Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「共産主義の見た夢」Richerd Pipes "Communism A History"から

 平和な時期に平和を語ることは容易なことでしょうが、同じようにソビエト・ロシアの巨大な実験が崩壊して久しい今、共産主義を論難することも容易でしょう。
それでも、数十年前には日本では多くの学生が真剣にマルクスを論じ、ヘルメットをかぶって角材を執り、あるいは石や火炎瓶を握って「国家権力の手先」である機動隊と衝突を繰り返していました。

 しかし、今はそれも信じられないほどに資本主義は時代を平定し、かつての騒擾も夢のあとのように過ぎ去しました。あの熱烈な志士たちはどこに消えたのでしょうか。
いえ、消えてはおらず私たちの身近に日本社会を背負って活躍しているのです。

 何が変わったのか?
 「その世代」のある人は私に言いました『若いうちにマルクスに燃えない奴はダメだ。だが、中年になってもそれをやっているのはバカだ』。
 では、それはハシカのようなものなのでしょうか?

 リチャード・パイプスの著した本書「共産主義の見た夢」を読むと、自分が日本人であり、かつての学生運動を知っている立場が意識されました。それは、パイプスの語ることばの端々に社会主義ないし共産主義への幾分かの蔑みのニュアンスがあり、それをわたしは心持異質に感じたからです。
 その背景には、朝鮮半島やヴェトナムで実際に軍事力を使い、消耗し、多くの生命を犠牲にしてきた反コミュニズムの大国であり、自由主義圏の国々の防壁のように矢面に立ってきたUSAの気概のようなものがあるからではないかと想像されます。

 しかし、わたしが本書で特に関心を持つ点はコミュニズムの当否でも、その歴史の失敗の惨状をしたり顔で見ることでもありませんでした。
 むしろ社会主義共産主義が描く人間像であったのです。

 ここにひとつの命題があります。即ち「人は教育によって善なるものとなれるか?」というもので、この解によっては、あらゆる社会、少し狭く見れば政治が大きく影響を受ける、いや、まったく崩壊することも視野に入れなければならないように思うからです。

 わたしにとって本書の興味深いところは、ギリシアの古代からフランス革命を経てマルクスに至るまでの「人間」の本性に関わるこの問題がどのように考えられたかをかいつまんで紹介しているところにあります。
そこにゲネラルバス、いや、バッソ・オスティナートのように底在する主題を見ざるを得ないからです。
パイプスは前五世紀のギリシアから語っていますが、わたしは東洋人であるためか、同じく前五世紀のガウタマ・シッダールタもその命題に関わったひとりとして見ることができるように思います。

 ともあれ、パイプスは「所有」そして「貪欲」について人類が古代から着目していた流れを簡単に述べます。
しかし、これこそコミュニズムを云々するどころではない重要な事柄ではないかと思えてならないのです。