Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エイレナイオスについて

 この初期教父の属する小アジア系のキリスト教徒は注目に値する特徴を持っています。
 殊に著名な人物としてエイレナイオス(ca.130-202)を挙げることができます。
彼は小アジアからの移民と共に南フランスのルグドゥヌム市※(現リヨン市)に移ってから、ディアコノスとしてローマに派遣されたことで彼の活動はキリスト教会の注目を集めるところとなりました。(※アウグストゥス以来の退役兵の入植地、ガリア人のローマ化を推進する拠点、ティベリウス期にドルスス(クラウディウスの父)はこの地をガリア三州の中心都市とする)
彼がローマに在る間にルグドゥヌムを含むゴールでは苛烈な迫害が起こり、それはエウセビオスのHEに採録されている通りです。
その後、当地に戻りエピスコポスの職を担った彼は、今日その主著と見られる大冊「異端反駁」全五巻の最終巻で千年王国を信奉していることをはっきりと示したことに彼の主張があると思われます。
 おそらくヒッポのアウグスティヌスが意図的に抄本から削除させたというのはこの部分であったでしょう。(16世紀に発覚)
 エイレナイオスが世を去る前に、ローマの内戦によりルグドゥルムはセプティミウス・セウェルス帝によって廃墟とされてしまいます。(197年)エイレナイオスはその後五年間生存しますが、苦しい晩年を過ごしたことでしょう。
それでも、エイレナイオスの墓は宗教改革期までカトリックにより保存されていました。しかし、16世紀に狂信的改革者の手によってその墓が暴かれ遺骨は捨てられてしまいました。


 エイレナイオスは小アジアのスミュルナの生まれで、彼の知人にポリュカルポス(ca.70-155)もおり、この人物にエイレナイオスは若い頃に面識があったとのことです。ポリュカルポスの師パピアス(ca.60-130)は使徒ヨハネの弟子であると伝えられており、こちらの人物は小アジア・フリュギアのヒエラポリス市のエピスコポスに任じられておりました。

 西暦70年のユダヤエルサレムの滅びをヨルダン川の東の山地、デカポリスひとつペッラ市に逃れた使徒ヨハネは、イエスの母マリアを伴って小アジアのエフェソス市に落ち着き、ドミティアヌス帝(ティトゥスの弟)の迫害のころまでにはこのメシアの母の最期を看取っていたものと思われます。

 使徒ヨハネはおそらく十二使徒の中で最年少であり、近くのヒエラポリス市に住んでいた使徒フィリポより長生きをしたことでしょう。
 彼はドミティアヌス帝よりも長生きをしたため、パトモスであの驚異的な霊感を受けた後にエフェソスに戻り、福音書と三通の書簡をも残しました。

 パピアスやポリュカルポスは著書が少ないのですが、エイレナイオスの異端反駁はそれらを補う格好の資料です。

 したがってエイレナイオスは最後の使徒に近く、彼の著述には使徒の声が残響していたと言って過言はないでしょう。

 小アジアは後に(150年以降)モンタヌス主義の舞台となりますが、この主義の前の時代とは明確な区別がされて良いように思います。
 その理由は、エイレナイオスの時代には聖なる書への追加が禁じられ、使徒ヨハネまでの著述を以って、それもユダヤ人以外の著作が(ルカをヘレニストとして)一切認められなくなったことが挙げられます。

 エイレナイオス及び彼の世代は、云わば聖なる書を綴じる役割を担い、ユダヤ人のタナハを「旧約」(ラテン語ではなく)と呼び、使徒たちの世代の書物を「新約」と初めて呼ぶようにしたとのことです。
 エイレナイオスの功績は広く認められるところであって、それはカトリックで「聖人」とされるだけでなく、東方教会においても「リオンの聖証者イレネイ」また「二世紀の最も偉大な神学者リオンのイレネイ」と呼ばれています。


 小アジアの教父たちのもうひとつの特徴は「主の晩餐」にあります。
俗化した人々は週の第一日を主の復活を祝う日としましたが、これに対して小アジアの集団はユダヤ暦ニサン(アヴィヴ)の月の月齢14日の夜を年一回の晩餐として守っていました。より正確に言えば、ユダヤ人の祭りの前夜に主の晩餐を行っていたことを、彼と同時期に生きたエフェソスのポリュクラテスが書簡に記しています。
 この点、確かにイエスは自身の「死」を記念せよ、とは言い残していても、「復活」を祝え、とは命じておりません。

 しかし、一般人にとって記念よりは祝いの方が目出度く「祭る」に易いからか、復活を祝う「復活祭」に変容するのは時間の問題であったようです。
 キリスト教徒に反対し、迫害時に密告を繰り返してきたユダヤ人と日付を同じくしない気持ちを抱く人々によって、日曜日を「主の日」(キュリアケー)と呼んでシャバットと差別化しようとする動きが加速され、それは週日だけでなく毎年の「主の晩餐」にも影響してきました。

 しかし、一部のキリスト教徒にはエッセネ派にしたがって第七の月の十四日に主の晩餐を行なう人々もおり、十四日派はアジア州だけでなく、パレスチナ、シリアはもちろん、ローマにも同様の習慣を守るグループが存在したとのことで、「復活」を祝う人々と主の「死」を記念する人々が西暦162年にこの件でラオディケイアで討論していますが両者譲らず結論は出ませんでした。

 これは後においてもふたつの習慣に分かれて存在したのですが、太陽神崇拝者でもあったコンスタンティヌス帝の後に小アジアの伝統は消えていったようです。こうしてアンブロジウス以降、ローマ曜日の太陽日と呼ばれていた現在の日曜日がユダヤのシャバト翌日とされ、新設された「ミサ」の中で聖餐がサクラメントゥムの地位に登ります。これは一種の宗教上のエントロピーといえるものでしょう。

 この件に関するエイレナイオスの立場は、ローマのエピスポコス(「教皇」)ヴィクトルへの進言に表れています。


エイレナイオスの千年期説


エイレナイオスの聖書解釈雑録












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