Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

信徒と聖徒

 初代期のエルサレム市のイエス派の会衆が最初にギリシア語「エックレシア」([ἐκκλεσία])と呼ばれるようになったとのことです。

 これは字義的に「外に呼び出された」を意味し「召しだされた」人、またその集まりを指していたといわれます。
 これを念頭に訳すとすれば「招会」とする翻訳に自分としては賛意を持てます。

 さて、「教会」("church")は会堂と会衆を含んだ言葉で、原初期のキリスト教にはない概念と言えます。語源としてはκυριακος(キュリアコス)「主の」に由来するとのことですが、これは「聖徒」がキリストと共に神殿を構成するという教理から来たものでしょう。

 二世紀以降、聖霊の降下が停止し、聖徒と信徒の区別が不可能となったので、エックレシアの信徒の全てがキリストと共になるものと教えが変容されていったことは、今日の「教会」のほとんどがそのように教えていることからも明らかでしょう。

こうした聖徒と信徒に差異を含まない教えは第五世紀のアウグスティヌスにおいて動かし難い基礎となって宗教改革期以降も存続してきました。
 それで、今日のキリスト教の大半は依然、その礎の上にあります。

 この混同は聖霊の下賜が絶え、パラクレ−トス(助け手)が去ったあとのエックレシアには避けがたいものであったと容易に想像できます。

 しかし、この混同は「エックレシア」が正に「召しだされた者」という本来の意味を損ねるものとなったように見受けられます。

そればかりか、聖徒を理解するなら本来簡潔な肉体と罪の問題や、新しく生まれること、また天界での霊体への変化、聖霊の内在などがプトレマイオス的に煩雑で不明瞭な哲学的論理を必要とするまでになってしまいました。

 つまり、水のバプテスマは人の側からのエントリーであるのに対して、聖霊バプテスマは人の努力や意志の及ぶところではありません。「聖霊の賜物」は到底人間の関わるものではないことは明らかではないでしょうか。


 聖霊の下賜が絶えて既に千九百年が経ようとしていますが、今日まで明瞭に、且つ初代期と同様の方式で聖霊の賜物を受けた人々の集団、即ち「聖徒」たちを見ることはないと言ってよいでしょう。


 しかし、将来についてはこの限りではないと信じます。
 聖徒が誰かになるのかはもちろん、それがどのような人々なのかも現在のところ分かりません。

 ただ、彼らが『王や高官の前』つまり為政者の前に連れ出されることは予告されております。彼らこそ祭司と王を兼ねるという彼らのキリストの様に与る人々であり、彼らの「王」という側面ゆえにこそ為政者の前に引っ立てられる理由があり、キリストと共に『征服』に乗り出しますし、『朽ちる肉体』を解くゆえに主の晩餐を共にするべき理由があります。


 彼らは死に至るまで試され『銀を精錬するように』象徴的レヴィ族として浄化されることでしょう。それは彼らが人類の「祭司」としてだけでなく「統治者」として偽善や不義から遠く離れようと努める証しであり、『自らの魂を捨てようとするなら、それを見出す』人々であり、彼らには『証印』が押され良質な『小麦』として倉に納められるでしょう。


 これほど畏怖すべき事柄に対して、信徒を聖徒[ἁγιος]と同列に置くということはなんと恐るべきことでしょうか。その点「教会」という言葉は方便ではあっても、無頓着で暢気な印象を受けます。

 初代期のエックレシアでは構成員の大半が「聖徒」であったようですが、それでもパウロの書簡類の挨拶には、この両者を区別する例があり、コリント人への第一の手紙、エフェソス人、コロサイ人などにそれがあり、当時のエックレシアには両者が共に集まっていたことの証しのように見えます。

 水のバプテスマを受けた者がすべて聖霊の「灌油」を受けるわけではないと云える理由に、パウロの右腕として働いたテモテほどの人物ですら年長者たちから按手を受けるまで聖霊の賜物が無かったことを付け加えることもできるでしょう。



 余分なことは行なわない-それが聖書の神の物事の扱い方であります。
今日、聖徒は現れないとしても、それは一向問題にはならないでしょう。
それが必要な「時」に至っていないからです。

 しかし、ひとたびその時が到来すれば、キリストの不在が終了し、その臨御の間に「聖徒」が聖霊の灌油を受けて語り始めることでしょう。


 すべての創造物は『神の子の顕し示されることを待ち望む』のであり、『主人は遅い』と宴会を始める理由はありません。




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