Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヘーゲル左派の宗教攻撃

 啓蒙主義の時代が進むと意気軒昂たるベルリンの青年たちは、メッテルニヒ主導の保守的で時代回帰的なウィーン体制に対抗し、デカルト以来のフランス的啓蒙の精神を称揚した。


 それは自我の、自由で、自主的で、自覚的な確信のみを拠り所としようとするものである。
 彼らは神秘や超自然を嫌い、実際に生きている人間の観点からのみ捉え、人間としての類的存在の在り方を見出そうとした。こうして神を尊崇するヘーゲルに批判を加え、それが「人間疎外」であり、そこからの回復を唱えたのである。実にヘーゲル哲学の基礎にはキリスト教があり、「宗教こそがあらゆる疑いを解く」ものであるとしていたのである。


 ドイツの保守的国情に不満を抱く「青年ヘーゲル派」は、そこに旧体制と癒着した宗教組織の姿を見、反動的「神聖同盟」への不満から、まず宗教そのものへの攻撃からはじめる理由をもった。



 嚆矢となったのはシュトラウスの著した「イエスの生涯」(1835)である。
彼はイエスをまったくの人間として解釈し、聖書を人間の作り出した「神話」であると述べた。
人間は生きては死ぬ無力な存在ではあるが、類的存在としては自然界を征服して支配し、より高い次元へと高められてゆく、それをユダヤ教エス派の人々がキリストに即して作り上げた神話が聖書であると主張したのである。

 この主張は19世紀のヨーロッパを愕然とさせるものに違いなく、シュトラウスは大学の職を生涯得ることはできなくなった。



 これに続いたブルーノ・パウアーは更に進んでキリスト・イエスの聖性を否定したうえ、歴史上存在すらも認めなかった。
聖書から一切の歴史を奪い去り、苦悩する民の単なる文学作品の位置まで聖書を低めた。

 パウアーもやはりベルリンやボンの大学を追われ、大学で教える立場を諦めざるを得なかった。



 キリスト教をはじめ宗教が単に人間の事象に過ぎない、ということを更に徹底的に論じたのがフォイアーバッハ(1804-1872)である。
 彼は「キリスト教の本質」(1841)を著したが、それはキリスト教だけを射程に収めるのではなく、宗教一般を人間理性によって見直そうとするものであった。
 「神」とは現実の彼方に人間自らの願望、苦悩、相貌、理想を構想するものであって、人間こそが神であり、人間が宗教を作り出すのであって、神を自ら作り出しておきながら人間はそれによって支配される、という。


 そのようにして、人間は自ら作り出した神により「自己疎外」をおこしている。ゆえに人間は喪失した自己を回復しなければならない。つまり具体的・感性的・肉体的な人間の回復である。
それはキリスト教にせよ他の宗教にせよ、それが人間そのものの姿また本質であることを認識するべきである。然るに神学とは即ち人間学であり、そのように神学を作り直さねばならない。
このような人間学こそが唯一の哲学であり、自己意識の哲学である。
人はそれによって自ら宗教の束縛を逃れ、地上に自己を回復でき真の現世的幸福を得るのである。


 この「キリスト教の本質」の出された1841年、青年ヘーゲル派の機関紙「ハレ年報」(後に「ドイツ年報」)はプロイセンの警戒するところとなり、廃刊となった。



 このグループには完全なる無政府論者のシュテルナーが属していたが、彼の宗教攻撃はフォイアーバッハをも超えて、自己意識すら観念的であって真の自我ではないと批判している(「唯一者とその所有」1845)。
彼から見れば、フォイアーバッハの中にも未だ人間への神聖化の残滓があり、それすらも「迷信」であって、真の自我とは実在の自分自身以外にあり得ず、神も社会も自我の前に忘却されるべき亡霊と見做した。



 さて、大学を追われたブルーノ・パウアーはボンでひとりのユダヤ人青年を親しくなっていた。
トリアーから来た彼の名はカール・マルクスといった。
 


注記:以上の記述は小牧 治著「マルクス」の一部を要約し資料としたもので、私がこれらヘーゲル左派の考え方に同意している訳ではありません。

⇒ 「ヘーゲル左派」Memo