにも簡単なことである。「カルト」と叫んでさえいれば自己の義が建てられるとすれば、それは愚かではないか。
宗教組織によっては「自分たちは何某とはまったく関係ない教団です」と宣言することなど、問題の根本にどれほど触れているのだろうか。


むしろ元信者たちは、いったい何を見落としたのか?
これが重要な問いである。
そして、これを知るに彼ら自身の証言ほど耳を傾けるべきものはない。









.