Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

[経済学]Partha Dasgupta"A Very Short Introduction"

 通常の入門書が1000頁程度になるとのことでしたから、エピローグを除いてきっちり200頁に収まった小著にも関わらず、その内容は経済を越えて社会の有様とその直面する問題を大きく包んでいました。そこに学ぶことの収穫は大きくて、わたしが読完後につけるノートはこれくらいの書であれば7〜8頁といったところですが、本書については15頁を要しました。
 著者のダスグプタ氏の見識の深さ広さに驚きますが、それ以上にまさか自分が「経済学」の入門書で感動と通り越す感激に至るとは思いもよらないことでした。
 経済的な弱者に向けられた著者の暖かい眼差しと、これから人類全体が避けられない環境危機に対する問題提起が、人に共通する根本的問題に率直な口調で語られていて、数式で説明される部分が非常に少なく、真の意味でこれほど「分かりやすい」経済学の入門書があるのだろうか?と読完後にあらためてその本のコンパクトな様子を見入るほどでした。

 本書のはじめからふたりの少女が登場し、このかけ離れた場所に生きるデスタとベッキー環境がなぜかくも異なるのか、これを説明するのに経済学が不可欠である、ということから話が起こされ、ことある毎にデスタとベッキーの社会状況が語られてゆくので、「経済学」の目的のような指標が書中に一貫して示され読み手の理解を助けます。

 デスタはエチオピア東部に、ベッキーはUSA中西部にそれぞれ住みおそらく同じ10歳。なぜ「おそらく」かといえばデスタの生年が不明瞭なためです。もうそれだけでデスタの環境も押して知ることができ、少女に本来的で特有の性質を持っていながら、実に異なる生活様式の中にいます。

 今日、世界を見渡すとひとの営む生活にはあまりにも大きな差があります。経済学はこうした格差の是正に役立つのでしょうか?
著者は経済学の目的がそこにあるとしながらも、経済学が人類を救うというようなことは幾らかも書いていません。

 むしろそこにあるのは、何とかしたいけれども、実はどうしたらよいか誰にも分からないのだ。という正直な陳述なのです。
といって、この本が閉塞感に覆われた印象を与えるわけではなく、何かを待っているような雰囲気も感じました。

 エッセンスつまり本書は経済学というレンズを通して社会全体をもう一度見回し、その本質的様態を探ろうとする姿勢があって、これが人を引き付けるものとなっているのでしょう。
 わたしは人の間で当たり前に行なわれている「交換」それを便利にする「貨幣」それが流通する「市場」、そして「平等」という意識について考えることができました。
 それは、既に交換の段階から勝者と敗者がおり、今日巨大化した「市場」はたけり狂う巨獣、それも幾らか宥めることはできてもだれも制御しきることができなくなった育ちすぎた恐竜のように、きょうもどこかで人々を呑み込んでいるのでしょう。

 敗者になる、あるいは衰弱している人がいるとしても、それは本人の努力や能力に問題があったわけでもなく、まして運によるわけでもないという説明は何とこころを打つものでしょう。

 しかしアダム・スミス以来、右肩上がりのスタイルだけを目指してきた市場は地球そのものにかける負荷を無視し続けてきたことへのツケを払わなければならない時代に入っていることは事実でしょう。
 著者はその負荷への支払いすべき額を「影の価格」と呼んでいますが、その総計、つまり自然に支払うべき総額はどれほどに膨らんでいるのでしょうか?

 場合によっては、もはや債務不履行しかない状況にあるのかも知れません。そしてそれを宣告するのはだれでしょうか?
「明日のエコでは間に合わない」は政府広報ですが、実は「昨日のエコでも間に合わなかった」と誰も言いたくはないでしょう。
 それを言うのは地球そのもので、すでに何度も警報を発してはいるのですが、人類には市場という化け物を制御できなければ、環境回復もその手に負えるものではないように見えます。

 それを粘り強く継続し続けねばならないにしても、個人個人の意識など市場の前には吹けば飛ぶようなものでしかないようです。