Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

女「シオン」の実体を探る努力

前の頁にイザヤ書中の記載箇所を挙げた女「シオン」乃至「エルサレム」について、ここでは現時点で思いつくことを、ラフなメモとして書き出しておきたい。

  • ◆「黙示録の女」-------------------------------------------


この女は天に現われ、天体の光を一身に集めながら、文脈を追ってゆくと地上に居る。

筆者ヨハネは黙示録の中では常にそうするように、何ら引用はしていない。
しかし、この黙示録は旧約、それも特に預言書へのリンクが多いことはおぼろげながら感じてはいたのだが、この「女」というオブジェクトひとつを追って行った結果がイザヤ書中の終わり四分の一にも亘る文中で際だった存在であることを知ったのには大いに驚いたのだが、より驚異的なのはこの「女」に与えられている役割の大きさである。


イザヤ60章からして、黙示録の「女」はそこに描かれた「シオン」であることはまず間違いないと思える。
そして、イザヤ書中の「シオン」は紛れも無く地上のものでなければならない。

イザヤ54章の子を産む女としての「シオン」は「聖徒」を生み出す母である。
キリストの臨御が再び起こるときに、ある人々に聖霊は古代のように注がれ、彼らは為政者と対峙するだろうが、彼らは聖霊によって語るので、誰も論駁できないであろう。

さて、そのような「聖徒」に選ばれ召される子らとはどのような人々であるのか?

この点は、私の知る限りでは新約に解説は無いと見える。ただ、黙示録に「諸国民を鉄の杖で従える男児」を産む女が登場するだけであり、強いて言えば、パウロがガラテア4:22以降で語った「上なるエルサレム」くらいであろう。

ガラテア書について言えば、パウロは「天の」とは言わずに「上の」と形容したところに幾らかのヒントがあったようだ。

「天のエルサレム」ならば、ヘブライ書にあるが、その姿はまったく議論の余地無く天界に属するものであり、天使は子を産まないように、それは子を産まない。

ガラテア書で「上なる」としたとき、パウロは律法契約の奴隷身分にあった地上に実在するエルサレムに対するものとして「上なるエルサレム」を掲げたのであり、その「上」[アノー]という副詞は*方向の「上方」[ヒュペル]を意味するが、パウロは奴隷身分とその使役者である自由人を対照させるところに「グレードの高い」という意味を込めたと思える。
これは、パウロ自身を含む「聖徒」は奴隷身分のような契約体制からではなく、自由身分の神との約束によって生じたというのは納得できることであろう。(*以下11.8/11学習不足により訂正)

では、誰が奴隷の子ではなくサラの子のように「家の子」であるかといえば、それはナザレのイエスをメシアとして「信仰によって」受け容れた人々ではないだろうか?(訂正8/11:人々そのものは指さず、より抽象的な「制度」や「組織」を擬人的に指すようだ)

それは必ずしも血統に因らない、つまり律法に関わり無い人々である。
そして彼らは地上のものである。

では、彼らは「サラ」の対型となるだろうか?
律法墨守に邁進していたユダヤ体制が下のエルサレムに象徴されたハガルというのであれば、そこから離れて新しい契約に魅かれて集まってきた人々の内に築かれつつあった新体制、つまりメシアを見出し、そのバプテスマを受けた人々の集団を別のエルサレムたる「サラ」と見ることは不自然ではないように思える。

それは後に「エクレシア」[f]と呼ばれた集まりの総体といってよいのではないだろうか?これはヘブライの「カハル」と比較すると、性質も内容もまるで違ったものであろう。確かに「律法」から「愛の掟」へという次元上昇もそこに見られる。

加えて、パウロがガラテア書を記した時代には、まだイエス派であったゆえに、ひときは彼が「上なるエルサレム」を称えることにその意義をみたであろう。

  • イザヤ書-------------------------------------------

まず、神から「見放された」ような状況を天界に見ることはできない。
というのも、天使が悔いて罪から回復されることはない。(60:15)
その恵みから離れた理由は契約違反であって、これは人間的ではっきりとイスラエル民族を指している。

シオンは母であるが、子らは各地から運ばれて来る。
運ぶ者らは隊商のように「らくだの大群」であり、雲のように巣箱に向かう鳩のように速い。60章前半

彼らはもちろん聖徒ではなく、シオンに携えてくる諸国の者である。
これを以ってシオンは子らを産むのであろう。
その陣痛は一瞬で、国民が産み出される。

おそらく、短期間にこれが為される。
したがって聖徒にははっきりとした印が必要であり、掲げられる「旗印」というのは聖霊の灌油を含意するであろう。賜物の再開である。

聖徒は明瞭にSHMを知り、それは必ず世界に響き渡ねばならない→Act2:21


しかし、この女が「退けられる」という事象はどのように生じていたかと言えば、これは新バビロニアによる滅びと捕囚以外に考えられない。

そして帰還があったわけだが、その後代の対型はなんであろう?
ルカ21章と黙示録にヒントがあるのではないか

'11.8.20追加:ルカ21章についてはダニエル8章の「引き」が強い

                                                                                              • -

正直な感想:「ここまで来たら、一般のキリスト教徒にはこの頁に何が書かれているのかすら分かってもらえないように思う。今後、相当に体系付けられた指南書が必要になるのだろうが、それを作るかと思うと気が遠くなる。」



.
.