Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

R.A.Dahl "On Democracy"

ダールの「デモクラシーとはなにか」
ここではラフに言うところの民主主義についてメモ風に書き出します。

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 国家の統治に参画できる人はほとんどいないという古来なされてきた主張にたいして、人々は少数者に政治を任せて安楽に暮らせるかといえば、著者はそのように人々が安楽であったことなど一度もない、そこには強制だけが残ったという。(p61)

 デモクラシーは残酷で凶暴な独裁者による統治を阻止する力になる。
1929-1953のイシオフ・スターリンの支配するソビエトでは推定2千万人が収容所で死亡したとされる。これとほぼ同数の人々がかろうじて生き延びたが相当な辛苦を味わった。
カンボジアのクメールは人口の四分の一を殺戮している。

しかし、民衆の政治といえども国境を越えた人々や居留者に不正や狂気に満ちた行為をすることがある。
これは、デモクラシーの道徳理念を自ら踏みにじることである。
こうした矛盾を解決する唯一の道は人権という普遍的な軌範を全世界が実質的に実現することをおいて他に無い。

 だが、民主主義の選挙でもマイノリティーに不利益が生ずることが避けられない。必ず誰かの不利益とならざるを得ない。
ただ、長期的にみて民主的手続きの方が権利や利益を損なうことが、どちらかといえば少なくてすむという程度である。

 もし。市民に政治的参画を保証したとするなら、それはデモクラシーになるだろう。人の権力の乱用から自分を守るのは、自ら政府の行いを決定することに全面的に参画できる場合だけである。(p72)


 人間は必ず自分がしたいと思うことと、他人がしたいと思うことが衝突する。そこで、力ずくで他人に自分の思うことを押し付けず、平和的に妥協する方法を探すべきだ。
 しかし、全員一致ということはほとんど期待できない。それでも民主的に法が決められるのが、ある程度は自己決定の自由を行使できていることにはなる。

人間というものが単にエゴイズムの尻尾を残しているだけでなく、エゴイズムそのものをもっているということを教えられる。
 だからといって別にショックを受けるほどのことではない。つまり、わたしたちは、みんな程度の違いはあっても、他人の利益よりも自分の利益に関心があることがふつうなのである。

 確かに、大きな権力をもつ人物や集団が皆が反対してもそれを押し切り、死体を越えてまでも自分たちの本質的優越性の主張を実現することができる。人類の歴史全体を通じて権力を濫用した例は数限りなくあった。

 けれども、むき出しの強制力の行使には限界があるので、宗教・伝統・イデオロギーなどのはなやかな行列や儀式を用いて覆い隠し、自分たちの主張の根拠のなさを見透かされないようにしてきた。
 しかし、もしあなたが彼らの本質的優越性なるものを拒否できる立場にあるなら、こうしたばかげた原理に同意することはないだろう。(p94)


政治は科学ではない。物理や化学、薬学のようでさえない。
その第一の理由は、倫理的判断が必要とされるからである。
政府の政策が実現すべき目標について決めることは即ち倫理的判断を下すことである。そして倫理的判断は科学ではない。

 経済的平等を実現すれば刺激が損なわれる。高齢者の税負担を減らせば現役世代の足かせとなる。現世代の歳出を増やすと、次世代への負担を避けられない。自然環境を優先すれば鉱業に仕事がなくなる。
 このようにそれぞれがトレードオフの関係にあるときに、その判断を科学的に下すことなどできない。

 そのうえ、目標において賛同を得ても、その方法についても賛同を得られるかはわからない。
 例えば、貧困をなくそうとし、子供の福祉を省み、国防にも手を抜かないために科学的知識をもっている集団はなく、そのような集団を作り出すことも不可能であろう。(p98)

一国の政治をうまく機能させるためには知識以上のものが必要である。
 まず、誘惑がいかに強かろうともそれに手を染めないこと。
 近親者の便益ではなく、常に公共善の実現に邁進する態度。
しかし、アクトン卿が1887年に言ったように「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」。
 ウイリアム・ピットも「無制限な政治権力は、その権力の所有者の心を腐敗させる」。と言っている。

 フランクリンは「諸君!人間のありかたを左右する情熱にはふたつのものがある」。「野心と貪欲、そして権力欲と金銭欲である」。(p100)


 子供には「個人的自治」は許されない。しかし、成人ならば充分に個人的自治を与える価値があるだろうか?
 これを国政に当てはめると、大部分の成人には国政に参加する充分の能力があるのだろうか?という問いになる。

 誰一人として統治を行なう能力が明らかに優れた人がいないために、全員が一国の政治に対して全面的な権限を委ねた方がよいのだとすれば、法に服さなければならない成人以外に参加の権限をより多く与えるべき人はいない。
 また、参加を認められていない成人たちの基本的利益は充分に保護されることはない。この点J.S.ミルは1861年に労働者階級が参政権をもたないために自分たちの利益を表明できていない、と述べている。