Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

女シオンからの仮説

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女シオンに対して聖徒が世界から集められる。
それを運ぶのは各地の人々、王たち


シオンでSHMが知らされる。
聖霊によって聖徒から知らされる


シオンから神は号令する。
子らは名を置く処、生ける神殿、契約の証し(聖霊)の所在地として


「二本のオリーヴである」聖徒が現れるときに回復が始まる。
(だが、その以前にシオンが居るようだ)
シオンへの街道が整備され、旗印が神によって掲げられる


シオンはゲーに達した者からの攻撃を受けるが逃れ出る。
しかし、子らは七頭獣によって死を迎える。


子らの登場(おそらく嬰児出産)前のシオンの状況とはどんなものか?
男児出産は「新しく生まれる」塵の中に眠る者の起きるとき
男児出産と子らの関係は?(相違あり)


では、どのようにしてそこにシオンが居るのか?
(以前から居るのか、存在のきっかけがあるか)
回復の預言の対型か?(キリスト教界全体か、一部か、別物か?)


シオンはその子らを産み出し、子らはある程度別行動をとる。
シオンは獣像(荒憎者?)を忌避し、数字を受けず子らを支持する。


律法はシオンからYHWHの言葉は(新たに)エルサレムより出る。
ゆえに、諸国民はシオンに向かう。
シオンの子らが現れて後、諸国民はシオンに集合することで、子らへの支持を示す。


ミカエルはシオンのために戦う。(ダヴィデなくしてシオンなし)
最終的にシオンが地に残される。



その以前に、嬰児が神の元へ引き上げられるのは、地上に居る聖徒が攻撃を受けて死ぬとしても、子らの総体としての「生まれる国民」は天に招集されるものであることを表しているのであろう。


荒憎者が聖所に立つ?常供の犠牲の途絶
(子らは生ける神殿。では1260日荒される中庭とは?シオンはその間保護される)[おそらく、中庭は不定数の受入のため測られない、では蹂躙とは?]
(「蹂躙」とは、中庭を満たす異邦人の認識が低いことから生じるのか?)


シオンは飾りの地であり、象徴的ラキシュから攻囲軍を受ける。
神の号令は、ミカエルの立ち上がるためか?
征服の完了が命ぜられ、国民の生じて以来の苦難を迎える。
攻囲防御側の特徴(戦争・飢餓・疫病)過去ニ度のエルサレム陥落

では、攻囲を受けるのはシオンでそこに大患難が臨むのか?
それを攻囲と仮定すれば、国民が生じて以来なかったような窮境となろう。

しかし、攻囲は二回あると見ることができる。
一度目はGBに対するもので、これは「火で焼かれ滅びる」
二度目は「飾りの地」(シオン?)への攻囲で、十角はGBのときの余勢を駆って自信満々であろう。


一度目の攻囲で、シオンの子らの血に対する娼婦バビロンへの復讐を執行するのは各国の公権力である。ついで、すぐにシオン攻囲に入る。 <訂正2014.10>一度目と二度目では攻撃の担い手が異なる。七つ頭の野獣は存在を42ヶ月で終えるため、二度目まで存在していない。
しかし、一度目の攻囲はヒゼキヤの時の結果となる。(立ち上がるのは、同じミカエルか?)


シオンの子らが攻撃されてから世の裁きまで時間がない。
聖徒攻撃が終わると、公権力はバビロン攻撃に着手、次いでシオン攻囲か?黙示録は明確にバビロンを滅ぼすのが野獣の角であると記す。
争点は野獣の数字(キリストか野獣[反キリスト?]かの選択の時間あり)


七頭獣と北王の関係は?『彼らは荒憎者を据える』彼らは南北両王か?


荒憎者が新しい角であれば、国家権力から出てそれとは似て非なるものであろう。問題は十頭獣とその像との関係である。
あるいは七頭獣が新しい角で、その像が荒憎者なのか。
(シックーツはこれを支持するようにみえる、そのものは語っても歩かない)獣像とはユートピアか?<追加2014.10>おそらくは、統一政権のようだ。


シオンの一員となることは、子らへのエントリーではないか?
水のBPTは差出で、聖霊のBPTは召しか?(その勇気があるか?)
それゆえ「選ばれる」⇒エクレシア(初代と様相が異なる、しかし、攻撃を受ける以前は初代と同じ)


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では、シオンとは何か?


三者:女シオン・男児・シオンの子ら

反キリスト/不法の人/七頭獣//荒憎者/野獣の像//毒麦

解消エレメント⇒偽預言者・かえる・666・十角獣の角と新たな角





感想:回復はキリスト教界を舞台とする以外考えられないが、回復に価するとも思えない。おそらくキリスト教界は体制として聖徒に無関係→敵対の態度をとるように思える。その変化をもたらすのがアリスモス要求であろう。
であれば、「反キリスト」「不法の人」は滑らかな言葉で背教に誘う根源者のようなものらしい。その主張は666という数字によく表れている。
それは背教の淵源であり、神の経綸への最強の反対となる。

しかし、聖徒の言葉が反駁できないものであるのにキリスト教界が反対する理由はどこにあるか?
おそらくは、パリサイ派と同じ「無感覚」ではないか。
聖霊による「父の業」を見ながらもベエルゼブブと言うのか?

結果的にコンスタンティヌス以来踏み込んだ道である、世俗権力との迎合から離れることができずに、世と共に過ぎ去るようだ。

[回復の部分だけシミュレートしても一冊の本になるほどではないか]





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