Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑録19.8

・サムエル第一3:1『そのころ、YHWHの言葉が臨むことは少なく、幻が示されることも稀であった(まったく無かった)。』

 

年代記には64年に一人のローマ市民が何らかの不法行為をしたとして、アシアのプロコンスルによって鎖に繫がれネロの法廷に引き渡されている。

 

・エフェソスの第一人者でありローマ市民でもある、クラウディウス・アリスティオンは出身属州で暴力事件を起こしたが、プロコンスルによる審理を拒否して上訴し、トラヤヌスの法廷に出廷している。

 

・フローロスはローマ市民権を持つユダヤ人を暴動画策の廉で処刑している。

 

・ネロ帝の初期まで、キリキアはシリアのレーガートスの管轄に置かれ独立してはいなかった。

 

・Jクリュソストモスによると、月毎に開かれる民会は三種類あった。アテナイでも五週に一回開催される民会が三種類あったと。

 

・「定例民会」(エクレーシア)がエフェソスでも行われていたことはサルターリスの碑文から明らかである。

 

・ルシアスが支払った多額の金というのは、皇帝官房か属州官房の役人に支払われた賄賂である。この役人の仲介によって贈賄者の名が市民候補者名簿に載った。

 

・アキュラの出身はポントスであり、ローマに市民権を持ったユダヤ人が少なくないことは確かながら、彼や妻が市民であったかは分からない。

しかし、デルベ出身のガリオについてはその名から中部イタリアの名門の出である可能性が極めて高い。

 

・「義人ヤコブが主と同じ訴因で殉教すると、主のいとこであるクロパの息子であるシメオンが監督に立てられた。彼が主のいとこであったので、すべての者が彼を二代目に推挙したである。そのために、彼らはその教会を汚れなき処女と呼んでいた。むなしい言説に耳を傾けず、まだ堕落していなかったからである。ところがテブティスは、自分が監督に立てられなかったので、自分も属していた民の間の七つの異端を利用して教会を汚しはじめた。」(ヘゲシッポス 教会史4:22)エウセビオスはヘゲシッポスがヘブライ福音書やシリア語の福音書、またアラム語のものから引用しており、ユダヤ人信徒であったと結論している。

 

・エイレナイオスは、マルコが福音書を書いたのは、ペテロとパウロが去った後、ペテロの弟子で通訳のマルコがペテロの教えたことを書き残したとしている。反駁3:1:2

 

・120年頃、シクストゥスⅠ世のローマのエクレシアではローマ派と小アジア派の間で争いが起り相互に黙認することで一度は決着していたが、ポリュカルポスのローマ訪問で再燃することになった、その時にアニケトスの下にいたのがウィクトルだった。

 

ピエロ・ソデリーニ(父トマゾ)
終身正義の旗手 (ゴンファロニエーレ ディ ジュスティツィア)1502〜1512
八人のシニョーリアを率いる総裁。フィレンツェ共和制の要。
当時のイタリアは南にスペイン、西にフランス、北にオーストリア、東にオスマンの脅威があった。